ゴッホ。 【ゴッホの生涯まとめ】どんな人?意外なゴッホの人生とは?

ゴッホ 有名な作品・代表作の解説

ゴッホ

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)はオランダの北ブラバント州で生まれ主にフランスで作品を制作した画家です。 彼の人生はポスト印象派の1人として独自の表現を生み、絵画運動であるフォーイズムやドイツ表現主義に大きく影響を及ぼしたとされています。 作品数としては油絵約860点・水彩画約150点・素描約1030点・版画約10点があるとされ、さらにスケッチなども合わせると生涯に2100枚以上の作品を制作しました。 ゴッホの自画像 ゴッホは住んでいた場所や環境、精神状態などで画風が変化しているのが特徴的です。 彼は感情をストレートに表現しており、かつ大胆な色使いをすることから後の伝記や彼の生涯を描いた映画などから「情熱的な画家」、「狂気の天才」と呼ばれます。 ゴッホが画家として活動していたのはわずか10年であるために生前に作品が評価されることはほとんど無かったですが、現代においては日本のみならず世界的に有名な画家となっており後の画家たちに多大な影響を与えています。 皆さんの中にはゴッホが描いた作品のことは知っていても彼がどんな人生を歩んだのかは知らない方も多いと思います。 そんな方のために本記事ではゴッホの生き様や作品に魅了された筆者が彼の生涯を年表にして分かりやすくフィンセント・ファン・ゴッホの魅力をご紹介します。 ゴッホの来歴は? 名前 フィンセント・ファン・ゴッホ 誕生日 1853年3月30日 生地 オランダ 北ブラバント州フロートズンデルト 没日 1890年7月29日(37歳) 没地 フランス共和国 ヴァル=ドワーズ県 オーヴェル=シュル=オワーズ 埋葬場所 フランス ヴァル=ドワーズ県 オーヴェル=シュル=オワーズ 共同墓地 ゴッホが影響を受けた人・流派 は? ジャン=フランソワ・ミレー「落穂拾い」 画家になりたての頃のゴッホはジャン=フランソワ・ミレーという主に農民画を描いていたフランスの画家に影響を大きく受けていたため、初期の作品は暗く貧しい農民たちを描いているものが多いです。 しかしパリに引っ越すと印象派や新印象派の画家たちと多く交流し始め、これまで描いていた暗い印象の作品が時代遅れであると考え次第に明るく独自の作風に変化していきました。 またゴッホは日本の芸術からも影響を受けたとされ、日本に訪れることはなかったものの浮世絵を多く集め「名所江戸百景」の模写を描いたり「タンギー爺さん」の絵の背景に浮世絵を描いていたりと浮世絵から影響を受けたことが分かる作品が何点か残されています。 ゴッホの有名な作品は? ゴッホの作品で特に有名なのは以下の作品です。 ひまわり(1888年)• 夜のカフェテラス(1888年)• タンギー爺さん(1887年)• 自画像(1886年~1889年) 代表的な作品といえばやはり「ひまわり」(1888年)です。 ゴッホ「ひまわり」 花瓶に挿されたひまわりの絵は7点描かれたとされ、彼が一番好んだとされる黄色を大胆に使いながらも繊細な色使いで華やかに描かれています。 日本では東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館に1987年に安田火災海上がおよそ58億円で落札した「ひまわり」が所蔵されています。 またゴッホは自画像も多く描いており、その数は30点以上にも及びます。 自画像を多く描いた理由としては、「モデルがいなかったから」「自分をうまく表現できることで他の人々もうまく表現できると思うから」というのが大きかったと考えられています。 自画像は同じ人物を描くため変化が見られにくい作品になりがちですがゴッホの自画像は時代の流れや心情によって大きく作風が変化しているため、絵のタッチや色彩・背景などがさまざまでその当時のゴッホの精神状態をうかがい知ることができます。 ゴッホの性格は? 長く暗い時間を過ごしたゴッホ ゴッホは幼い頃から癇癪持ちであり、無断で1人で遠出したり学校を途中で辞めたりと両親や家政婦、教師からは手のかかる扱いにくい子とされていました。 また頑固で気性の激しい性格から社会にはうまく適応できない人物だったと考えられてます。 一方で家族に対しては優しい一面も持っており当時11歳だったゴッホが父の誕生日にプレゼントしたとされる「農場の家と納屋」(1864年)という作品が残っています。 ゴッホの名言は? このまま行けと、僕の中の僕が命じるんだ。 偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、 小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ。 何も後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう。 自分の中で一度燃え上がった想いというのは、止めることができない。 私はいつも、まだ自分ができないことをする。 そのやり方を学ぶために。 ゴッホの絵の特徴 ゴッホの作品には以下の特徴があります。 鮮やかな黄色と青色を使った作品 ゴッホ「夜のカフェテラス」 代表的な「ひまわり」(1888年)をはじめ「夜のカフェテラス」(1888年)や「ローヌ川の星月夜」(1888年)などゴッホの絵には黄色と青色を使った作品が多くあります。 黄色と青色を多く使った理由として考えられているのは、• 1 目の病気で色彩の感覚が普通とは違ったから。 2 貧乏であるために使える色が限られていたから。 3 単純に黄色が好きで反対色である青色も色を強調するために自然と使うようになったから。 などの説があります。 厚塗りの作品 ゴッホの絵は絵の具を塗っているというよりは乗せているという表現が正しいくらい厚塗りです。 何度も絵の具を重ねているのでボリューム感が出ていますし、勢いや立体感が感じられる作品となっています。 浮世絵に魅せられ描いた作品 ゴッホ「花魁」 日本の浮世絵に魅了されていたゴッホは模写はもちろん自身の作品に浮世絵を取り入れることもあった画家で日本に関する本を読んだり、浮世絵を集めたりととても関心を持っていたそうです。 そんなゴッホが浮世絵に関心を持ったように、現代の私たちもゴッホの作品に関心を持ち作品を鑑賞しているというのはなんだか面白いですね。 うねっていたり渦巻いている作品 星月夜 「星月夜」(1889年)や自画像(1889年)といった晩年に描かれた作品には絵がうねっていたり背景が渦巻いているものがあります。 これはゴッホの特徴的な描き方であると共に精神の不安定さが現れているとされます。 当時のゴッホの精神の不安定さが作品のうねり具合、渦巻き具合によって分かるのです。 この知識を入れた上で改めて作品を見ると絵の見方が変わって楽しいと思いますよ。 ゴッホの絵の見方 ゴッホの絵の見方で最も重要なのは作品が作られた時期です。 絵を学び始めた時期や浮世絵にはまった時期、さらには晩年の精神が不安定な時期など画家としてはたった10年ほどしか活動していないのにも関わらず制作時期によって大きく技法や印象が変わっているのは作品を鑑賞する上で面白さが感じられる所です。 ゴッホの作品を大きく4つの時期に分けると• 1880年~1885年頃…とても暗く貧しい人たちにスポットライトを当て描かれた作品ばかり• 1885年~1888年頃…パリへ引っ越すとこれまでとは全く違う明るく鮮やかな色彩に• 1888年から1889年頃…補色(互いの色が引き立ちあう色合い)を学び、様々な角度から考え作られた作品に• 1889年~1890年…うねりや渦巻いている背景が多くなりゴッホならではの集大成が出来上がる という感じになりますが時期によって幸せな時間だったと考えられる作品があったり反対に苦悩した時間だったのだろうと考えられる作品があり絵画を通してゴッホの人生や感性を感じられると思います。 ゴッホとゴーギャンの関係 ゴーギャンとゴッホの自画像 体調を崩しがちだったゴッホはアルルへ引っ越してくると画家との共同生活を考えます。 何人かの画家に手紙を送り、その誘いに乗ったのがゴーギャンでした。 ゴッホとゴーギャンは性格も違えば作品に対する考え方も違うため、結局わずか2ヵ月ほどで共同生活は解消しています。 しかし互いが全く違う感性をもっていたからこそ2人は深く絵画について語り合い、ゴッホの数々の名作を生むことができたのでしょう。 これは共同生活がわずか2ヵ月という期間でありながらゴッホの制作した絵画が35点以上であるということからも濃密な時間だったことが分かります。 ゴッホにまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「ゴッホの絵は生前一枚しか売れなかった!しかし他の説も…?」 ゴッホは生涯で2100枚以上の作品を残したとされていますが、実は生前に売れた作品はわずか1点だったという話があります。 その作品が「赤い葡萄畑」(1888年)という絵画です。 「赤い葡萄畑」はゴッホの友人であった詩人のウジェーヌ・ポックの姉、アンナ・ポックが400フラン(現在の11万円ほど)で購入しました。 これが唯一生前売れた作品とされているのですが、現代において新たな説がさらに2つ出てきました。 ゴッホ「赤い葡萄畑」 1つ目は実は他にも数枚売っていた説。 2つ目はゴッホの弟テオが兄の才能を見極め、生活を援助する代わりに作品を全て提供してもらっていた説です。 テオは画商だったため、画家が亡くなった後に作品価値が上がることを見越して、あえてゴッホが生きている間にはゴッホが描いた作品を売らなかったのではないかというのです。 しかし結果的にゴッホが亡くなってすぐにテオも病死してしまったため作品のほとんどが残ったままになったとされています。 さまざまな説がありますがどの説にせよ、ゴッホが描いた多くの作品が失われることなく現在も鑑賞できるのはとても大きなことですよね。 都市伝説・武勇伝2「精神が病んだゴッホは自分で耳を切り落とした」 ゴッホ「耳に包帯をした自画像」 ゴッホは若い時から精神的なバランスがあまり安定していない人でした。 そして1888年、当時ゴッホはゴーギャンという画家と共同生活をしていたのですが次第に性格の違いや価値観の違いから関係が悪化し、精神が不安定になったゴッホは自らの左耳を切り落としたといわれています。 その後ゴッホは切り落とした耳を女性にプレゼントしています。 そのプレゼントを見た女性が警察に通報し、ゴッホの家を訪れるとベッドに横たわったゴッホを発見し病院に搬送されたそうです。 ゴッホ自身はこの事件について記憶がないとされていますがこの事件の後に描かれた自画像は左耳が包帯で巻かれており、それ以降の作品では左耳が見えない角度からの自画像を描いています。 ゴッホの早見年表 ゴッホの具体年表 1853年 — 0歳「ゴッホ誕生」 生誕の地ズンデルト ゴッホの家 フィンセント・ファン・ゴッホが生まれた家とは 牧師である父テオドルス・ファン・ゴッホ一世と母アンナ・コルネリア・カルベントゥスは1番初めに生まれた子供を死産で亡くしています。 そしてその次に生まれたのが後に有名な画家となるフィンセント・ファン・ゴッホです。 フィンセントという名前は祖父や叔父、さらには1番初めに生まれた子供と同じ名前で「勝利者」という意味をもちます。 ゴッホは幼い頃から癇癪持ちであったため両親や妹たちと喧嘩が絶えず問題児として扱われていましたがその中でも祖父や叔父はゴッホを可愛がってくれゴッホも2人を慕っていました。 そしてフィンセントには5人の兄弟がいますが、中でも3番目の子供であり父と同じ名前のテオドルスと仲が良くフィンセント・ファン・ゴッホの一生を語る上でとても重要な人物になります。 ゴッホの家系はすごい人たちばかり ゴッホ一族は大臣や外交官になった人もいるオランダでは名門の家だったそうです。 そして祖父は牧師、祖父の子供の5人のうち1人は海軍の将官となり3人は画商、ゴッホの父であるテオドルス・ファン・ゴッホ一世は祖父と同じ牧師となりました。 かなり裕福な家系で育ったためゴッホは学校に通わなくても家庭教師をつけることで、母国語であるオランダ語のほか英語やフランス語なども習得しています。 そして何より叔父らが画商であるという家系が後の有名画家ゴッホを作り上げる基礎となったのでしょう。 1869年 — 16歳「画商であるグーピル商会のハーグ支店で働き始める」 若き日のゴッホ 美術に興味を持ち始めたきっかけ 学校を辞めたゴッホは叔父の助けもあり16歳でグーピル商会で働き始めます。 ゴッホの勤務態度は非常に良く上司はゴッホの両親に勤勉であることを評価し書き送っています。 そして画商として働く中で勤務先の近くにあったマウリッツハイス美術館などに足を運び、そこで様々な絵画に触れることで美術に興味を持ち始めました。 失恋・キリスト教への関心から勤務態度は悪化 グーピル商会で働き始めて4年が経った頃ゴッホはロンドンに転勤になりました。 そしてロンドン支店の下宿先の女の子にゴッホは恋に落ちたのです。 しかし告白したものの振られてしまいゴッホはひどく落ち込みます。 その頃からキリスト教に関する本を読み始め、ゴッホはお金のことを1番に考える会社の経営方針に疑問を持ち始め徐々に会社が合わないと感じます。 そしてゴッホの勤務態度は悪くなっていき、次第に無断欠勤するなどし最後にはグーピル商会から解雇されてしまいました。 このことを知った両親は大変驚き、失望しました。 1876年 — 23歳「聖職者を志すが挫折し断念」 会社を解雇されたゴッホはいくつもの仕事をしたが続かなかった なかなか続く仕事が見つからないゴッホ グーピル社からの解雇後、ゴッホは無給で教師になり少年たちにフランス語や算術などを教えました。 しかし少年たちは皆貧しく、授業料も払えないほどの子どもたちでゴッホはそんな子たちからお金を徴収することができず仕事をクビになりました。 その後ゴッホは貧しい人々を救いたいと思うようになり牧師の手伝いを始めました。 しかし今度は働きすぎで体を壊してしまい実家に戻ることになったのです。 困った両親は親戚に相談し、働き先をなんとか見つけゴッホは書店で働くことになりました。 ただゴッホは時間があればずっと聖書を読み、様々な言語に翻訳をするなど全く本を売ることはしませんでした。 そして最終的には牧師になることを諦めることができず、わずか3ヵ月で書店を辞めてしまいます。 牧師や伝道師を夢見るも挫折し断念 牧師を夢見たが… 牧師になりたいという夢を持ったゴッホは両親を説得し、学校に入学するため受験勉強をします。 受験勉強の期間は海軍造船所長官だったヤン叔父のもとに身を寄せ、家庭教師をつけながら生活し勉強に励みました。 しかし、試験はかなり難しく、なおかつ受験科目が多いことで挫折をし結果14ヵ月間ゴッホは勉強をしましたが学校に入ることは叶いませんでした。 そして次にゴッホがなりたいと思ったのが伝道師です。 伝道師になるため学校に入り再度勉強をしますが、癇癪持ちのゴッホは先生や仲間たちに乱暴な言葉を使うなどし伝道師と認められず退学をします。 その後個人的に伝道師として活動し始め、才能を評価した貧しい土地の伝道師委員会から仮採用されより精力的に活動しました。 ただ人々の評価は得られず6ヵ月ほど過ぎた頃、伝道師の仮採用は終了しゴッホは牧師としても伝道師としても道が無くなってしまいました。 1880年 — 27歳「ついに画家になることを決めたゴッホ」 ゴッホ最初期の水彩画 仕事をしないゴッホは周りから軽蔑された 仕事を転々とし、牧師にも伝道師にもなれなかったゴッホは両親からの仕送りでなんとか生活している状態でしたがそんな彼を兄弟たちも批判しました。 この頃のゴッホは夢も希望も無くなり、人生について苦悩していたのです。 そんな苦悩の中、風景や人々の絵を描いていたゴッホはやがて本格的に絵を描くことを決めます。 ゴッホは絵を描くだけでは生活ができないため弟のテオに生活費の援助をしてもらうようになり絵を描くことだけに集中しました。 アカデミーのコースに通い絵を勉強し始める 絵を勉強しようとゴッホは画家と交流を持ちアドアイスを受けます。 そして画家に勧められアカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに通い勉強しました。 遠近法や解剖学を学びこの頃の作品は風景画や人物画を力強く描いていました。 またゴッホは多くの作品を作る中でモデルとして雇った女性に恋に落ちることもありましたが結婚には至らず、その上モデルと恋愛をすることを良く思わない画家たちとは疎遠になっていくこともありました。 1885年 — 32歳「突然の父の死と最初の本格的作品の完成」 父の死で家を追い出されたゴッホ 1883年に体を壊したゴッホは父が赴任していたオランダのニューネンに行き両親と共に生活していました。 しかし1885年3月26日、父のテオドルス・ファン・ゴッホ一世が突然亡くなったのです。 ゴッホは数日仕事もままならず、忘れることは無いとしていましたが妹のアンナからは父を苦しめたのはゴッホでありこのままでは母も死んでしまうと家から追い出されました。 「じゃがいもを食べる人々」を完成させるもモデルが妊娠? ゴッホ「じゃがいもを食べる人々」 数年にわたり描いてきたとされ、ゴッホ最初の本格的作品とも言われる「じゃがいもを食べる人々」がこの年完成しました。 ゴッホ自身は大満足の出来ではあったものの弟のテオをはじめ友人であったラッパルトなどからは批判され、ラッパルトとは絶交するまでに至っています。 さらにこの作品のモデルとなった女性が妊娠したことでゴッホが妊娠をさせたのではないかという疑いがかりました。 そのためカトリック教会から村民に対しゴッホのモデルにならないよう命令が下り、ゴッホはモデルを探すこともできなくなりこの町から出ていくことを決めました。 1887年 — 34歳「ゴッホの作品に変化が訪れた時期」 弟テオとの同居で作品に変化が現れた ベルギー・モンスにあるゴッホの家 ニューネンを出たゴッホはベルギーに引っ越し、しばらくの間絵を描いていました。 しかしお金は無く、貧しい生活が続いたためテオのもとへ足を運び一緒に暮らし始めたとされています。 この同居の期間にゴッホは印象派・新印象派といった当時パリで流行していた表現の仕方に触れ自身の絵も暗い色彩から明るく華やかな色彩へ変化していきました。 またこの年には同じ画家であったベルナールやアンクタンらと絵の展覧会を開き自身らを「小並木通りの画家」と称していましたが当時のパリでは見向きもされなかったそうです。 日本の浮世絵がパリに現れゴッホは魅了された ゴッホ「タンギー爺さん」 エドモン・ド・ゴンクールという作家が書いた小説で日本美術に魅了されたゴッホは多くの浮世絵を購入します。 この時代はパリをはじめ世界で日本の美術「ジャポニズム」が流行した頃でゴッホも浮世絵に魅了された1人でした。 この頃のゴッホの作品には浮世絵を取り入れており「タンギー爺さん」(1887年)の作品では背景に浮世絵が描かれています。 このほか、歌川広重の「名所江戸百景」(1887年)「亀戸梅屋舗」(1887年)や渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」(1887年)などの作品を模写した絵画も発見されており、ゴッホがいかに日本の浮世絵に魅せられていたか分かりますね。 1888年 — 35歳「ゴッホの名作の数々が生まれた時期」 ゴーギャンとの同居が名作を生んだ ゴッホ「アルルの寝室」 テオと同居していたゴッホですがまたしても人間関係が悪くなりパリを出ていきます。 次に訪れたのは南フランスのアルルという場所です。 ゴッホにとってアルルは景色がきれいで創作意欲がとても出る土地でした。 しかし、1人では金銭的に大変なことや絵画について刺激し合う仲間が欲しい思ったゴッホはゴーギャンという画家に共同生活をしないかという誘います。 ゴーギャンがアルルに到着するまでにゴッホは数々の名作を生み出しました。 その理由としてはゴーギャンに自分の自信作を見てほしかったからという考えがあったとされ、• ひまわり(1888年)• 夜のカフェ(1888年)• 夜のカフェテラス(1888年)• アルルの寝室(1888年) など後にゴッホの代表作として名を挙げられる作品を多数作り上げました。 順調だった生活は徐々に崩れ自らの耳を切り落としたゴッホ ゴッホ「赤い葡萄畑」 ゴーギャンとの共同生活が始まり互いに刺激し合いながら順調に作品をゴッホは作っていきます。 この時に描いた「赤い葡萄畑」(1888年)はゴッホの生前唯一売れた作品とされるくらい有名ですよね。 しかし順調な生活も束の間であり1ヵ月も経つとゴーギャンとの関係は緊張していきます。 色彩や手法などの意見が合うことはなく互いの作品に対して不満が出てきてしまったのです。 そして1888年12月23日、ゴッホは精神が不安定になり自らの左耳を切り落としました。 さらに切り落とした耳を女性に渡しています。 その後女性からの通報で警察がゴッホの家に行くと血まみれでベッドに横たわるゴッホを見つけそのまま病院へ搬送されたそうです。 この事件がきっかけでゴーギャンとの生活は終わりを告げゴーギャンはパリへ帰ってしまいました。 1889年 — 36歳「入退院を繰り返し絵を描くことも禁止に」 退院と入院を繰り返す日々 ゴッホ「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」 耳を切り落としたことで入院していたゴッホは回復し退院しました。 退院すると自画像を描いたり怪我で中断していた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」(1889年)などを完成させるなど再び画家として活動します。 しかし順調に回復していると思われていたものの今度は「自分は毒を盛られている」など幻覚症状が現れ始め再度入院をすることになりました。 数週間後、無事退院することはできましたがゴッホが1人で生活することは厳しく、なおかつ近隣住民から不安の声がでたためゴッホの居場所は無く別の精神病院への入院を余儀なくされたそうです。 絵を描けない不満をテオにぶつけるが返事は無く… これまでのゴッホは作品を作り始めると食事もほとんど取らずひらすら作品にのめり込んでいたため、その様子を見た医師から栄養不足や体への負担を考え絵を描くことを禁止されました。 絵を描くことがなによりもの幸せだったゴッホにとって絵を描けない期間が苦痛で仕方なくその思いをテオにも手紙で語っています。 しかし、一方のテオは婚約者との新居の準備や結婚式の準備で忙しくゴッホにほとんど手紙の返信をしませんでした。 ゴッホにとって唯一ともいえる話相手がいなくなってしまったことはかなり大きなものだったと考えられますね。 1890年 — 37歳「わずか37歳にして旅立ったゴッホ」 病院での創作許可とテオへのプレゼント ゴッホ「カラスのいる麦畑」 病院でしばらく生活をし体調が安定していたゴッホは医者から作品を作ってもよいと判断されます。 そのため再び絵を描き始めたゴッホですがその間もてんかんとみられる発作などで何度も治療していました。 そんな辛く、大変な生活の中テオから嬉しい報告がありました。 1つはテオに子供ができたこと、もう1つはゴッホの作品「赤い葡萄畑」が売れたことです。 ゴッホはテオに子供ができたことを喜び、「花咲くアーモンドの木の枝」(1890年)という作品をテオに送っています。 またこの頃からようやくゴッホの絵が評価され始めいくつかの美術展で作品が展示されるなどしています。 体調が回復したり悪化したりを繰り返していたゴッホですが病院を退院し1度テオのもとへ行き生活していたそうです。 しかしパリの騒音や気疲れからすぐに別の町へ旅立つことになります。 そこで会ったガシェ医師に体調を見てもらいつつ、• 荒れ模様の空の麦畑(1890年)• カラスのいる麦畑(1890年) など大作を作り続けていました。 謎の死で生涯を遂げたゴッホ 謎を多く残すゴッホの死 1890年7月27日ゴッホは下宿先の旅館からいつものように散歩に行きました。 しかしいつもより帰りが遅いことから旅館の主人は心配をします。 やっと帰ってきたゴッホですが黙って2階に行ってしまい、主人はより違和感を持ちます。 そして2階に行きゴッホの部屋を訪れるとそこには血だらけで横たわっているゴッホがいたのです。 慌ててガシェ医師に連絡をし見てもらったものの体には弾丸が入っている状態、さらにその弾丸が取れるような状態ではないということから手術も不可能で絶対安静の処置が取られました。 そしてガシェ医師から連絡を受けたテオは急いでゴッホの元へ駆けつけます。 テオが着いたときにはまだ意識はあったもののしばらくしてゴッホは息を引き取りました。 ゴッホの死については自殺という説が可能性としては高いとされていますが、弾丸の入り方が自殺にしては不自然であることから少年たちが誤射してしまいそれがゴッホの体に命中してしまったという説も考えられています。 どちらの説にせよ、天才的画家ゴッホが37歳という若さで亡くなってしまったのは悲しいですね。 関連作品 ゴッホに関連するおすすめ書籍・本・漫画 もっと知りたいゴッホー生涯と作品 この映画の魅力はなんといっても映し出される映像全てがゴッホの描いた絵を現代の技術によって動く油絵にしているという所です。 俳優たちがグリーンバックの前で演技をし、それをCGで加工したりゴッホのような絵のタッチでうまく映像として溶け込ましており、まるで本当にゴッホの絵が動いてるように見える映画です。 ゴッホの人生を知りながらも映画自体もアートとして見ることができるのでアート好きにはたまらない作品になっていると思います。 ゴッホについてのまとめ 名作「ひまわり」はゴッホの代表作でもあり、世界的な美術作品ですよね。 でもそんな名作を作ったゴッホの生涯はどこか寂しく、儚いものだったと今回ゴッホの生涯をまとめている際に感じました。 彼が絵に込めた想いはなんだったのか、生前全く売れなかった作品が現代では世界的作品となっていることを彼はどう思うのか、少し想像しながらゴッホの作品を見るとまた面白い発見があると思います。 私自身としては今回ゴッホの生涯をまとめたことで画家フィンセント・ファン・ゴッホの生涯と作品にみなさんが少しでも興味を持って下されば嬉しいです。

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【ゴッホの生涯まとめ】どんな人?意外なゴッホの人生とは?

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ゴッホが見つめた荘厳な美、ゴッホを傷つけた壮絶な美。 カメラがゴッホの視点になり、シュナーベルはゴッホになる。 ジュリアンは映画に自身を投影し、彼にとって非常に大切なものを提示している。 美術史上最も重要かつ人気の高い画家の一人、フィンセント・ファン・ゴッホ。 生前に才能を認められず、孤独と共に生きたドラマティックなその人生は、これまで幾度も映像化されてきた。 それこそが、実際にゴッホの見ていた〈世界〉であり、彼は「自分だけに見えるその美しさを人々に伝えたい」という使命と情熱から絵筆をとったと考えたのが、同じ画家としてゴッホの作品と長年向き合ってきたジュリアン・シュナーベル。 撮影前から南フランスのアルルの大地を歩き回り、シュナーベルに絵画を学び、まずは肉体からやがて存在そのものまで、ゴッホへと変貌していったデフォー。 そのキャリアの集大成にして頂点の演技を、ワールドワイドに活躍する実力派俳優たちが支えた。 アルルでのひと時を共に暮らしたゴーギャンには、『スター・ウォーズ』新シリーズのオスカー・アイザック。 有名な事件によって最後は決裂したとされるゴッホとゴーギャンの友情にも、温かな光を灯すような新たな解釈が加えられた。 さらに、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のマッツ・ミケルセンや、『潜水服は蝶の夢を見る』でもシュナーベルとタッグを組んだマチュー・アマルリックやエマニュエル・セニエらが出演。 未来の人々までも救うことが出来る、芸術という贈りものを遺すことに、自分が生まれてきた意味を見出していくゴッホ。 彼の魂が自由に羽ばたける高みへと解き放たれるその瞬間、あなたの傷ついた魂も解放される、感動の一大アートエンターテイメント。 画家としてパリでは全く評価されていないフィンセント・ファン・ゴッホ(ウィレム・デフォー)。 彼は、会ったばかりのゴーギャン(オスカー・アイザック)の「南へ行け」というひと言で、南フランスのアルルへやって来る。 「まだ見ぬ絵を描くために、新しい光を見つけたい」というゴッホの願いは、この地で春を迎えた時に叶えられた。 広大な畑をひたすら歩き、丘に登って太陽に近づき、画材を取り出すゴッホ。 竹の枝で作ったペンの先から、たちまちゴッホだけの線が生まれていく。 どこまでも続く風景に絶対的な美を見出したゴッホは、「永遠が見えるのは僕だけなんだろうか」と自身の胸に問いかける。 風になびく麦の穂や沈みゆく太陽を見つめるゴッホの瞳は、不思議な輝きを放っていた。 ある時、地元の人々とトラブルになったゴッホは、強制的に病院へ入れられる。 駆け付けてくれた弟のテオ(ルパート・フレンド)にも、初めて特別なものが見えることを打ち明けるのだった。 自然を見て描くゴッホと、自分の頭の中に見えるものを描くゴーギャン。 一瞬で真実を捉えようと素早く描くゴッホ、ゆっくりと降りてくるのを待つゴーギャン。 屋外に美を探し求めるゴッホ、内面に深く潜るゴーギャン、すべては正反対だ。 それでもゴッホは、「僕らの時代だ」と熱く語るゴーギャンに心酔し、ますます創作にのめり込むが、やがてゴーギャンが去って行くことは止められなかった。 再び一人になり絶望したゴッホをこの世に繋ぎとめたのは、描き続ける情熱だけだった。 相変わらず1枚の絵も売れない日々の中、ゴッホは神父にそっと語る。 ウィレム・デフォー │ フィンセント・ファン・ゴッホ │ 1955年7月22日、アメリカ・ウィスコンシン生まれ。 ニューヨークを拠点とする実験的な劇団ウースターグループで活動後、マイケル・チミノ監督の『天国の門』(81)で映画デビュー。 『ストリート・オブ・ファイヤー』(84)のギャングのリーダー・レイヴェン役で注目を集め、『最後の誘惑』(88)、『スパイダーマン』(02)、『アンチクライスト』(09)、『グランド・ブダペスト・ホテル』(13)などハリウッド大作からインディペンデントの話題作まで100本以上の映画に出演する。 カルト・ムービーのクラシック『処刑人』(99)の狂信的なFBI捜査官や、フィルム・ノワール風の『ジョン・ウィック』(14)で演じたベテランの殺し屋など役の幅が広く、世界的に尊敬を集める。 声優としても『ファインディング・ニモ』(03)などに出演。 ルパート・フレンド │ テオ・ファン・ゴッホ │ 1981年10月1日、イギリス・イングランド オックスフォードシャー生まれ。 ロンドンのウェバー・ダグラス演劇学校で学び、舞台出演を経て、『リバティーン』(04)で映画デビュー。 この作品でジョニー・デップやジョン・マルコヴィッチと共演し、英国インディペンデント映画賞有望新人賞にノミネートされる。 その後『プライドと偏見』(05)、『縞模様のパジャマの少年』(08)、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(09)、『スターリンの葬送狂騒曲』(17)などに出演。 シーズン6まで出演したテレビドラマ「ホームランド」(02~17)で人気を博し、エミー賞にノミネート。 『名もなき塀の中の王』(13)では、英国インディペンデント映画賞助演男優賞にノミネートされた。 マッツ・ミケルセン │ 聖職者 │ 1965年11月22日、デンマーク・コペンハーゲン生まれ。 97年のニコラス・ウィンディング・レフン監督作『プッシャー』で映画デビュー。 続編『プッシャー2』(04)では、デンマーク・アカデミー賞主演男優賞、デンマーク映画批評家協会賞主演男優賞受賞。 その他の出演作は『しあわせな孤独』(02)、『007/カジノ・ロワイヤル』(06)、『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』(11)、『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』(12)、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(16)、『ドクター・ストレンジ』(16)など。 『偽りなき者』(12)では、児童虐待の濡れ衣を着せられて不当な告発を受ける幼稚園の教師を演じ、カンヌ国際映画祭男優賞を受賞した。 オスカー・アイザック │ ポール・ゴーギャン │ 1979年3月9日、グアテマラ・グアテマラシティ生まれ。 アメリカに移住し、フロリダ州マイアミで育ちながら、若き情熱と才能を音楽と演技に注ぐ。 ニューヨークの名門ジュリアード学院で演技を学ぶ。 コーエン兄弟監督作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(13)に主演し、ゴールデン・グローブ賞主演男優賞ノミネート、全米映画批評家協会賞主演男優賞受賞。 HBOのミニシリーズ「HERO 野望の代償」(15)で1980年代末のニューヨーク州ヨンカーズ市の若き市長役で激賞されゴールデン・グローブ賞主演男優賞受賞。 その他主な出演作は『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』(14)、『エクス・マキナ』(15)、『サバービコン 仮面を被った街』(17)など。 『スター・ウォーズ』新シリーズでは、レジスタンスのパイロット、ポー・ダメロン役で出演している。 オタール・イオセリアーニ監督作『Les Favoris de la lune』(84)で映画デビューし、『そして僕は恋をする』(96)で人気を博す。 主な出演作は、セザール賞主演男優賞を受賞したアルノー・デプレシャン監督作『キングス&クイーン』(04)、スティーヴン・スピルバーグ監督作『ミュンヘン』(05)、『007/慰めの報酬』(08)、ウェス・アンダーソン監督作『グランド・ブダペスト・ホテル』(13)など。 ジュリアン・シュナーベル監督作品の『潜水服は蝶の夢を見る』(07)に主演し、この作品でもセザール賞主演男優賞を受賞した。 また監督としても活躍しており、『さすらいの女神(ディーバ)たち』 (10)ではカンヌ国際映画祭監督賞を受賞している。

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ゴッホの生涯と作品について 〜知られざるポスト印象派の世界〜

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ゴッホが見つめた荘厳な美、ゴッホを傷つけた壮絶な美。 カメラがゴッホの視点になり、シュナーベルはゴッホになる。 ジュリアンは映画に自身を投影し、彼にとって非常に大切なものを提示している。 美術史上最も重要かつ人気の高い画家の一人、フィンセント・ファン・ゴッホ。 生前に才能を認められず、孤独と共に生きたドラマティックなその人生は、これまで幾度も映像化されてきた。 それこそが、実際にゴッホの見ていた〈世界〉であり、彼は「自分だけに見えるその美しさを人々に伝えたい」という使命と情熱から絵筆をとったと考えたのが、同じ画家としてゴッホの作品と長年向き合ってきたジュリアン・シュナーベル。 撮影前から南フランスのアルルの大地を歩き回り、シュナーベルに絵画を学び、まずは肉体からやがて存在そのものまで、ゴッホへと変貌していったデフォー。 そのキャリアの集大成にして頂点の演技を、ワールドワイドに活躍する実力派俳優たちが支えた。 アルルでのひと時を共に暮らしたゴーギャンには、『スター・ウォーズ』新シリーズのオスカー・アイザック。 有名な事件によって最後は決裂したとされるゴッホとゴーギャンの友情にも、温かな光を灯すような新たな解釈が加えられた。 さらに、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のマッツ・ミケルセンや、『潜水服は蝶の夢を見る』でもシュナーベルとタッグを組んだマチュー・アマルリックやエマニュエル・セニエらが出演。 未来の人々までも救うことが出来る、芸術という贈りものを遺すことに、自分が生まれてきた意味を見出していくゴッホ。 彼の魂が自由に羽ばたける高みへと解き放たれるその瞬間、あなたの傷ついた魂も解放される、感動の一大アートエンターテイメント。 画家としてパリでは全く評価されていないフィンセント・ファン・ゴッホ(ウィレム・デフォー)。 彼は、会ったばかりのゴーギャン(オスカー・アイザック)の「南へ行け」というひと言で、南フランスのアルルへやって来る。 「まだ見ぬ絵を描くために、新しい光を見つけたい」というゴッホの願いは、この地で春を迎えた時に叶えられた。 広大な畑をひたすら歩き、丘に登って太陽に近づき、画材を取り出すゴッホ。 竹の枝で作ったペンの先から、たちまちゴッホだけの線が生まれていく。 どこまでも続く風景に絶対的な美を見出したゴッホは、「永遠が見えるのは僕だけなんだろうか」と自身の胸に問いかける。 風になびく麦の穂や沈みゆく太陽を見つめるゴッホの瞳は、不思議な輝きを放っていた。 ある時、地元の人々とトラブルになったゴッホは、強制的に病院へ入れられる。 駆け付けてくれた弟のテオ(ルパート・フレンド)にも、初めて特別なものが見えることを打ち明けるのだった。 自然を見て描くゴッホと、自分の頭の中に見えるものを描くゴーギャン。 一瞬で真実を捉えようと素早く描くゴッホ、ゆっくりと降りてくるのを待つゴーギャン。 屋外に美を探し求めるゴッホ、内面に深く潜るゴーギャン、すべては正反対だ。 それでもゴッホは、「僕らの時代だ」と熱く語るゴーギャンに心酔し、ますます創作にのめり込むが、やがてゴーギャンが去って行くことは止められなかった。 再び一人になり絶望したゴッホをこの世に繋ぎとめたのは、描き続ける情熱だけだった。 相変わらず1枚の絵も売れない日々の中、ゴッホは神父にそっと語る。 ウィレム・デフォー │ フィンセント・ファン・ゴッホ │ 1955年7月22日、アメリカ・ウィスコンシン生まれ。 ニューヨークを拠点とする実験的な劇団ウースターグループで活動後、マイケル・チミノ監督の『天国の門』(81)で映画デビュー。 『ストリート・オブ・ファイヤー』(84)のギャングのリーダー・レイヴェン役で注目を集め、『最後の誘惑』(88)、『スパイダーマン』(02)、『アンチクライスト』(09)、『グランド・ブダペスト・ホテル』(13)などハリウッド大作からインディペンデントの話題作まで100本以上の映画に出演する。 カルト・ムービーのクラシック『処刑人』(99)の狂信的なFBI捜査官や、フィルム・ノワール風の『ジョン・ウィック』(14)で演じたベテランの殺し屋など役の幅が広く、世界的に尊敬を集める。 声優としても『ファインディング・ニモ』(03)などに出演。 ルパート・フレンド │ テオ・ファン・ゴッホ │ 1981年10月1日、イギリス・イングランド オックスフォードシャー生まれ。 ロンドンのウェバー・ダグラス演劇学校で学び、舞台出演を経て、『リバティーン』(04)で映画デビュー。 この作品でジョニー・デップやジョン・マルコヴィッチと共演し、英国インディペンデント映画賞有望新人賞にノミネートされる。 その後『プライドと偏見』(05)、『縞模様のパジャマの少年』(08)、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(09)、『スターリンの葬送狂騒曲』(17)などに出演。 シーズン6まで出演したテレビドラマ「ホームランド」(02~17)で人気を博し、エミー賞にノミネート。 『名もなき塀の中の王』(13)では、英国インディペンデント映画賞助演男優賞にノミネートされた。 マッツ・ミケルセン │ 聖職者 │ 1965年11月22日、デンマーク・コペンハーゲン生まれ。 97年のニコラス・ウィンディング・レフン監督作『プッシャー』で映画デビュー。 続編『プッシャー2』(04)では、デンマーク・アカデミー賞主演男優賞、デンマーク映画批評家協会賞主演男優賞受賞。 その他の出演作は『しあわせな孤独』(02)、『007/カジノ・ロワイヤル』(06)、『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』(11)、『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』(12)、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(16)、『ドクター・ストレンジ』(16)など。 『偽りなき者』(12)では、児童虐待の濡れ衣を着せられて不当な告発を受ける幼稚園の教師を演じ、カンヌ国際映画祭男優賞を受賞した。 オスカー・アイザック │ ポール・ゴーギャン │ 1979年3月9日、グアテマラ・グアテマラシティ生まれ。 アメリカに移住し、フロリダ州マイアミで育ちながら、若き情熱と才能を音楽と演技に注ぐ。 ニューヨークの名門ジュリアード学院で演技を学ぶ。 コーエン兄弟監督作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(13)に主演し、ゴールデン・グローブ賞主演男優賞ノミネート、全米映画批評家協会賞主演男優賞受賞。 HBOのミニシリーズ「HERO 野望の代償」(15)で1980年代末のニューヨーク州ヨンカーズ市の若き市長役で激賞されゴールデン・グローブ賞主演男優賞受賞。 その他主な出演作は『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』(14)、『エクス・マキナ』(15)、『サバービコン 仮面を被った街』(17)など。 『スター・ウォーズ』新シリーズでは、レジスタンスのパイロット、ポー・ダメロン役で出演している。 オタール・イオセリアーニ監督作『Les Favoris de la lune』(84)で映画デビューし、『そして僕は恋をする』(96)で人気を博す。 主な出演作は、セザール賞主演男優賞を受賞したアルノー・デプレシャン監督作『キングス&クイーン』(04)、スティーヴン・スピルバーグ監督作『ミュンヘン』(05)、『007/慰めの報酬』(08)、ウェス・アンダーソン監督作『グランド・ブダペスト・ホテル』(13)など。 ジュリアン・シュナーベル監督作品の『潜水服は蝶の夢を見る』(07)に主演し、この作品でもセザール賞主演男優賞を受賞した。 また監督としても活躍しており、『さすらいの女神(ディーバ)たち』 (10)ではカンヌ国際映画祭監督賞を受賞している。

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