乗り越えられない試練。 神は乗り越えられる試練しか与えない でも、一人で抱える必要ないよ

自分が乗り越えられない試練は来ない。試練は過去の自分が作ったもの

乗り越えられない試練

【質問】「神はその人に乗り越えられない試練を与えない」といいますが、ではなぜ自殺する人がいるのでしょうか? 「神はその人に乗り越えられない試練を与えない」 とよくいいますが、 ではどうして自殺する人がいるんでしょうか。 【回答】「これは乗り越えられない試練だ」と誤認したまま自殺する人がいるからです。 簡単です! 「神は乗り越えられない試練を与えていないけれども」 「そのことに気付かず『これは乗り越えられない試練だ』とカン違いしたまま死んでしまう人が、一定数存在するから」 です!!!!! 自殺する人に限らず、人間の多くは「事実ではないこと」を事実であるかのように誤認して生きていることが多いものです。 例えば、彼氏からそっけない反応をされたとき、その理由はたまたま仕事でイライラしたことがあっただけかもしれないのに、自分の中だけで勝手に「私が嫌われているのではないか」と連想し、不安になる女性はたくさんいます。 あるいは、実際にやってもいないうちから「私には無理」と決めつけ、夢をあきらめている人達。 このように、人間は誰でも「自分の思い込み」という事実ではないものを中心に考えてしまっている瞬間が、必ずあります。 そして、自殺者が出る原因も、ここにあります。 ブラック企業での過酷労働が辛いなら退職すればいいだけなのに、そういう判断ができないくらいに感覚が麻痺し、疲弊している。 うつ病で働けないことは、単なる病気の結果でしかないのだから恥じる必要なんてどこにもないのに「恥ずかしいことだ」と認識し、「人目が辛い」と誤認する。 貧乏アルバイトの底辺人生が苦しいというなら起業してお金持ちになればいいだけなのに、「そういうのは頭のいい人しかできないこと」と決めつけ、やりもしないうちから勝手に諦め絶望している。 いじめが辛いなら戦えばいいだけだし、戦い方がわからないならそれを学び成長すればいいだけなのに、そのことに気付かない。 自分にはそんなことはできないと、自分には戦う力がないと思い込まされている。 牙を抜かれている。 そしてその苦しみが絶頂に達したとき、人は死を選びます。 だから冒頭に語った通り、 「神は乗り越えられない試練を与えていないけれども」 「そのことに気付かず、『これは乗り越えられない試練だ』と誤認して、そのまま死んでしまう方がいるから」 という回答になります。 でもこれは別に「そいつの視野が狭いのが悪いのさ、本人の自己責任さ」ということではありません。 もちろん、自己責任な部分もかなり大きいです。 とはいえ人間なんて誰でもストレス要因が多ければ一時的に視野が狭くなってしまう瞬間はあるものですし、それを全て自己責任という言葉で片付けるのは悲しい感じもします。 きっかけです。 何か、きっかけがあればよかったのです。 その人が自殺を実行するまでのどこかに「それを止めるきっかけ」に遭遇していれば、それは起きなかった。 その人が、自殺を決意する瞬間の直前まで、どこかのタイミングで、 友人でも、 恋人でも、 家族でも、 映画やマンガのキャラクターでも、 インターネット上のコラムでも、 ツイッター上のどこかの誰かのつぶやきでも、 なんでもいいので、 誰でもいいので、 誰かが、 「もう少しよく考えれば、何か方法があるはずだ!」 と気付かせてあげることができれば、 自殺には至らなかったでしょう。 しかし運悪く、そういう誰かが現れなかった。 だからその人は、現実を誤認したまま先立ってしまった。 悲しいですね! これに対して我々ができることは、「きっかけを投げ続けることだけ」です。 だからこそ僕は、「情報を発信する」のです。 僕がブログを更新すれば、それをきっかけに「どうせ無理」と思っていたことが「無理ではない」と気付ける人が増えるかもしれない。 そこから止められる死があるかもしれない。 我々にできることは、こういう「きっかけ」を投げ続けること、それだけです。 どこかの誰かの参考になれば幸いです!!!!!.

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『論語』 神は乗り越えられる試練しか与えない?

乗り越えられない試練

神は耐えられない試練は与えられない 「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉について この言葉は、以前放映された人気TVドラマ「JIN~仁」で主人公のお医者さんが口にする言葉で、印象に残るものです。 実はこれは聖書からの引用で、聖書の原文では 「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはないません。 むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 」コリント人への第一の手紙 10章13節という言葉なのです。 さて、この言葉について一緒に考えて見ましょう 神はなぜ試練を与えられるのでしょうか? それは、わが子を教育しない親はいないといえば分かりやすいのではないでしょうか。 親は自分の子供に見返りを求めない愛で愛しています。 と同時に親はわが子が人として正しい大人になってほしい、相手の痛みや苦しみが分かるやさしい、立派な大人になってほしいと思うから教育し、しつけします。 神様は私たち人を最高の創造物として作られましたので、私たちをわが子のように愛しておられます。 むしろ、それ以上です。 自分の命を身代わりにしてもいいほどに愛しておられます。 ですから神様も同じように、私たちに人として正しい大人になってほしい、相手の痛みや苦しみが分かるやさしい大人になってほしい、そして何よりも、私たちが本当に幸せになれる生き方を知ってもらうために教育されます。 聖書の別のところにもこのようにかかれています。 「鞭を控えるものはその子を憎むものである。 子を愛するものは勤めてこれを懲らしめる」箴言13-24 また、親である神はわが子の限界を正確に知っているので、わが子がつぶれてしまうような、行き過ぎた教育はされません。 試練とともにちょうど良いときに脱出の道も備えられるのです。 脱出の道 方法 は、時にはあなたの願ったとおりになりますが、時には困難に耐える力が与えられたりする場合もあります。 かん難が忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性は希望を生み出すと知っているからです ローマ5-4 ですから、あなたが困難試練の中にいるとき、自分の力だけで何とかしようと、じたばたせず、また、決して望みを失わず、神様を信頼して歩みましょう。 きっと脱出の道を与えられ、試練を会う時以前より成長したあなたになっているはずです.

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池江璃花子「神様は乗り越えられない試練は与えない」/競泳

乗り越えられない試練

記事の題名の言葉は、いつ頃からか、よく聞くようになった言葉である。 素晴らしい名言だという人が多いようだが、私は好きになれない。 極めて傲慢な匂いがする。 「人に乗り越えられない試練は無いんだ、人間は何でも出来るんだ」 とんでもない話である。 「死生、命あり。 富貴は天にあり」( 顔淵第十二)である。 この言葉の元は、のによる「コリント人への手紙第一 10-13」であろう。 そこには、 「神は信頼に値する方です。 耐えられないような試練をあなたがたに遭わせるようなことはなさらず、むしろ、耐えることができるように、試練とともに抜け出る道をも用意してくださるのです」 と、書かれている。 これは、全く私の好き嫌いの問題ではあるが、私はのの文が、どうにも好きになれないのである。 しかし、という人は凄い人で、、がの狭い世界からオリエントやローマに広まったのは、このの力である。 しかし、好きになれないものは仕方がない。 キリストの事績を述べたには魅力を感じるが、の書簡は生理的に受け付けないのである。 ここで、好き嫌いは脇において、聖書の文を読んでみると、が言っていることは、神の大いなる愛の素晴らしさであろう。 つまり、という枠組みの中で、神の愛を称える意味で、「神はのりこえられる試練しか与えない」と言うのであれば許されると、思う。 しかし、神を信じていない人間が、この言葉を使った場合は、傲慢以外の何物でもないだろう。 ここでの神は、ただの修辞である。 また、あるから一部分だけ抜き出して語ることは、不誠実でもある。 その証拠に、「コリント人への手紙第一」の、紹介した文章のすぐ前で、は、こうも述べている。 「自分は大丈夫だと思う人は、倒れないように気を付けるがいい」、と。 とにかく、乗り越えられない試練はないなどといった世迷言を信じてはならない。 もし、神というものがいるなら、それは冒瀆である。 「したいことを何でも出来るのは神様だけ、人間は出来ることを一生懸命やるしかない」 これこそが、真実である。 出典 ()新釈漢文大系1 『』 顏淵第十二 司馬牛憂曰、人皆有兄弟。 我獨亡。 子夏曰、商聞之矣。 死生有命、富貴在天。 君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也。 君子何患乎無兄弟也 take-ivy.

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