豊臣 秀吉 死因。 豊臣秀頼を5分で!誰の子?父親は秀吉じゃない?最後の死因は?│れきし上の人物.com

豊臣秀吉(羽柴秀吉)について!死因・年表・性格、朝鮮出兵・子孫などその生涯を解説!

豊臣 秀吉 死因

尾張の農民出身でありながらも、朝鮮出兵から 天下統一へと駆け上がる脅威の下克上で歴史に その名を残す豊臣秀吉。 織田信長に仕え信長の死後は正統な後継者と なった豊臣秀吉。 信長の意志を継ぎ天下統一を実現させたのが この豊臣秀吉ですが、天下人となることが 出来た理由はいくつかあり、彼の戦い方の 残忍さも垣間見えてきます。 有名な指が6本あったとされる多指症の真相も 含め、豊臣秀吉の生い立ちを追ってみました。 Sponsored Link 豊臣秀吉の生い立ち~最下層農民として 豊臣秀吉といえば農民出身ということが有名ですが 彼の出自については文献ごとにばらばらであり、本当の 真相は定かでは無いと言われています。 ここでは最も有名な豊臣秀吉の生涯を綴った 『太閤素生記』を元にしています。 豊臣秀吉は、 尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市中村区) で、 下層民の子として生まれたとされています。 父は 弥右衛門 やえもん といい、足軽または 農民と言われています。 母の名は なかといいます。 天文6年 1537年 2月6日に生まれた説が有力です。 かなり貧乏だったようで、秀吉も幼い頃から 薪割りを手伝いそれを売るような生活を していました。 父の弥右衛門が戦で亡くなったのは秀吉が7歳の頃で 母のなかは竹阿弥 ちくあみ と再婚します。 秀吉は竹阿弥と折り合いが悪くいつも 虐待されていました。 そして口減らしのためか秀吉は8歳の頃、光明寺という 寺に預けられました。 この寺での生活は秀吉には合わなかったようで すぐ飛び出したといいます。 やんちゃで仏像を壊したという話も伝わっています。 その後、亡くなった父の遺産の一部をもらい 天文21年 1552年 に15歳で家を出ます。 針売などしながら放浪したといいます。 織田信長に仕官する前に、はじめは 木下藤吉郎と 名乗り、今川家家臣の飯尾氏の配下である頭陀寺 城主の松下之綱に仕えましたが、すぐに辞めます。 家を飛び出した2年後の、天文23年(1554年) 頃から織田信長の小者として仕えます。 秀吉は現在でも 「人たらし」として有名ですが 信長の冷えた草履を懐で温めて、大層気に入られた という逸話は有名です。 信長の元で、清洲城の普請奉行や、台所奉行などを 率先して引き受け大きな成果を挙げるなどして 織田家でその頭角を現していきます。 秀吉の名が現れた最初の確かな史料は、永禄8年 1565年 11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状で、 「木下藤吉郎秀吉」としてして副署しています。 このことから、実際に苗字を名乗れるようになった ことで秀吉が信長の有力部将の一人として認められた ということがわかります。 この苗字は、最初に今川家で名乗った事から父から 受け継いだものと言われていますが、妻のねねの 姓とも言われています。 また、元亀元年 1570年 に信長が越前に侵攻した時 同盟の浅井長政に裏切られ、織田軍は絶体絶命の ピンチに陥ります。 この時、撤退戦で秀吉はしんがり (最後尾で死んでも仕方ないようなポジション) を引き受けて、味方の軍を無事に京都まで 逃すのに成功します。 これが 「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる有名な戦いで 秀吉の大きな功績となります。 天正元年 1573年 、浅井氏が滅亡すると秀吉は ついに長浜城の城主となり、この頃から 「羽柴秀吉」 に改名しています。 豊臣秀吉の天下統一への野心と性格は残忍? こうして信長に気に入られた秀吉は多くの 功績を残し、明智光秀に次いで織田家の ナンバー2とも言える程の存在になります。 秀吉の場合は武功よりも、 人たらしとして 有名な通りその人心掌握術で智略を発揮 したものが多いです。 織田信長はもちろん家臣や民も、農民出身で 優しさを持ち、愛嬌のある秀吉を嫌う者は いませんでした。 そんな中、 天正10年 1582年 に本能寺の変で 信長が亡くなりました。 信長の命で中国地区攻略の途中にそれを聞いた 秀吉は、戦闘中の毛利勢と和睦して大急ぎで 京都に行軍します。 すぐに主君の敵となった 明智光秀を打ち取ります。 以後、織田信長の後継者を決める清州会議で柴田勝家と 対立し、戦いの末に勝利を収めた秀吉が織田信長の権力と 体制を引き継ぎ、天下統一への道を開きました。 織田の家臣団はほぼ秀吉の傘下になり、秀吉は 「豊臣秀吉」と名乗り天下統一を果たします。 関白という位を手に入れた頃には秀吉は 人が変わったとされます。 海の向こうへまで侵略を企てた 「朝鮮出兵」では 討ち取った首ではなく耳や鼻を削いだものをわざわざ 塩漬けにして日本に送らせたこともあるそうです。 過去に毛利を攻めていた時には見せしめに女子どもを 磔にするなどして200人以上も処刑しています。 他にも、秀吉を裏切った織田信孝の母とその娘を殺す 自分の甥である豊臣秀次の切腹の際には正室・側室・子女 側近を皆殺しにしています。 明るく愛嬌があり民にも人気だった豊臣秀吉は表の顔で 実際は女だろうが子供だろうが関係なしに殺す恐ろしい 人物だったと言われています。 自身が仕えていた織田信長も、天下統一のため 気に入らないことがあれば切る といった残忍な 性格だったので、秀吉も時にはそういった手段も 必要だと学んだのかもしれません。 しかし、あまりにも残忍なやり方に呆れる人が 増えていきます。 Sponsored Link 豊臣秀吉は多指症で指6本だった 豊臣秀吉といえば、 多指症で指が6本あった というのは有名ですが、これは 根拠のある逸話です。 証拠となる文献はふたつあり、ひとつがポルトガル人の 宣教師ルイス・フロイスの 「日本史」と、秀吉と旧知の 仲だった前田利家の 「国祖遺言」で、どちらにも秀吉の 指が 6本あると記されています。 ルイス・フロイスは織田信長が生きていた頃に、キリスト教 布教活動の為に来日していたポルトガル人ですが、その活動を 記録しており、そこに豊臣秀吉の外見や性格等が事細かに 書かれています。 「身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で性格は最悪に尽きる。 片手には六本の指があった」 と書いてあります。 前田利家の回想録 「国祖遺言」には 「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候」 と記されています。 信憑性は定かではありませんが、日常的に6本の指を 動かすことで脳の活動が促進され、秀吉の機転の効く 作戦などはこれから育まれたとも言われています。 豊臣秀吉の本当の死因とは 豊臣秀吉の死因は諸説紛々としてわからない ままですが、一般的には 病死とされています。 死因に関する資料は残されていないのですが 様々な説があります。 脚気説は、平安時代以降、京都の皇族や貴族など 上流階級ばかりに脚気が発生していることから 食べていたものによるとされます。 当時は白米は贅沢なもので、豊臣秀吉は白米だけ食べ まともなおかずを食べなかったといいます。 これによりビタミンが欠乏し脚気になったとする説です。 晩年の秀吉は、下痢や腹痛などの症状があり短期間で 衰弱し、やせ細っていきました。 無意識に失禁することも あったそうです。 こういった症状から 大腸がんという説が 1番有力視されています。 しかし、秀吉が亡くなった時に彼を見舞ったキリスト教 宣教師ロドリゲスが、当時の秀吉の状態を詳細に記述 しています。 「干からびていて、本当に人間なのかどうかわからない。 まるで悪霊のようだ」 秀吉は62歳で亡くなっていますが、その痩けた姿から 梅毒ではないかとも言われています。 実際、秀吉は女性なら誰でもいいという程の女好きで 正室に側室、わかっているだけでも 11人はいたといいます。 20人はいたとされていますが、とにかく手当たり次第に 女性に手を出したそうです。 性病が原因での死亡説もありえそうです。 また、 毒殺説もあります。 これはキリスト教を信仰している前田利家が、秀吉のキリスト教 徒弾圧に腹を立てた事からヒ素を使ったのではないかというもの。 下痢や腹痛といった症状はこの ヒ素を毎日少しずつ 飲ませることでも出るものです。 他にも痢病や合併症等があったと言われていますが いずれにせよ、何も証拠は残っていないので確たる 死因は不明なままです。 Sponsored Link おわりに 乱世の中で、恵まれない生まれをものともせず、天下統一を果たした秀吉。 非道な行為もありますが、魅力的な生き方をした人物です。 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」 秀吉の最後の句は、農民から天下人となった自身のはかない生涯を詠ったものでした。 本当に愛嬌のある優しい人物だったのか、それとも天下統一を前に強欲に変わってしまったのかわかりませんが、秀吉の行った刀狩は現在の日本の治安の基礎にもつながっています。

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豊臣秀吉、徳川家康の死因について

豊臣 秀吉 死因

「真田丸」を100倍楽しむ小話 この連載では、歴ドル&信州上田観光大使を務める小日向えりさんとともに、NHKの大河ドラマ「真田丸」に登場する人物、あるいは名シーンなどを取り上げて、よりドラマを楽しめるような情報や小ネタをお伝えしていきます。 連載バックナンバーは。 編集部F: 先週(7月3日)放送の『真田丸』は、いろいろと話題沸騰な内容でしたが、先々週の放送を観て、小日向さんは思わず涙してしまったとか。 小日向: はい、そうなんです……。 豊臣秀吉の子どもの鶴松が幼くして亡くなるシーンは、辛くてぐっときました。 私も実の姉に子どもがいるので、それを想像して哀しくなり、思わず茶々と一緒に号泣してしまいました。 天下を取った豊臣秀吉が治めた大阪城 ところで、秀吉はなかなか子どもができず、真田丸の中でも鶴松が最初の子どもだと描かれていますが、実は3人目ではないかという説もあるのをご存じですか? 編集部F: え、それは初耳です。 小日向: 諸説あるのですが、秀吉が長浜城(近江)を治めていた30代のころ、側室の南殿との間に男女2人の子をもうけたと言われています。 男子の幼名は石松丸で、後に秀勝と名乗りました。 以前、大河ドラマ『江 〜姫たちの戦国〜』(2011年放送)の取材の仕事で、浅井長政の菩提寺である徳勝寺(滋賀県長浜市)に訪れたとき、秀勝のご位牌を見ました。 実在したかどうかは微妙と言われていますが、それ以来、私は秀勝の存在を信じています。 編集部F: 秀勝というと……。 小日向: そうですよね。 秀吉の子どもに秀勝という名は3人います。 一人はこの石松丸秀勝、もう一人は織田信長の四男で、秀吉が養子に迎えた羽柴秀勝(於次丸秀勝)。 そして最後は豊臣秀次の弟で、こちらも後に秀吉が養子にした豊臣秀勝(小吉秀勝)です。 小吉秀勝は浅井三姉妹の末っ子、お江と結婚しますが、朝鮮出兵して戦地で病死しました。 編集部F: うーん、同じ名前で混乱します(笑)。 関連記事• 大河ドラマ『真田丸』に登場して以来、ナイスなキャラクターで注目を集めている「おこうさん」。 元々は真田信幸の正室でしたが、途中で側室になってしまった気の毒な人物でもあります。 真田信繁に仕えたこうした忍者たちは架空の人物とされていますが、どうして真田一族と忍者は強い結び付きのイメージがあるのでしょうか?• 戦国時代、関東の雄として君臨していた北条家を滅亡させた氏政&氏直父子。 特に氏政は「バカ殿」ぶりを示すさまざまな逸話が残っています。 そのイメージを覆そうとしたのが先週放送の「真田丸」でした。 歴ドルの小日向えりさんも実物を見に行ったわけですが……。 徳川家康といえば、多くの人がこうしたイメージを抱くでしょう。 そんな家康のクセは爪を噛むことでした。 上杉謙信から家督を継ぎ、重臣・直江兼続とともに上杉家の発展に大きく寄与した上杉景勝。 その人物像は無口で武骨、何と言っても生涯で1度しか家臣の前で笑わなかったそうです。 真田昌幸の長男として、弟・信繁とともに父を支えた信幸。 後年は敵味方に分かれることになりましたが、家族の絆は変わりませんでした。 そんな信幸は戦国時代には珍しいほどの長身だったようです。 真田昌幸が居城とした信州・上田城。 この城は何とっても攻め込んできた徳川軍を2度にわたり退けたことで有名です。 実はいまだに謎が多い城のようです。 加藤清正という武将について、皆さんはどんなイメージを持つでしょうか。 虎退治などで知られるように勇猛なイメージが強いのでは。 けれども実は知的な面も……。 上杉家の直江兼続といえば、当主の上杉景勝を支えた股肱の臣として活躍しましたが、実はかなりの皮肉キャラだったようです。 戦国武将に茶の湯を広めた立役者、千利休。 実は大阪に根付いている「粉もん文化」を作ったとも言われています。 歴ドル・小日向えりさんとともにNHK大河ドラマ「真田丸」にまつわる小ネタなどを紹介して、もっとドラマを楽しめるようにする新コーナー。 第1回は滝川一益についてお話します(いきなりシブい!?)。 戦国時代の真田ファミリーを描く今年の大河ドラマ「真田丸」がいよいよ始まります。 ドラマの中で主役となるのが真田幸村ですが、いったいどんな功績を残した人なのでしょうか。 実は……。 戦国時代、あの織田信長からも恐れられた武将といえば、甲斐の虎・武田信玄です。 「風林火山」の軍旗を掲げ、果敢に諸国を侵略していった信玄公は勇敢そのもの。 しかし実は乙女な一面を持っていたのをご存じでしょうか?• 読者の皆さん、こんにちは。 歴史アイドルの小日向えりです。 この連載では戦国時代の武将を中心に、その人物の知られざるエピソードやビジネス的なスキル、さらにはその人にピッタリなネットサービスを紹介したいと思います。 江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の「富嶽三十六景」を一度はご覧になったことがある人は多いでしょう。 富士山の世界文化遺産にも貢献したと言われる北斎ですが、実はかなりの変わり者だったようです。

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女好き「豊臣秀吉」の死因は性病だった!?それとも暗殺?【豊臣秀吉の死因について。】

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豊臣秀吉の生い立ち 誕生から信長の家臣となるまで 侍を目指し、家を出て駿河国へ 1536年尾張国愛知中村で、 百姓の木下弥右衛門と母のなか 後の大政所 との間に生まれました。 木下弥右衛門が秀吉の幼い頃に亡くなってしまいます。 そして母のなかが 竹阿弥と再婚しますが秀吉と竹阿弥は粗利が合わず、家を飛び出し、小売業などの行商をしながら 駿河国 へ向かいます。 木下藤良郎と名乗り、松本氏の家臣になる 秀吉が初めて家臣に就いたのは、 松本家の 松下之綱の家臣 です。 松本家は今川家の陪臣です。 陪臣とは、家臣の家臣の意味です。 この 松本之綱は引馬城の支城である 頭蛇寺城主です。 その頃は秀吉は 木下藤良郎と名乗っています。 浅野長勝も秀吉も足軽組頭で同じ長屋で暮らしていので、秀吉は浅野家の入り婿としてねねと婚姻を結んだのではないかとも言われています。 秀吉の功績:美濃国攻め 織田信長は 美濃国 を侵攻しようと準備をします。 美濃国へ戦で勝負しようとしていましたが、 美濃国には強勢な兵が大勢いますし、各諸将も豪力者揃いなので有名でした。 そこで織田信長は、合戦をするのではなく、 寝返り工作をすることにしました。 その時に活躍したのが、木下藤良郎です。 1564年 永禄7年 美濃国の 斉藤龍興と戦う時に、 美濃の松倉城主である坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに降参するように仕向けるよう工作します。 そして、斉藤氏についていた武将達も織田軍に寝返り、美濃国攻めを成功させます。 坪内利定宛てに誘降工作のお願いと所領や所職を保証する知行安堵状をを送っているが、そこに副署に 【木下藤良郎秀吉】と記載されており、秀吉が信長の有力な武将となった事を指しています。 秀吉の功績:墨俣城を一夜で建設 美濃国の斉藤氏と戦うには、 美濃国と尾張国の国境にある 墨俣 に拠点を置くのが重要でした。 しかし城を建てるには多くの時間がかかります。 城を建てる間に敵の攻撃に対応したりと、すぐには城を建てる事ができません。 そこで墨俣城の築城の任命を受けた秀吉は、 墨俣城を一夜にして完成させるという功績を残します。 これが秀吉の逸話になっている 墨俣一夜城建設です。 なぜ、一夜にして、完成したかというと、実際に建てた場所ではなく長良川の上流で城の部分毎に組立てます、それを川に流して城を建てる場所に簡単に運び、墨俣で部分毎に組み立てて完成させます。 実際には 城の材料調達や設計し、部品や城の部分毎に作成するのに5日~6日かかり、1日で現場に城を組み立てたのです。 こうして秀吉は、すごい閃きを活かし、任務をこなし功績をあげていきます。 秀吉の功績:戦でも大活躍 秀吉の戦での活躍は、というと、 近江箕作城攻略戦でも勝利し、多々良浜の戦いには毛利元就からの支援要請に秀吉が応戦し、 たった10日で18城落城する活躍をみせます。 そして、 1570年 元亀元年 越前国の朝倉義景 を討つ為に信長軍に従軍します。 順調に進軍していた織田軍でしたが、 北近江の浅井長政が 朝倉軍に寝返り、背後から織田軍に襲いかかります。 この挟み撃ちで織田軍は絶対絶命のピンチでしたが、ここで秀吉は 殿 しんがり に自ら名乗り出て、池田勝正や明智光秀と共に戦い、軍を救い功績を挙げます。 この朝倉・浅井軍と織田軍の戦いを 金ヶ崎の退き口または、 金ヶ崎崩れとも呼ばれています。 この戦いは戦国史上、最も有名な 織田信長の撤退戦です。 この戦いに負けた信長は、その後戦力を整え再び、朝倉・浅井軍を討ちにいきます。 姉川の戦いに勝ち、落城した 横山城の城代に秀吉が任命 され、 志賀の陣で浅井軍との戦いに従軍します。 その後、 小谷城の戦いで、秀吉は3千の兵を率いて、夜に襲撃を開始し、谷の斜面から攻撃をし、 京極丸を攻め落します。 ここでも秀吉の斬新な戦略で浅井・朝倉軍との戦いに勝利し、沢山の功績をあげました。 そして名前も 木下秀吉から 【羽柴秀吉】に改名します。 そして、大名となった秀吉は近江より人材の発掘に励み、旧浅井氏の家臣や、 石田三成などを積極的に採用し家臣にしていました。 織田政権で秀吉は勢力を増す 1576年、越後の上杉謙信と柴田勝家の 手取川の戦いの時に、秀吉は援軍に行きますが、勝家と戦略について口論になり、 秀吉は勝手に軍を撤退させてしまいます。 その行為に信長は怒られましたが、その後の秀吉は、信長の怒りを鎮める為にも 信貴山城の戦い、上月城の戦いや三木合戦、有名な城攻めの鳥取城の戦いと高松城の水攻めなど、数多くの戦いにも勝ち功績をあげていきます。 これにより 「城攻めの名手」 と言われるようになりました。 天下統一の第一歩を踏み出す 織田信長の死 1582年 天正10 京都の本能寺で織田信長が明智光秀の謀反にあい、自害します。 その時秀吉は、中国遠征に行っており、そこで信長の死の連絡を受けると、 毛利輝元にはその知らせを教えずに、追い込んでいた 清水完治を切腹させ輝元と和睦 し、すぐさま京都に軍を向かわせます。 その 備中高松城 岡山県 から京都までの距離をたった10日間で移動しました。 これを 中国大返しといいます。 そして、織田信長が亡くなって11日後に秀吉は 明智光秀と 山崎の戦い で勝利し、京都の支配権を獲りました。 この戦いで、池田恒興や丹羽長秀と中川清秀や高山右近までもが、秀吉に就いた為、秀吉の勢力が増し勝利します。 秀吉はその後、光秀派の武将達も全員滅ぼします。 清州城会議 1582年6月27日、 清洲城 で、 信長の後継者と遺領の分割を決める為の会議が開かれました。 この会議を 【清州会議】と言います。 織田家の重臣である 柴田勝家は信長の三男・織田信孝を後継者に挙げますが、 秀吉は、信長の嫡男で織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推します。 池田恒興や丹羽長秀らが秀吉の意見を支持し、 まだ幼い三法師の後見人として信孝を任命するという案を出したので、勝家も秀吉の意見に賛成し、 三法師が後継者 となりました。 柴田勝家と対立 秀吉が 宝寺城を建築していき、山崎と丹波で検地をして、織田家の大名と私的に親しくすると提携を結んでいくので、 秀吉と柴田勝家の対立が激しくなります。 柴田勝家は織田信考達と共に、諸大名に対して秀吉への 弾劾状をまき散らし、諸大名との信頼を崩そうとします。 これに対し秀吉は、 信長の四男 養子 羽柴秀勝を喪主にして、信長の葬儀を行い、切り抜けます。 それから、秀吉は雪で動けないのを計算して越前の勝家を討つ為に50,000の兵を連れていきます。 まず、 柴田勝家の養子である柴田勝豊の居城の長浜城を包囲します。 柴田勝豊は勝家と不仲で自身も病気であった為、秀吉にすぐに 降伏してしまいます。 秀吉は 美濃 に侵攻していきます。 秀吉軍に織田信雄軍が合流して兵力が増大します。 そして信考の家臣の長である、 斉藤利堯の居城の治木城を攻めて勝利します。 こうして、 織田信考は岐阜城に孤立してしまいます。 信孝は三法師を秀吉に渡し、更に母と娘を人質として差し出して許しを得ます。 柴田勝家に勝利 1583年、柴田勝家と同じく反秀吉派の滝川一益によって、伊勢峰城や関城、伊勢亀山城が落とされ、秀吉も反撃に出るもの及ばず、別部隊も長島城や中井城にを守りに行きますが、滝川勢に敗退してしまいます。 その後、柴田勝家は前田利長を先頭に出陣させ、後から勝家自らも30,000の兵を連れて出陣します。 これに秀吉も対抗し、にらみ合いが続きます。 しかし秀吉の支配下にいた柴田勝豊の家臣、山路正国が柴田勝家軍に寝返り、当初は勝家軍が優勢でしたが、勝家の家臣の 佐久間盛政は、秀吉が織田信考を討つために美濃に向かう隙に奇襲し、秀吉軍が敗退します。 勝利した 佐久間盛政は、勝家の撤退命令を聞かずに対陣を続け、引き換えしてきた 秀吉の反撃と、 前田利家の裏切りにり柴田軍は大敗してしまいます。 柴田勝家も越前に撤退します。 その後、 勝家は正室のお市の方と自害してしまいます。 その後秀吉は 加賀国と能登国を平定 し、自分に力を貸した前田利家に与え、前田氏は金沢城を建て、居城します。 そして 織田信孝を自害させ、滝川一益の反秀吉派を降伏させました。 そして柴田勝家に勝利した秀吉は 織田信長の家臣をそのまま引き継ぐ事ができ、天下統一まであと一歩のところまで来ます。 1583年(天正11)に、秀吉は大阪にある、 石山本願寺の跡地に大坂城 を築きます。 豊臣秀吉、ついに天下統一する 徳川家康と最初で最後の戦い 織田信長の次男の 織田信雄が同盟を組んでいた 徳川家康に協力を頼み、秀吉に対抗します。 兵の数では 秀吉が10万、織田・徳川軍は3万の兵で、秀吉の圧倒的に有利でしたが、野戦に強い徳川家康に、 羽黒の戦い、小牧の戦い も長時間にらみ合いを続けます。 にらみ合い中に、秀吉は、甥である 信吉 豊臣秀次 を総大将にして森長可や池田恒興らが三河へ進軍していくと、 家康もその動きを察知し、 攻撃をしかけられた池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦うことなく亡くなってしまいます。 この戦いを 長久手の戦い と言います。 自分の方が有利ではあるが、野戦に強い家康との戦いは、最初に動いた方が負ける 織田信雄と講和する 秀吉の方が圧倒的な兵力がありますが、家康の戦の巧さを知っている秀吉は、 家康との合戦を避け、信雄と講和させる為に動き出します。 秀吉は加賀野井城など、信雄の本領である美濃や北伊勢の諸城を次々と落城してゆき、追い詰められた信雄は、 秀吉と講和します。 信雄と秀吉が講和してしまえば、徳川家康も戦う理由がない為、ここで争いも終結です。 徳川家康も講和の為に、 家康の次男を養子という名目の人質に差し出しています。 後の結城秀康です。 豊臣政権の確立し各地平定 織田・徳川連合軍との戦いの間ではありますが、秀吉は朝廷に認められ官職を与えられています。 そして、 1586年に豊臣の姓を改め、太政大臣に就任します。 こうして秀吉は 【豊臣秀吉】 と言う名前になり、豊臣政権が始まります。 その後、豊臣秀吉は、 越中や 紀州と 四国統一している長宗我部元親に対し、大軍を送り身分を土佐一国の大名に降格させるなどして、 戦わずに平定していきます。 そして 九州では 島津義久が統一を図っています。 秀吉は戦わないで平定しようとしますが抵抗され、戦うことになります。 弟の秀長と黒田孝高 通称:黒田官兵衛 のおかげで島津軍を降伏させます。 こうして、秀吉は 西日本統一 に成功します。 小田原城で後北条氏を滅ぼす 西日本統一して、残すは関東の強敵である 後北条氏をを服従させることでした。 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 訳:露のようにこの世に生まれ、露のように消えていく。 大阪城で過ごした日々は、夢の中で、夢を見ているようなことだった。 苦しい農民時代から、工夫を凝らして天下統一するまで昇りつめた秀吉は、きっと満足してこの世を去ったのではないかと思います。 まとめ いかがでしたか? 豊臣秀吉の生い立ちから天下統一まで成し遂げられたのは、やはり秀吉の機転が効く事で成し得た実績です。 農民という身分から武将になれたのは、織田信長が概念に捉われない性分であり、織田信長との出会いが全ての始まりです。 辞世句を見ると秀吉は天下統一まで昇りつめ、人生に悔いなくこの世を去れたと思います。

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