蛤 御門 の ヘン。 角田龍平の蛤御門のヘン|KBS京都

蛤御門の変はなぜ起きたのですか?わかりやすく教えてください。

蛤 御門 の ヘン

その急先鋒の久坂玄瑞らと、慎重派の桂小五郎・高杉晋作らの意見が対立していた。 そのような情勢下、 六月五日に起った池田屋事件の報がもたらされた。 藩士が殺されたことを知った急進派の面々は激昂し、 慎重派の制止を振り切って挙兵、京をめざして出陣した。 長州藩の動きを察知した幕府をはじめ、薩摩藩・会津藩らは連署して意見書を朝廷に建白、禁裏御守衛総督を勤める 一橋慶喜は長州に対して撤兵を呼びかけた。 しかし、御所に攻め寄せた長州兵藩兵と、会津・桑名藩兵とが蛤御門に おいて激突した。 御所を守る幕府方の兵は八万、攻める長州軍は三千という兵力であったが、長州勢は中立売門を突破 して京都御所内に攻め入る勢いを示した。 これに対して、援軍に駆けつけた薩摩兵が長州兵の進撃を阻止したことで 形勢が逆転、ついに長州軍は京に放火すると敗走した。 このときの火事によって、京の町の多くが焼け野原となり、 いまでも京都において「この前の火事」といえば蛤御門の変の大火をさすのだという。 京都御所の周囲には九つの門があり、蛤御門は西門の一つであった。 もともとの正式名称は新在家御門であったが、 天明の京都大火において御所が炎上したとき、滅多に開かなかった新在家御門が開いたというので、 「堅く閉じていた口が大火によって開いた」…蛤のような門だということで「蛤御門」と呼ばれるようになったと 伝えられる。 蛤御門の変で長州藩は久坂玄瑞をはじめ、来島又兵衛、入江九一、寺島忠三郎ら有為の藩士を失ったうえに、 内裏や禁裏に向けて発砲したことから朝敵の汚名を被った。 さらに、京都守護職松平容保は長州系の尊攘急進派弾圧に 乗り出し、事態は第一次長州征伐へと動いていった。 一方で、長州藩士の多くは薩摩と会津を憎悪し、やがて高杉晋作の起こしたクーデタで 佐幕派が追われると、ふたたび長州は一方の台風の目となっていくのである。 朝廷も幕府も敵となった長州は、みずからが生き残るため、倒幕への道をひた走っていくことになった。 蛤御門の柱にはいまも当時の弾痕が残り、徳川幕府崩壊を奏でる挽歌のはじまりは蛤御門の変であったのだな〜、 と実感されるのである。 ・蛤御門内部より西方を見る 御所に攻め寄せた長州軍は、道路を隔てた西方の家々をバリケード代わりとして散開したことであろう。 御門を守備する幕軍は長州兵の決死の形相を目の当たりに見て、気圧されたのではないか。 [志士の紋]. [諸藩士の紋] 戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。 どこの家にもある家紋。 家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。

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京都御所にある「蛤御門(はまぐりごもん)」ってどんなとこ?「蛤御門の変(戦い)」とは?場所(アクセス)はどこ?地図は?門の傷は?名前の由来はあるの?

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蛤御門の変の歴史を修学旅行レポートにて。 こんにちは。 今回は蛤御門の変(禁門の変)について記事にしました。 蛤御門の変(はまぐりごもんの変)とは江戸時代の末期、いわゆる幕末の京都で起きた事件です。 現代風に言うと「テロ事件」と言っても差し支えないでしょう。 幕末の京都において坂本龍馬が仲介したことで有名な薩長同盟(さっちょう同盟)の「長」に当たる長州藩(現在の山口県)の過激派が、山口県から軍隊を率いて京都市内で天皇が住む京都御所に大砲を打ち込み、京都御所を必死で守る薩長同盟の「薩」に当たる薩摩藩(現在の鹿児島県)と会津藩(現在の福島県)や新撰組との攻防戦が蛤御門の変でした。 京都御所は現在は観光名所として多くの観光客が訪れる場所となっていまして、蛤御門の変の名前の由来となった京都御所を守る門の一つである蛤御門は当時の銃痕もそのままの姿で残っております。 今回は蛤御門の変(または禁門の変)について学校の担任の先生に修学旅行レポートを提出つもりで記事にしてみました。 蛤御門の変とは別名を禁門の変と呼びまして、高校の日本史の教科書には太字で記載されている出来事です。 当時の長州藩は現在の山口県から武器を装備した軍隊で京都に乗り込み、現在の京都市の西の端である世界遺産の天龍寺と京都市南部の伏見方面の二手から京都御所に侵攻し、当時の天皇だった孝明天皇を拉致することを目的としました。 そのため江戸幕府や京都御所を警護する人達は天皇を守るために長州藩と激突。 幕府側には西郷隆盛が指揮を執る薩摩藩や新撰組も参加して、京都の町を巻き込んだ戦争となりました。 この戦いによって京都の町では住宅約3万戸が焼失し、町には死体が転がる悲惨な状態となるなど当時の世の中では大事件となりました。 ちなみに蛤御門の近くにある江戸時代から続く生麩で有名な麩嘉(ふうか)は被災したおかげで、蛤御門の変以前のレシピやお店の歴史的資料などが一切残っていないそうです。 京都御所近くに住む人達の生活が脅かされたことをリアルに感じますが、長州藩と言えば薩長同盟により鎖国する江戸幕府を倒して明治維新によって日本を近代国家に築き上げた正義の藩というイメージを私は持っているのですが、蛤御門の変の内容だけを知ると悪にしか見えません。 そして明治時代が訪れて日本は欧米諸国を見習って急速に近代国家への道を歩み、現在の日本が先進国の地位にあるのも、ある意味では明治維新のおかげだと言えるでしょう。 そのため江戸幕府=悪であり、薩長同盟=正義であると学校では習ったと記憶しているのですが、蛤御門の変当時の長州藩は正義と呼べる存在ではありません。 薩長同盟が成立したのは1866年であり蛤御門の変から2年後の出来事ですので、2年間で敵対関係だった薩摩藩と長州藩はなぜ同盟を結んだのか不思議で仕方がないです。 長州藩=鎖国維持したい。 長州藩はアメリカからペリーが黒船で来日して以来、開国反対であり江戸幕府よりも天皇が日本を統治すべきであると主張してきました。 もう一度言いますが、開国には反対であり外国人が日本の土地に足を踏み入れることに断固反対であり、山口県に接する関門海峡を通る外国船に対して大砲を打ち込む人達でした。 そのため長州藩はアメリカと日米和親条約や日米修好条約を結んで開国する江戸幕府と対立していたのです。 そして当時の天皇だった孝明天皇も開国に反対だったために、天皇が住む京都には反幕府勢力が全国から集まるようになり、開国反対であり幕府と敵対する勢力が幕府に代わって天皇を政治の頂点に据えようと活動し、その中心に長州藩がいました。 長州藩は京都でめちゃくちゃ暴れ回った。 しかしその活動内容が非常に過激でして、幕府と親しい公家や商人を次々に暗殺していきました。 そのため当時の京都は治安が悪く、毎日のように殺人が行われる状態でした。 そこで登場するのが有名な新撰組であり、新撰組は幕府側の組織として京都の町で活動する反幕府勢力を取り締まりました。 そして有名な池田屋事件では、池田屋と呼ばれる旅館で幕府側の人間をどう暗殺しようか長州藩など反幕府勢力が打ち合わせをしていた部屋に新撰組が突入して反幕府勢力を一毛打尽にしたのでした。 さらには八月十八日の政変と呼ばれる、朝廷内で反幕府思想を持つ長州藩の息がかかった公家達も朝廷から追い出された政治的事件も発生したために、反幕府を実現したい長州藩は苦しい状況へ追い込まれていきます。 そしてその情勢で起死回生の一手として実行したのが、京都で武力行使を用いて孝明天皇を長州藩(山口県)に拉致すること目的にした蛤御門の変が起きたのでした。 京都御所は塀に囲まれており、東西南北に大きな門がいくつかあります。 その中でも西側にある蛤御門の前で最も激しい戦闘が行われたことから蛤御門の変と呼ばれるようになりました。 現在も蛤御門は現存しておりまして、長州藩が放った銃痕が門に残っています。 蛤御門は幕府側の守りが破られて長州藩兵士達が京都御所内に流れ込みました。 しかし西郷隆盛が率いる薩摩藩が蛤御門を突破した長州藩を撃退し、天皇を守ることができました。 蛤御門の変の後に長州藩は天皇からも反逆者と見なされて、長州征伐と呼ばれる幕府軍の侵攻を受けることとなります。 さらに関門海峡を通る外国船に大砲を打ち込んだ報復としてアメリカ・イギリス・オランダ・フランスの連合軍からも侵攻されることになり、長州藩は今の力では文明の進んだ外国にはどうやっても勝てないことを感じたのでした。 長州藩も鎖国維持派から開国派へ。 そのため考えを鎖国維持から開国へとガラッと変えて、貿易を通じて国力を蓄えた後で再び外国と戦う方針を作りました。 一方でそれまでは幕府よりだった薩摩藩は、江戸幕府ではアジア諸国を次々と植民地化している欧米諸国には勝てないと考えるようになり、自ら幕府を倒して新しい強い国を作ることを考えます。 そこへ坂本龍馬が登場して、当時では江戸幕府以外では大きな軍事力を持っていた薩摩藩と長州藩が手を結んで江戸幕府体制を倒し、欧米諸国に植民地化されないようなしっかりとした国を作ろうと動き出したのでした。 その後は徳川慶喜による大政奉還も実施されたことで政権が徳川家から朝廷に返還されますが、薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍と幕府は鳥羽伏見の戦いを皮切りに戦争へと突入し、特に東北地方では幕府側に立つ諸藩は多くの命が犠牲となりました。 一般的には江戸城が無血開城されて国内戦争は起きなかったかのように学校では習いますが、江戸以外の場所では多くの犠牲が伴い無残な死を遂げた人がたくさんいました。 もしも薩長と幕府が手を結んでいたら。 あらためて幕末の歴史を考えますと、新政府軍と幕府が戦争する必要があったのかな?と疑問に思います。 なぜなら江戸幕府は可能なら鎖国を維持したいけども、欧米諸国と文明レベルが違い過ぎることから開国する道を選んだのに対して、長州藩や朝廷は鎖国を維持したかったのです。 最終的には学校の授業で習った通り明治政府が誕生して開国する道を選ぶ訳ですが、ならば最初から皆で協力して幕府の言う通り開国する道を選べば良かったのにと思うのです。。。 鎖国を始めたのは江戸幕府なので、幕府が鎖国維持を推進していたように錯覚しがちですが実際には幕府は開国派でした。 もちろん現在の日本があるのは明治維新のおかげであり、昔のことを批判しても今が変わる訳ではありませんが、もし幕府と薩長が協力して新しい時代を作っていたら現在の日本はどんな姿だったのか興味が湧いてきます。 蛤御門の変へのアクセス方法 京都駅から蛤御門へは市営地下鉄で今出川か丸太町駅で降りた後、徒歩10分ほどで到着します。 京都御所を見学する場合は今出川駅からのほうが京都御所通年参観受付が近いので、今出川駅で降りることをおススメします。 京都御所を参観した後に、蛤御門もついでに訪れてみてはいかがでしょうか? 近くには和気清麻呂を祀り、足腰の健康にご利益があると言われる護王神社や、足利義満が建てたことで知られる相国寺も一緒に巡ることをおススメ。 また生麩で有名な麩嘉が近くにありますので、生麩まんじゅうを是非一度食べて頂くこともおススメさせて頂きます。

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禁門の変(蛤御門の変)|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

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歩く・見る• 前年の文久3 1863 年8月18日の政変で,長州藩は京都での地位を失墜しました。 その後,長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず,さらに翌年6月5日には,池田屋事件で藩士多数が殺されました。 このような状況下,長州藩の勢力回復をねらい,三家老 福原越後・国司信濃・益田右衛門介 が兵を率いて上洛,7月19日,会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所 正確には現京都御苑 蛤御門・堺町御門 さかいまちごもん 附近で戦い,長州藩は敗北しました。 京都の中心部が激戦地となったため,市中はたちまち猛炎に包まれ,民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。 長州藩邸や堺町御門から出た火が,手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。 蛤御門附近の戦闘を描いたかわら版。 どんどん焼けの焼失範囲を示すかわら版。 左が北で,黒く塗られている所が焼けた範囲です。 進軍する長州兵と避難する京都の市民 『甲子兵燹図』より。 戦いは一日で終りましたが,9月19日朝,長州藩邸等から出火した火災による被害は,北は丸太町通,南は七条通,東は寺町,西は東堀川に至る,現在の中京区・下京区のほとんどの地域に及びました。 21日に鎮火しましたが,800か町,2万7000世帯,そのほか土蔵や寺社などが罹災しました。 名の知られた寺院では,東本願寺・本能寺・六角堂が焼失しました。 京都御所・二条城・西本願寺は,火がすぐ近くまできましたが焼失は免れました。 その被害の範囲を描いたかわら版が多く残されています。 火災としては,天明8 1788 年の天明大火に次ぐ大火でしたが,どんどん焼けは幕末の動乱期に起きたため,市中は被害から容易に立ち直れませんでした。 その5年後には東京遷都が行われ,なおいっそう京都の衰退に拍車がかかることになりました。 歩く・見る 幕末の蛤御門 現在の蛤御門 京都御所を取り巻く国民公園を京都御苑 きょうとぎょえん といい,その門は九つあります。 蛤御門は烏丸通 からすまどおり に面した門で,もとは新在家門 しんざいけもん といい,普段は閉ざされていましたが,宝永5 1708 年の大火で開門されたので「焼けて身をあく蛤」から蛤御門と呼ばれたと伝えます。 しかし,宝永大火以前から蛤御門の名があったという説もあります。 長州軍がここに主力を集中して激戦となったので,その戦いを蛤御門の変とも称するようになりました。 今もその扉に当時の弾痕が残っています。 江戸時代には現在よりも東にありました。 毛利家の長州藩邸は,慶長以来幕末まで,この地にありました。 蛤御門の変では,長州藩邸から出た火が町の大半を焼き尽くしました。 鳥羽伏見戦の後,その焼け跡は征東に赴く長州兵の調練場となりました。 明治維新後は官有となり,京都府勧業場・画学校などを経て,明治21年木造洋式の常盤ホテル ときわほてる となりました。 明治24 1891 年に来日したロシア皇太子ニコライもこのホテルに宿泊し,5月11日に大津で襲撃されました。 いわゆる大津事件です。 明治28年に京都ホテルとなりました。 現在は京都ホテルオークラ。 天龍寺は,臨済宗天龍寺派の大本山で,足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため創建しました。 京都五山の第一位に列せられましたが,たびたび焼失し,江戸時代に復興しましたが,蛤御門の変の兵火に罹災しました。 元治元 1864 年6月28日,長州軍は天龍寺を宿舎および本陣として利用しました。 7月19日早朝,市中に向かって進軍し,蛤御門あたりで戦い敗れました。 翌日,戦勝した薩摩軍が,長州残党狩りのため押し寄せ,寺に火をかけました。 天龍寺塔頭の弘源寺には,この時に応戦した長州藩士の刀傷が残っています。 元治元 1864 年7月20日,どんどん焼けの火が六角牢獄に迫りました。 牢には志士33人が収容されていましたが,火災が迫り脱獄を恐れた幕府役人により,午後2時頃から夕暮にわたり,切支丹牢 きりしたんろう 東側で全員が斬首されました。 池田屋事件,生野 いくの の変,大和蜂起,足利将軍木像さらし首事件などにかかわった志士で,平野国臣 ひらのくにおみ ・長尾郁三郎 ながおいくさぶろう ・古高俊太郎 ふるたかしゅんたろう らが犠牲者となりました。 六角牢獄で殺された者の氏名を刻んだ慰霊碑が竹林寺に建てられています。 「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」と刻まれています。 遺骸は処刑場であった西の仕置場 しおきば,中京区西ノ京円町附近 内に埋葬されたまま歳月を経ましたが,明治10 1877 年,化芥所 けがいしょ,ごみ処理と廃品回収の施設 となっていた敷地から発掘された多数の遺骨が,竹林寺に改葬されました。

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