ここ から 三原 駅 まで。 広島の駅/備後

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祭から一夜明け、早朝の尾道駅は、昨日の喧騒がうそのような静けさだが、なんとなく昨晩の熱気の余韻を残している。 ・まずは、昨日の祭の舞台である 住吉神社 に向かう。 商店街は、昨夜も歩いた山陽道だ。 途中、昨日も見たのだが、街道の南側の広場の所に 奉行所跡の石標 がある。 この辺りに 一里塚 もあったようだ。 昨日歩いた辺りまで商店街を戻る。 新たに郵便局辺りが 枡形 になっていることがわかった。 奉行所跡 ・住吉神社の近くの尾道商工会議所前広場の東の堤防に、尾道の歴史の要点が書かれているのを見付けた。 項目ごとに、簡にして要を得た韻文調の素晴らしい文章で説明されており、思わず引き込まれた。 これを読むと尾道がどういう町だったのかがひと目でわかる。 内容を要約すると以下のとおり。 慶應元年(1865)には年4回、一枚二分、一等千両で、「上は大阪 下は馬関」から買い手が来て「喧騒雑踏足の踏み場もない」ほど賑わった。 このほか明治24年開通した山陽鉄道敷設では警官隊が出動する騒ぎになったこと、平成11年しまなみ海道開通のことなどが書かれている。 住吉神社 ・ 住吉神社 では、たまたま昨日からの祭りの最後の儀式の準備が行われており、幸運にも宮司さんにお話を聞く機会を得た。 住吉神社は、もともと浄土寺にあったが、尾道の町奉行に着任した奉行 平山角左衛門 が、寛保元年(1741年)に住吉浜を修築した際、港の守護と繁栄を願って、この場所に移設したとのことだ。 境内には、平山角左衛門の顕彰碑もある。 昨夜の花火大会は、その平山奉行の功績を称えるためと、住吉浜の海産物問屋の旦那衆が商売の繁盛と海上交通の安全を願って、江戸中期頃から始められたもので、「西の両国花火」とさえいわれた華やかな花火祭だ。 海上渡御 についてお聞きすると、提灯による飾り船3隻、御神体神輿を乗せた御座船、それに篝火船の5隻が住吉神社前を出発し、古式ゆかしく尾道水道を渡御するそうだ。 境内にある 力石 は、浜の仲士の二つの組合が力比べをしたものだという。 光明寺には横綱陣幕久五郎の墓もあると教わった。 住吉神社力石 ・山陽本線の北側にあるその 光明寺 に行ってみた。 入口左手に市指定天然記念物の名木 「蟠龍の松」 (ばんりょうのまつ)がある。 横に長く続いており、目を見張るものだ。 本堂の前、左手に 横綱陣幕久五郎夫妻の墓 がある。 出雲の出身で、尾道の力士 初汐久五郎 に弟子入りし、のちに大坂、さらには江戸に出て、幕末に第12代横綱になった。 蟠龍の松と横綱陣幕久五郎夫妻の墓(左端)(右端は初汐久五郎の墓) ・ 菅茶山の碑 への案内板があるので、矢印に従って、横の路地を歩き、「西土堂ポケットパーク」に行ってみた。 神辺の廉塾にある方円の手水鉢になぞらえた四角と丸の石碑に、神辺宿の菅茶山の尾道訪問と愛弟子 玉蘊 (ぎょくおん)との再会や油屋での文人の集いのことが書かれている。 商工会議所の広場の堤防に書かれていた内容だ。 方円の手水鉢とは、「水は方円の器に随う」に由来している。 菅茶山の碑 ・次に 持光寺 に行く。 石の町尾道にふさわしい堂々たる構えの 石の門 が特徴的だ。 国宝「絹本著色普賢延命像」を所蔵しているという。 境内には、頼山陽や菅茶山と親交のあった 女流画家平田玉蘊の墓 があり、案内板もある。 これによると、頼山陽と婚約までして実らなかった。 名木「臥龍の松」 の切り株が「無常の理」を教えている。 持光寺石の山門(左)女流画家平田玉蘊の墓 ・持光寺の門を出た所に、 「二階井戸」 と呼ばれる珍しい井戸がある。 坂道の上にいる人が、下にある井戸の所まで下りていかなくてもいいように、綱を長くして引き上げられるように工夫されている。 坂の町尾道ならではの生活の知恵に感心する。 二階井戸 ・最後に 海福寺 にも参拝する。 お堂の左に 「三つ首様」 という祠に入った墓がある。 文政11年(1828)頃、尾道地方に三人の盗賊がいて、常に貧者に施しをしていた。 三人が捕えられ、処刑された夜、この寺の住職の夢枕に三人が現れ、「我々三人の首を埋葬供養されたら首より上の病を癒すであろう」と告げた。 住職は三人の首を本堂横に埋葬し、三人の戒名を刻み供養し、それよりお参りの人が絶えないということだ。 海福寺三つ首様 ・さて、そろそろ本来の山陽道に戻らないといけない。 分岐点は、商店街の西の端、 林芙美子の銅像 のある場所だ。 商店街の西の端に昨日から気になっていた 「喫茶 芙美子」 があるので入った。 この喫茶店の奥庭の前に 林芙美子が少女期を過ごした家 がある。 一歩は西武新宿線中井駅近くにある林芙美子の家(林芙美子記念館)を訪れたことを突然思い出した。 林芙美子が少女期を過ごした家 ・商店街の西の端、 林芙美子の銅像 をもう一度見る。 「海が見えた 海が見える 五年振りに見る 尾道の海はなつかしい」という 「放浪記」 の一節が刻まれている。 早速「放浪記」を図書館で借りて読んでみると、その何行目かあとに「気の弱い両親をかかへた私は、当もなく、あの雑踏のはげしい東京を放浪してゐたのだけれど、あゝ今は旅の古里である尾道の海辺だ。 」と続く。 「旅の古里」という言葉が気になるが、「放浪記」の冒頭には「私は宿命的に放浪者である。 私は古里をもたない。 」「故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。 」とある。 この尾道で少女時代を過ごした時も、「此町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」(「風琴と魚の町」)と海辺の町へ降りたのが始まりだった。 昨日志賀直哉旧居にも行ったが、志賀直哉も生涯23回引越しをしている。 実は、一歩も今までに22回引越しをしている。 それだけに「旅が古里」という林芙美子の言葉が胸に響く。 志賀直哉に林芙美子・・・。 尾道の町は、一歩を感傷的にさせる何かがある。 林芙美子の銅像 ・林芙美子の銅像のある場所の前にある踏切を渡って、北側に出て左折、右手に 薬師堂 がある。 尾道駅北口前には 石井耳鼻咽喉科 の大正ロマンを思わせる建築がある。 石井耳鼻咽喉科 ・尾道駅北口前の先で、はたと困った。 「ひげの梶さんと西国街道を歩こう!」(梶本晃司著)では西に向かって直進するようになっている。 しかし、 というホームページには、ここから先、 テルミー美容院 までの間は、江戸時代は海岸線が入り込んでいたので、北の山に迂回し、 七曲 と呼ばれる道だったとある。 どうもこちらの方が正しそうだと思った一歩は、「西国街道を行く」に従って、右斜め前に入って行く。 ・ 「三軒家」 という町の情緒ある家並みが続く。 右手には創業安政元年( 1 854)の 酒屋「吉源」 があり、風格ある建物が歴史を感じさせる。 銘柄は「寿齢」。 「吉田源右衛門」の表札も見られる。 酒屋吉源 ・その先、広い十字路から真っ直ぐな道が 「日小橋」 に突き当たり、 栗原川 を渡る。 ・その先、坂道の上に 日比崎小学校 がある。 坂道の途中には左手に地蔵尊がある。 「西国街道を行く」によると、道は、日比崎小学校の校庭の端を通っていたと書かれている。 セミが間断なく鳴いている。 ・ちょうど、参議院議員通常選挙の投票日(一歩は期日前投票を済ませている。 )で、日比崎小学校の校庭に来ていたおじいさん二人に話を聞いてみた。 その結果、次のような話が聞けた。 南にある小学校のプールの上の山と北の端の山とがつながっていて、その尾根筋が街道だったのではないか。 ・そこで、一歩は、校庭を横切ってプールの方まで行ってみたが、そこからは出られないし、上の山に通じている道もない。 日比崎小学校の校庭北側(左)と南プール側 右 ・やむなく日比崎小学校の校庭の西の出口から出て、坂を下りて行く。 一歩はこの時点で、「西国街道を行く」のこの部分の を見ていなかったので、それから先が大変だった。 プールの上の山も気になるので、注意して見るのだが、実際下りて行く道は経路が一つしかなく、山からは少しずつ離れながら曲がりくねって下りて行く。 まさに七曲だと思いつつ、見事な臥龍松のある家の前を通って行くと、やがて、右手に 「大窪寺」 と書かれた小さな祠があるのを見付けた。 ひょっとしたら旧道の証かもしれないと思う。 すぐ先が 十字路 になっている。 まず、左(東)に行く道が気になった。 「日比崎中学校」と書かれた看板があり、矢印で左を示している。 「まさか?」地図で見ても日比崎中学校は日比崎小学校の西にあるはずで、方角がまるで反対。 しかももっと上の方のはずだ。 この時点で一歩は、完全に方向感覚を失ってしまった。 この看板の意味は今もってわからない。 日比崎中学校の矢印のある十字路(本来ここを西(写真手前)へ) ・次に十字路を右(西)に行く道が気にかかる。 「西国街道を行く」は、一歩と反対に、三原から尾道へ向かって歩いているのだが、 テルミー美容院 の小さな路地から入るので見失わないようにと書かれている。 テルミー美容院が一体どこにあるのか。 もう少し右(西)のような気がするので、ここを右に行こうかとも思ったが、間違えた時のダメージが大きそうだ。 とりあえず、下まで直進して下りて、あらためてテルミー美容院を探して、下から上がって来る方が確実だと判断した一歩は直進した。 ・古い街道らしい道が東西に走っているのに突き当たる。 すぐに通りかかった人にこの道は古い道かと聞いてみたら、これこそ参勤交代の道だと最初答えた人が、いろいろ聞いているうちに、この辺りは山陽本線が出来るまでは海だったという。 しからば、旧山陽道は、と畳み掛けると、もっと上の方を通っていたらしいがよくわからないとのこと。 テルミー美容院はもっと西だそうだ。 ・やはり、テルミー美容院を見つけて逆にたどるしかないと判断した一歩は、この道を西に向かって歩き始めた。 途中で地図を見ながら立ち止まった一歩を見かねたのか、店の人が出てきて、「何かお探しですか」と、声をかけてくださった。 テルミー美容院ならこの先だが、そこから通じている道はこの前の道をまっすぐ北に上がって行った 常夜燈 がある所に通じているからそこまで行った方が近いという。 ・なるほどと、一歩は、すぐそれに従って行ってみた。 それなら、その先、尾道へ向かう道ももう一度探索できる。 ところが、 常夜燈 (「明治八年」の銘)はあるが、その横に道があると思っていたら、ないではないか。 西横には天理教があり、その上なら西に通じる道がある。 東へ行く道は常夜燈の下の方にある。 また、常夜燈の上の方に二股の道がある。 ただ、救いは、右手高台に見える 天満宮 だ。 行ってみると、鳥居には江戸時代中期「寛延三」(1750)の年号が刻まれている。 年輪を刻んだ大きな松もある。 これなら、江戸時代から存在したことは確かだ。 ここをキーポイントに、この辺りに街道があったはずだ。 そこまで推理した一歩はこの周囲の、道という道をすべて歩いて、迷路にはまってしまった。 天満宮 ・とくに 常夜燈の下の道 を右へ行くと、問題の「日比崎中学校」と書かれた看板のある 十字路 に出てしまい、さらに東に行ってみたが、狭すぎる路地となってしまう。 さっき道を聞いた人の話では、旧道は日比崎小学校よりも南の 「みくに幼稚園」の前 を通っていたのではないかという人もいた。 方向としてはこの方向だ。 しかし、とても街道という雰囲気ではない。 その間、北に向かっては、急坂で、アップダウンが激しく、上ったり下りたりしているうちに、おりからの暑さで完全に体力を消耗してしまった。 人にも聞いてみるが、誰も知らない。 常夜燈(右電柱の奥)の南の一方通行の矢印の道を東(右)から西(左)へ ・こうなったら テルミー美容院 への道を探すしかない。 天理教の上の西に入る道を入って行くと、左に曲がって行き、その先の十字路はいかにも狭い道だ。 位置を確認しようと、左に行ってみると 「尾道家電」 の前を通って、さっき下から上がってきた道に出た。 常夜燈がある道だ。 もう一度天理教の上まで行って、たまたまいた女性にテルミー美容院への道を聞いた。 女性に道を聞くなというのが一歩の法則だが、美容院への道ならいいだろうと思ったからだ。 その女性は、親切に道を教えてくださった。 どうやら「尾道家電」の前の道をどこまでも西へ行けばよいのだ。 そして、これこそが山陽道だったのだ。 この道を西に行くと、さっきの狭い十字路に出て、その先を直進して、広宮建築設計事務所の前を通り、狭い路地のような道を行くと、突き当りを道なりに左折する。 ついに テルミー美容院 の脇に出た。 テルミー美容院の脇(ここに出て西(前方)へ) ・やれやれ、やっと 七曲の探索 が終わったが、完全に腑に落ちたわけではない。 家に帰って、「西国街道を行く」のこの部分の を見てみた。 これによると、尾道側からの道は、次のとおりだ。 日小橋で栗原川を渡り、日比崎小学校の校庭の北の端を通り、西側の出口から出て坂を下りて、大窪寺と書かれた祠の先の左手に「日比崎中学校」と書かれた看板のある十字路を右折して、天理教や常夜燈の下の十字路をそのまま突っ切って、尾道家電の前を通り、狭い道をたどってテルミー美容院の前に出る。 これなら、何度も試行錯誤を繰り返しながら、一歩が一度はたどった道になる。 「みくに幼稚園」の前を通る道は、明治以降の旧国道だったらしいが、江戸時代からあったのかは不明だ。 ・どっと疲れを感じながら、道を急ぐ。 急ぐと言っても、この猛暑なので、そんなにスピードが出ないし、熱射病の危惧もつきまとう。 ・その先右手に 地蔵堂 があり、その先右手にも 地蔵堂 がある。 ・左に曲がる右手、山の崖に掘られた祠に 地蔵尊 がある。 その下にも 地蔵堂 がある。 山の崖に掘られた祠の地蔵尊 ・その先、右手高台にある日比崎公民館の横には 稲荷神社 がある。 ここに上るのも結構疲労した。 ・さらに先、右手の山肌にも、岩を穿って 地蔵尊 が祀られている。 岩を穿って祀った地蔵尊 ・尾道バイパスを陸橋で越えて、右に曲がって、左に曲ると、右手吉和小学校の横を通る。 ・その先、右手に 茶堂大師 があり、 吉和川 を 茶堂橋 で渡る。 ・吉和郵便局を過ぎて、左手に 鳥居 がある。 一瞬躊躇した。 しかし、やはり行ってみることにした。 道は上りになっていていやな予感がする。 道端の人に聞いて、遠いと言えばやめようと思ったが、返事は「この先」。 ここまで来たら行くしかない。 予感どおり、さらに高台に 八幡神社 がある。 眼下に瀬戸内の景色が目に飛び込んできた。 さすがに見晴らしはいい。 因島大橋も見える。 しかし、とにかく疲れた。 熱射病対策に効果的というので、靴まで脱いで、水分補給をして、たっぷり休憩を取った。 八幡神社からの景色 ・再び街道に戻り、上り坂を歩く。 この先は、 大人峠 になるので、難所が予想される。 昼食をとる店もなさそうなので、パン屋さんに入って、パンを買い、飲み物を買い求めた。 昨日から食欲もない。 パン屋さんで、「この先大人峠というのがありますか。 」と聞いてみたら、そんな名前は聞いたことがないという返事だった。 ・冷たい飲み物で、血液が循環する脇の下と首筋を冷やしながら、再び歩き始める。 ・まもなく尾道バイパスの陸橋にさしかかり、橋を渡って左折する。 どうやら峠はこの辺りで、ここからは下り坂になりそうだ。 と、いうことは恐れていた 「大人峠」 は思ったほど大したことはなかったということだ。 ・すぐ先右手に 「大人峠一里塚跡」 と書かれた新しい石標がある。 側面に「三原市内の一里塚四ヶ所の最東端」と書かれている。 ここはちょうど尾道市と三原市の市境になっていて、右の塚は三原側、左の塚は尾道側にあったらしい。 大人峠一里塚跡 ・右手にこんもりとした 鳴滝城山 が見える。 鎌倉末期から戦国時代にかけての城跡である。 近年の山火事により焼失し、岩肌がむき出しになっているのが無残だ。 鳴滝城山 ・農作業をしていたおばさんに「この辺りは、 大人峠 というのですか。 」とさっきと同じ質問をしてみたら、答はさっきと同じく大人峠というのは聞いたことがないとのこと。 しかし、さっきの一里塚の石標には間違いなく「大人峠」と書かれていた。 ちなみに手元の「五街道細見」では 「福地峠」 と書かれている。 ・その先、右手吉和分団器具庫の裏に 祠 が二つと一対の 常夜燈 がある。 ・緩やかな坂道を下って行くと、 福地の集落 になる。 左手に 石仏 がある。 朝顔がきれいだ。 福地の集落 ・集落が途切れる辺りに 福地のバス停 がある。 一歩は、今回の旅の前に、初日は松永から尾道までだと、少し距離が短いので、もし、歩くとすればこの辺りまでかと、ここのバス停はチェックしていた。 しかし、松永のはきもの博物館で時間をとり、尾道は見所が多く、暑さと坂道とで疲れ、花火祭もあったので、結果としては、とても及ばなかった。 ・その先は、坂道を下りて行く。 ・国道2号とほぼ接する地点に、 踏切 がある。 最初は当然この踏切を横切るのが旧道と思った。 しかし、よく注意して見ると、踏切の名前は 「木原踏切」 、渡った所にある国道2号の信号は 「木原町」 だ。 頼りにする「ひげの梶さんと西国街道を歩こう!」には「丸山踏切」、「丸山信号」と書かれているので、ここではない。 ・・・と、この時点では判断した。 その先の線路沿いの道は、あろうことか、上り坂になっている。 その先の踏切も「小川踏切」と書かれているので違う。 その先は、今度は右に曲がっている。 大きく右に迂回してやっとたどり着いた次の踏切の名前は「内畑踏切」、国道の信号の名前は、なんと、 「木原町内畠」信号 だ。 「ひげの梶さん」の地図では、明らかに先に来過ぎている。 同じ道を引き返すのでは能がないので、踏切を渡り、東の方から来て「木原町内畠」信号で国道2号に合流する旧道を逆にたどってみる。 こういう時に引き返すのは、どっと疲れが出る。 地名、とくに目印になる地名は正確に書いてもらいたいものだ。 さんざんお世話になっている「ひげの梶さん」には悪いが、一歩のホームページは、この点に関しては細心の注意を払い、正確を期しているつもりだ。 木原踏切 ・さっきの 「木原町」信号 に戻る。 一歩の性格として、最初からやり直さないと気がすまないので、 「木原踏切」 を渡ってもとの地点に戻ろうと思った途端、ご存知一歩の法則、「遮断機は渡る時が下りる時」があてはまった。 電車の通過を待って、踏切を渡り、写真を撮って、再度地図と見比べているうちに、なんと、再び一歩の法則、またも遮断機が下りてしまった。 ああ無情。 ついてないときはこんなものだ。 ・やっと木原踏切を越え、国道2号を渡り、右折して、ほんの数メートル国道2号を行くと、左斜めに入って行く。 海岸線沿いの旧道を暫く歩いて再び 「木原町内畠」信号 に戻る。 ・少しの区間国道2号と合流する。 右手に 厳島神社 の常夜燈が見える。 線路の向こう側なので行きたくても行けないので遥拝にとどめた。 ・その先、国道2号を右に分け、左斜めに入って行く。 ・暫く行くとやがて、国道2号の 「観音寺下」信号 に出る。 道は、ここで、国道2号を横切って北側に出るが、その前に 観音寺 に参詣することとする。 観音寺は、「和木1踏切」を渡って、北に直進し、急坂道を上がって行く。 やれやれ、またも上り坂だ。 ・息を切らして急坂を上り、やっと 観音寺 にたどり着いた。 境内から一面に瀬戸内の眺望が開け、苦労が報われたような気がする。 手前に大鯨島、小鯨島、向こうには因島大橋が見える。 鐘楼の西に 石造五重塔 がある。 沼田小早川家 の嫡男を立てようと、 小早川隆景 の沼田小早川家の相続に反対して殺害された沼田小早川家の重臣 田坂善慶の子頼賀の墓 だそうだ。 忠臣は、権力者が変われば逆臣となる。 どちらがよかったかを判断できるのは結果のみだ。 戦国武将毛利元就の三男隆景は、竹原小早川家の養子となり、さらに沼田小早川家を相続して、両小早川家を統一し、三原へ築城した。 戦国随一の智将といわれた小早川隆景の台頭の陰に、このような悲劇があったのだ。 鐘楼の鐘は自由におつきくださいと書かれているので、つかせてもらったが、いい音が瀬戸内海に響き渡る。 観音寺からの瀬戸内の眺望(左)石造五重塔(右) ・「観音寺下」信号に戻り、国道2号を左に分けて、右斜め前方に入って行く。 ・右手山陽線のガードの入口に 「鉢ケ峯 虚空蔵 一粁五〇〇米」 と刻まれた半分傾いた 道標 がある。 鉢ケ峯の8合目にまつってある虚空蔵菩薩が知恵を授ける仏像として深く信仰されており、4月の第2日曜日の大祭には、毎年近郊から約1万人の人出で賑わうといわれている。 道標の側面には糸崎駅まで3kmと書かれている。 ・その先、「赤石」バス停で、再び国道2号と合流する。 左手は海岸線、右手は山陽本線の線路だ。 ・右手に 延命地蔵尊 がある。 ・左手に瀬戸内海を見ながら、延々と道は続く。 左の景色はいいのだが、なんといっても国道2号なので、車がひっきりなしに通る上に、やや曇っているとはいえ、真夏の暑さがこたえ、快適な道とはいえない。 瀬戸内沿いの道 ・「糸崎神社東」バス停を過ぎ、「六本松3」踏切を渡らずに通過すると、道は二股に分かれ、国道2号を左に分けて、右斜め前方に行く。 ・これで、海が見えなくなるが、この辺りの海には、 「たくろう火」の伝説 がある。 昔、この長井浦から沖を見ると、佐木島から蒲刈瀬戸の辺りにかけて夜明け頃、波間に火が燃えるのが見えたので、長井浦の人たちはこれを焚朗火 たくろう火 と名づけたという。 たくろう火の伝説地付近 ・さっきの二股を右に行ってすぐ、右手に新しい 「六本松一里塚跡」碑 がある。 側面に「東方約50m鉄路内」とある。 尾道から二つ目、二里の一里塚である。 六本松一里塚跡 ・その先、右手の森は、 縣社糸碕(旁は竒)神社 だ。 表記方法は、境内の案内板でさえ様々だが、入口の石碑及び拝殿の扁額の表示は、石編の「糸碕(旁は竒だが、ネット上表記できない。 )神社」となっている。 入口にずらりと並ぶ石碑の一つに 「本因坊秀策師之碑」 があるのが一歩の目を引いた。 江戸時代末期、江戸城お城碁19戦全勝の記録を残す囲碁の名人だ。 因島出身とあるが、出身までは知らなかった。 長井の浦万葉歌碑 もある。 「可敝流散尓 伊母尓見勢武尓 和多都美乃 於伎都白玉 比利比弖由賀奈」(帰るさに 妹 いも に見せむに わたつみの 沖つ白 しら 玉 たま 拾 ひり ひて行かな)と書かれている。 この一帯は昔から海上交通の要衝の地で、長井の浦と呼ばれていた。 側には 梁川星巌の漢詩碑 もある。 本因坊秀策師之碑(左)長井の浦万葉歌碑(右) ・ 糸碕(旁は竒)神社神門 は、三原城内にあった侍屋敷門の一つが移設されており、三原市重要文化財だ。 糸碕(旁は竒)神社神門 ・境内右手に 御調井(みつぎい) があり、案内碑に「昔、神功皇后この長井の浦に御舟を繋がれし時、村長木梨真人この井の水を汲み献上した、との口碑により御調の井という。 」と書かれている。 境内左手には、樹齢約500年、市天然記念物の 巨大なクスノキ がある。 大きさに圧倒される。 とくに根元の肥大が著しく、巨大なこぶのようになっているのが印象的だ。 三原市教育委員会の案内板には、この木の説明と、糸碕(旁は竒)神社が天平元年(729)の創建であることのほかに、「神功皇后が西行のみぎり、船をこの地に寄せられたとき、水を献じたという事によって、この水を御調の水といい、後にこの地を長井の浦または井戸崎(後に糸崎)というようになったといわれる。 」と書かれている。 糸碕(旁は竒)神社御調井(みつぎい)と社殿(左)巨大なクスノキ(右) ・その先国道2号と一旦合流するが、上り坂になっている国道2号と並行してその右に街道らしい道があるので、こちらを行く。 右手に祠があり、「 神功皇后船繋之松御旧蹟 通称 下り松 又 夜啼松 と云ふ」と書かれた石碑がある。 この松は、神功皇后が西行の途中、この地に立ち寄った時に、船をつないだ松といわれている。 夜啼松というのは、この松の木片をとってそれに火をつけ、夜泣きをする子どもに見せると、夜泣きの癖が止まるといわれ多くの信仰を集めていたからだ。 実際にその霊験を得られた京都の岩倉家や薩摩の島津家から奉謝の題字や絵馬が糸碕神社に奉納されているそうだ。 かつて、この松は大きく伸び茂り、その大きな枝は道をへだてた海の方にまで垂れ下がっていたといわれる。 現在は、枯れ木の幹だけが祠の中に祀(まつ)られている。 神功皇后船繋之松御旧蹟 ・その先国道2号の下をトンネルでくぐって、反対側に出る。 暫くは右手の国道のコンクリート擁壁と並行して進む。 左手に 安藤酒店・ストア があるので、アイスキャンディを買いつつ、道を聞いた。 ここを左に行くのが旧道で、昔バスも通っていた。 直進する道は新しい。 その先、中原パーマ屋さんを左に行けばいいと教わる。 安藤酒店・ストア(ここを左折写真前方へ) ・教わったとおりにここを左折、突き当りを右折する。 ちょうど注連縄をはずしているおじさんがいたので、聞いてみると、近くの住吉さんの祭りが昨日あったとのこと。 「尾道でもありましたね。 」と言うと、途端に機嫌が悪くなったのがおかしい。 ・道は左手に小公園のある所で、さっき通ってきたコンクリート擁壁の道の延長に出る。 少し戻るような場所、線路側に 井戸と地蔵堂 、小公園から出た右手線路側に 3つの地蔵堂 、その先の線路側にも地蔵堂がある。 この辺りで、にわか雨が降ってきたので、日傘を雨傘に持ち替えて、公園の電話ボックスに行き、雨宿りしながらアイスキャンディを食べた。 他にいい雨宿りの場所が見つからなかったからだ。 三つの地蔵堂 ・雨も小降りになったので、教えられたとおり、少し先にある中原パーマを左折し、右に曲って、再びコンクリート擁壁の道の延長に出て、跨線橋を渡る。 地図を見つつ歩いていると突然目の前に車が現れたのでびっくりした。 歩行者専用ではなかったのだ。 この頃にはすっかり雨も上がり、再び雨傘を日傘に持ち替える。 忙しいことだ。 跨線橋を渡って国道2号へ(おっと危ない車が!) ・山陽本線の北側に出た道は、再び国道2号と合流して、西に向かう。 三原市糸崎町歩道橋の道路標識に「三原市街3km 東広島42km 広島77km」と書かれている。 今日は三原駅までとしようと思っているので、あと3kmだ。 ・その歩道橋の先の二股を左斜め前方に行くと 糸崎駅前 に出る。 ・ここで再び国道2号と合流、三菱病院前を過ぎて、左手のガソリンスタンドで国道2号を右に分け、左斜め前方に行く。 ガソリンスタンドを左前方へ ・三原バイパスの下を通ると、右手に 金重稲荷 がある。 ・その先、山陽本線の東町踏切を渡る。 ・すぐ先、三原バイパスの橋脚の下に二股があるので、ここを左斜め前方に行く。 少し行きかけて、すぐ引き返し、 東惣門跡 を探したら、二股を山陽本線沿いの道の方に行きかけた左手に 「三原城 東惣門跡」の碑 があるのを見付けた。 側面には「正場所南十米」と書かれている。 と、いうことは、さっき引き返した旧道沿いにあったということで、間違いなさそうだ。 三原城東惣門跡(左)(碑(右)は10m北に) ・再び二股に戻り、左の旧道を行く。 千本格子の家が見られる古い町並みだ。 右手に 大師堂 があり、手前の 地蔵 の台座に「宝暦九」(1759)と刻まれている。 ・その先、緩やかに右に曲がり、山陽本線の下をくぐると、右手に 祠 がある。 ・さらにその先、山陽新幹線の下をくぐると、右手に 「太神宮」 と書かれた祠がある。 ・その先、カラー舗装された道が左に曲がって続いている。 その曲がり角の右手に 熊野神社 がある。 参道が長く、石段下の 鳥居 には「安永五」(1776)の銘が見られる。 石段を上りつめた高台に本殿がある。 「籠怒(かごぬ)神社(熊野神社)」 と書かれた案内板には、元和五年(1619)紀伊より浅野忠吉公が三原城主として入府されたとき、その水手(さきて)等が熊野新宮速玉大社の御分霊を勧請したとある。 権現さんと呼び親しまれてきたそうだ。 一歩は、和歌山にも広島にも住んでいたことがあるので、なるほど浅野氏が和歌山から広島に来たのだったとすぐ納得した。 籠怒(かごぬ)神社(熊野神社) ・街道に戻り、左折する。 道は明らかに拡幅されている。 左手に 酔心本店 の古風な蔵造りの家があり、その先にも立派な家がある。 酔心本店 ・左手に 胡神社 がある。 ・右手には 善教寺 がある。 「文化年間 伊能忠敬観測地」 と書かれた石碑がある。 ・その隣の酒屋さんは、 旧三原宿本陣跡 だ。 三原宿本陣跡 ・ 和久原川 を 神明橋 で渡る。 右手にこんもりした 桜山 が見える。 和久原川と桜山 ・右手に 恵比寿神社 がある。 ・右手、広島大学附属小・中学校の角に 「三原城東大手門跡」の石碑 がある。 三原城東大手門跡 ・その先左手に濠と石垣がある。 国指定史跡三原城跡 だ。 戦国時代に小早川隆景が築き、海に向かった名城で、満潮時は海に浮かんでいるように見えたので 浮城 と呼ばれた。 江戸時代になって、福島氏、浅野氏の支城になるが、1国1城の時代にも取り壊しになることなく認められた城だった。 天守台跡には、三原駅構内から行ける。 三原城跡(浮城) ・本日はここまでとする。 万歩計は、37604歩。 とにかく暑くてくたびれた。 三原駅から新幹線に乗って、帰路についた。 ///.

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みなさんこんにちは、ライター兼イラストレーターの恐山らむねです。 さて、突然ですがみなさんは「三原堂」をご存知ですか? 三原堂さんは仙台駅から「歩いて365歩」をキャッチコピーとして謳っている時計・宝飾屋さんです。 クリスロード、と呼ばれるアーケード街に鎮座しています。 そこで、「仙台駅から三原堂 逆も有り へ365歩で到着できるのか」を検証すべく、仙台駅へ向かいました。 過去に様々なメディアが「三原堂・仙台駅間を365歩で辿り着けるか」という検証を行 うたび、頓挫していた。 そういった話も小耳に挟みましたが、ウラロジ仙台では、いかなる手段を使っても検証して成功してやろう、という志のもと検証開始です。 ちなみに今回は「ウラロジ調査隊」としておおみやくん 友人 を巻き添えにすることにしました。 ダンスダンスレボリューションで鍛えた足腰を活かしていただきます。 10:30なので三原堂も開店したことでしょう。 今回はこちらのカウンターを使って計測して行きます。 【1戦目】 まずは普通に歩いて感覚を掴みましょう、ということであまり歩数を気にせず歩きます。 ちなみに、おおみやくんの普段の歩幅は約50cmです。 両足のかかと間を計測した値になります 道中、鯛きちでたい焼きゲット。 美味しい。 計測結果「365歩」 やったぜ。 検証結果・地下鉄仙台駅 北3出口から三原堂まで、鯛きちでたい焼きを買ってから行くと大体365歩。 許してほしい。 というわけで、三原堂の「駅から365歩」のキャッチコピーは 本当!でした。 ただし、地下鉄仙台駅ね。 寄り道もしてね。 終了時刻、13:45。 6時間もしないうちに終わらせられて良かったです。 冬場で寒かったので。 みなさんの中にもし物好きの変態がいたら、カウンターを持って仙台のアーケード街を食べ歩きしてみると良いですよ。 もちろん三原堂でお買い物もお願いします。 【執筆・恐山らむね】 検証協力・おおみや しおん.

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「新大阪駅」から「三原駅」始発検索

ここ から 三原 駅 まで

とは言っても、空の大部分に雲が残っていたので竜王山のヒルクライムは最終日に延期することにして、まずは予定通りさざなみラインを西に向かって 走ることにしました。 三原駅からの場合、竜王山、筆景山へはこの辺りから登ります。 程なくして海が見えてきました。 さざなみ海道(国道185号線)は、ここからしばらく海岸沿いを走ります。 晴れていたらよかったのですが。 生口島の瀬戸田行きフェリーはここから。 予定していた竜王山ヒルクライムは最終日にすることにしたので、今日はこの後 大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)にお参りすることにしました。 左上の写真の「フェリーのりば」の看板のところで左折してすぐのところに、忠海港があります。 そこから大三島まではフェリーで25分です。 実はここまで写真を撮りながら、かなりのんびり来たので、忠海港についたのはフェリーの時間の10分 くらい前でした。 この便を逃すと次は2時間後なのでスケジュールが大幅に狂ってしまいます。 間に合ってよかったぁ! 大山祇神社参拝の模様は 忠海港のすぐ裏手にあるJR忠海駅 道の駅たけはらに到着。 さざなみ海道のレポートはここまで。 JR竹原駅 お世話になった宿屋。

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