中国での蝗害 昼間にバッタが天を覆い、まるで夜のように暗くなった。 バッタの死骸が道を塞いだ。 朝廷の食糧庫を開いて、民を救ったなど蝗害によって食糧が不足した事態が『 後漢書 ごかんしょ 』や『 貞観政要 じょうがんせいよう 』にも記載されています。 日本では国土が狭く、バッタが大量発生する条件がそろいにくいため被害はわずかです。 しかし、田や畑を全滅させるほど深刻な被害となり、中国では朝廷の国力が低下する有様でした。 一方で鳥がバッタを食べて、蝗害が収まったという報告もあるように人が手を下した様子はないようです。 宋の時代には生物に詳しい朱子が夜中に火をたくという方法を提案しましたが、それによって被害が軽減したという話はありません。 実質的にバッタが去るのを待つという対応がとられたようです。 そして、食糧がなくなったら、他から買うなどして飢えをしのいでいました。 つまり、朝廷は蝗害が国土を襲っても大丈夫なように常に一定の食糧を確保するという方法をとっていたのです。 もし、食糧が尽きれば、国は滅びます。 それぐらい蝗害は民や朝廷を悩ます自然災害だったのです。 しかしながら、キリスト教徒の徐光啓は洪水や干ばつ、バッタによる飢餓に対して朝廷が食糧を備蓄していなければ、それはもはや 人災であると述べています。 『』 なぜバッタが大量発生するのか? 秋になると土手や畑などで見かけるバッタ。 そんなに集団で行動しているバッタを見たことがないという読者もいるでしょう。 せいぜい一匹か二匹で、田や畑の作物を食い荒らすほど大量に飛んでいることはありません。 実はバッタには「孤独相」と「群生相」の二種類があります。 普段、私たちが見ているのは孤独相のバッタ。 一匹で行動します。 二匹いるとしたら、交尾の最中です。 ところが、 相変異 そうへんい といって羽が巨大化し、体表が暗くなることがあります。 ゴクウブラックならぬバッタブラックです。 バッタブラックに変身すると、さきほどの群生相になり、グループで行動するようになります。 さらにバッタブラックは畑の作物を食い尽くすと同時に卵も産みつけていくのです。 半年かけて育てた作物は食われ、卵まで産み落としたとなると手の付けようがありません。 なお、アメリカのネブラスカ州で発生したバッタブラックは本州の三分の一にまで迫る規模だったそうです。 さらにバッタブラックは飛ぶので、その高さは1. 6キロメートルに達しました。 まさに未曾有の災害と言えるでしょう。
次の200兆匹のバッタは日本にくるのか? 結論から先に 200兆匹のバッタは日本には絶対に来ません。 正確には 来れません。 サバクトビバッタの1日の飛行可能距離は150km。 しかも休憩しながら。 中国の上海と日本の距離約800kmの海を渡ることができないからです。 砂漠地帯で暮らすサバクトビバッタはこれ以上上海以上北に北上する子はまずありません。 なので韓国にすら到着はできないのです。 中国の科学の力と厳しい環境変化に耐えられず死滅は免れないのです。 ただし安心してはいけません。 サバクトビバッタの軍団が通った道は作物被害が甚大です。 輸入に頼っている日本としては食料価格の増加など後々ボディブローのように被害出てくるのは確実なのです。 が、これ以上はどうしようもないのです。 そこで起きた疑問。 「サバクトビバッタは何故そんなに増えるのか?」 「何故数十年おきに発生するのか?」 には納得の理由があります。 今回の蝗害の主役「サバクトビバッタ」は元々アフリカの砂漠と緑地の半々の地域に住む通常は群生もせず、単独で行動する昆虫です。 が、雨季になり少量の雨が降ることでバッタの餌となる「草」が生えてくるのでその餌でお腹いっぱいになると今度は産卵します。 雨季でもアフリカでは少量の雨しか降らないので餌となる草はすぐになくなってしまうので羽化した幼虫は必死に成虫になりさっさと新しい餌場に向かいます。 これを繰り返すのが通常のサバクトビバッタの生態です。 しかし、 「数十年に一度の大雨」が降るとバッタの餌が大量に生い茂り続けるので生まれたての成虫も旅に出ることなくその場でお腹いっぱい食べてまた産卵のサイクルを繰り返せます。 そうです、 砂漠地域でも生き残れる強靭な生命力と繁殖力を持つサバクトビバッタが何世代もその場で食事産卵成長のサイクルを繰り返すことで数万、数十万、百万と増え続けます。 そうすると面白い変化が起きます。 単独を好むサバクトビバッタは、大量の仲間と密接しぶつかり合うことで「相変異(そうへんい)」と呼ばれる肉体の変化を起こし「 翅(はね)が長距離飛行に適した長く強靭に変化します」 更に、仲間との群れて行動するようになり新しい食べ物がある場所へ移動を繰り返し、産卵し、増殖、周囲の仲間も合流して更に増えていくのです。 紀元前2500年ごろから世界中でバッタによる蝗害が記録を残しており定期的に作物を食い荒らし飢餓を巻き起こす悪魔、神罰とも呼ばれています。 そんなとんでもない蝗害はどのようにして退治・駆除して終わらせるのでしょうか? 蝗害はどのように終わる?退治・駆除・放置? 実は日本でも2007年に関西国際空港で3000万匹のトノサマバッタが公害を引き起こしました。 発生原因は天敵のいない孤島で条件が整い大量発生。 しかし 薬剤散布によって駆除しました。 そして残る100万となった時バッタはもう一つの天敵、 カビに感染し終息しました。 あともう一つの終息方法は、 天候の変化でバッタの繁殖が止まることです。 バッタも偶然好条件が整ったことで以上繁殖しますがサバクトビバッタも乾燥地帯を好みますが長い間(日本で言う梅雨)のような雨が降り続けることで繁殖できず死滅していきます。 ただしこれは神頼みに頼る部分があるので対策としては不十分。 そして今回以上発生したサバクトビバッタは順調に増え続け200兆匹となった大群が6月に中国に到着すると言われています。 バッタ対策で薬剤散布をする予定ですが実はあまりに日本の面積の3倍に広がった状態で中国に到着するため広すぎる範囲に薬剤散布は間に合わないのでは?と言われています。 この200兆匹の蝗害は新型コロナ以上の被害を与えるのでは?とも言われています。 何故このタイミングで・・・茫然とするかないですね。 ケニアで70年ぶり最悪の蝗害(こうがい)。 サバクトビバッタの大群が作物を食い荒らす。 — ロイター ReutersJapan• あわせて読みたい•
次の概要 [ ] 中国では昔から、蝗災(蝗害)、水災()、旱災()が3大災害の扱いを受けている。 そもそも【蝗】の字は農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので虫へんに皇と書くとする説がある ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた。 『』巻第八、務農第三十にあるのが蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている。 の1937年の著『中国救荒史』によると、代の蝗害は平均で8. 8年おき、時代には3. 5年おき、には1. 6年おき、代には2. 8年おきであり、中国は世界規模で見ても蝗害を多く受けてきた地域の一つである。 中国の蝗害のほとんどはによるものである。 明末の農学者は著書『除蝗疏』 ()の中で「政府が非常時の食を蓄えておかずに飢餓の被害が広がったとすれば、それは人災というべきものである。 飢餓の主因は3つ、洪水、旱魃、バッタである(國家不務畜積、不備凶饑人事之失也。 凶饑之因有三、曰水、曰旱、曰蝗)。 」と述べている。 旱魃の後には蝗害が発生しやすく、農作物の被害を一層大きくする。 歴史 [ ] 殷周 [ ] 古くはのにも蝗害の記録が見られる。 の詩篇『』には「既方既皁、既堅既好。 不稂不莠、去其螟螣。 及其蟊賊、無害我田穉。 田祖有神、秉畀炎火」とバッタの駆除の様子が詠われている。 漢代 [ ] 紀元前175年(6年)4月、旱魃と蝗害が起こっている(『』文帝紀 )。 この他に『』志第十五には建武22年、23年、28年、29年、30年、31年、中元元年、永平4年、15年、永元8年、9年、永初4年、6年、7年、元初元年、2年、延光元年、永建5年、永和元年、永興元年、2年、永壽3年、延熹元年、熹平6年、興平元年、建安2年と連綿として蝗害が起きた様子が綴られている。 の思想家は著書『』巻16の中に「虫食穀者、部吏所致」と記載している。 または「蝗者、在上貪苛之所致也」と自説を述べている。 魏晋南北朝 [ ] 東晋永嘉4年(310年)、幽并司冀秦雍六州で蝗害が発生。 建武元年(317年)にも司冀并青雍の五州に蝗害が発生したとする。 (『』) 高宗文成帝の時代、癸亥、営州で蝗害が発生したので、詔を下し、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある(『』巻二・魏本紀第二)。 唐代 [ ] の記録として「夏にバッタが発生し、作物を食い荒らして民を苦しめた。 儒学者は、祭礼を怠っているから旱魃が起こり、魚貝が害虫に変わったのだと主張した」 と書かれている(『新唐書』 )。 (二年)、首都に旱魃が起こり、飛蝗も大発生した。 『』には皇帝自身が視察を行った様子が書かれている。 、流域で「羽音、風雨の如し(聲如風雨)」というレベルで飛蝗が大発生し、当時の宰相は地元の官僚(汴州刺史)倪若水に命じてその駆除を実施し 、その量は14万石(約2万5千立方メートル)に上っている。 に山東諸州に蝗害が発生している(『』巻7)。 、現在のに飛蝗が発生したが、鳥がこれを捕食したために被害は抑えられている(『』 )。 4月、「春からの大規模な旱魃で麦が枯れ、苗が育たず、関中でバッタが発生した」 と記録されている。 は、「夏にバッタが発生し、東は海から西は黄河の上流まで、10日以上にわたって群れが天を覆った。 草木や家畜に群がり、死骸が道を塞いだ」 と記されている(『』 )。 6月、「天下旱、蝗食田」 旱魃と蝗害 との記録がある(『旧唐書』 )。 この年の前後は蝗害が酷かったらしく、中国の記録ではないが、慈覚大師()著の『』の開成5年(840年)の箇所には「青州(現在の付近)ではここ3、4年蝗害が起こっている(正月二十一日)」「いなごの群れが穀物をすべて食い尽くし路上足の踏み場も無い(八月十日)」などの記録がある。 五代十国 [ ] 、で「許、陳、汝、蔡、潁の五州でバッタが発生したが、鳥の大群がこれを皆食べた」という蝗害が起こっている。 夏六月、で「バッタが天を覆い、昼から暗くなった」 という蝗害が起こっている(『』呉越忠懿王世家)。 、宋州で「蝗一夕抱草而死、差官祭之」という害が起こっている。 ()の周懐宇は2000年、これを人間が生態系に影響を与えたためと説明している。 宋代 [ ] から、蝗害が発生しており、その後も、、、、、、に蝗害が起こっている(『』 )。 時代にとしても活躍していたは、晩に火を焚いて飛蝗を誘い込む方法を提案している。 元代 [ ] を始めに、しばしば蝗害が報告されている。 特にの被害は大きく、南京(現在の)、諸路が襲われている(『』 )。 また、には長雨による黄河の氾濫、蝗害、旱魃と言った天変地異が頻発し、そのためにが欧州へ移動したとする説がある。 また、『』には蝗害予防の方法が記されており、村(当時は社と記した)単位での管理や予防が共同体約定と言う形式で事実上義務化されていたことがわかる。 明代 [ ] 開国皇帝の「御製皇陵碑」には「値天無雨、遺蝗騰翔。 里人缺食、草木為糧」(雨が無く、バッタが大発生したため、民は食うものが無くなり草木まで食べた)と、元末の蝗害が社会に大きな影響を与えた旨が記されている。 を始めにしばしば蝗害が報告されており、明初からの「首都の天を飛蝗が蔽い、10日間以上続いた」、の「両畿、山西、山東、河南に地面に数尺ものバッタが降り積もり、農被害が起きた」との記録がある(『』 )。 6月初9日、は著書『屯塩疏』の第3編を『除蝗疏』として対策を記し、後に『』に編入された。 明末のには「両京、山東、河南で大旱蝗(旱魃と蝗害)」、には「両京、山東、河南、山西、陝西で大旱蝗」、には「両京、山東、河南、浙江で大旱蝗」と報告されており、国力を大きく疲弊させた (に明は滅亡している)。 清代 [ ] に延安、安定、欒城を飛蝗が襲い、天を覆うほどであったという(『』 )。 、が『』を著している。 また同じ、「渠県に数万の虫が発生した。 バッタに似ているが色が黒く、頭が鋭く、翅が長く、いやな臭いがする」 と記されている(『清史稿』 )。 近代になったこともあり記録も増えており、『清史稿』には「秋、徐州鄰県にバッタが侵入したが、農被害を与える前に皆死んでしまった」 (1716年)、「夏、泗陽西郷の柴林湖にバッタが来て地面に数寸降り積もったため、兵士が怯えた。 」 (1732年)、「河南にバッタが来たが皆すぐ死んだため被害にはならなかった」 (1740年)、「バッタが発生したため、4月までに植物は皆枯れてしまった」 (1787年)などの記録がある。 さらには「柳、慶上年早蝗過重、一二不逞之徒倡乱、飢民随従搶奪、比比皆然」(1852年、『論粤西賊情兵事始末』)、「夏、武郡蝗虫蔽日」(1853年、『武定府志』)、「七月、蝗従南来、飛蔽天日.集田害稼」(1855年、宣統『重修恩縣誌』)の記録がある。 の蝗害は「蝗害により、鳥の数がめっきり減り、妻に売春させる男が増えた」 (1856年、民國『欽縣縣誌』)、「5月に飛蝗が野を覆い、農作物を食った」 (1856年、民國『定陶縣誌』)、「安徽皖北の旱魃により飛蝗が発生し、農作物を食い荒らした」 (1856年、民國『太和縣誌』)、「8月、昌平、邢台、香河、順義、武邑、唐山で飛蝗が発生した」 (清史稿)と多くの記録がある。 続いて「秋7月、飛蝗が戻ってきて天を覆い、農作物に大被害を与えた」 (7月、雍正『遼州志』)、「嵐が発生しえて飛蝗は草に止まったまま死んだ」 (1877年、清史稿)との記録がある。 この清代の蝗害に関しては、中国では光緒14年(1888年)に顧彦輯が『治蝗全法』を記した。 また、同じ清代に『捕蝗要訣』と言う防除法を記した書物が現存している。 日本では楢木野宣が『嘉慶年間における水害と蝗害の一例』と言う論文を執筆するだけの資料が残っている。 近現代 [ ] 1942年のでも飛蝗が大量発生した。 1958年にで四害駆除運動を推奨しスズメを大量に駆除した結果、ハエ、カ、イナゴ(蝗害)、ウンカなどの害虫の大量発生を招いた。 夏にはを飛蝗が襲っており、1平方メートルあたり350-500匹、飛来面積は220万畝に上った。 これは海南省が出来て以来最悪の記録となった。 そのうちの農地は100万畝であり、この年の稲の収穫はほぼ絶望的となった。 被害を与えたのはトノサマバッタの一種、東亜飛蝗 Locusta migratoria manilensis であった。 出典 [ ]• 周同 2003年8月10日. 人民報. 2016年12月28日閲覧。 講談社『中国妖怪人物事典』実吉達郎• 彭邦炯 、1983年、農業考古、1983年第2期• 中國哲學書電子化計劃• (ウィキソース中国語版)。 李純然 [ ]• (ウィキソース中国語版)。 《貞観政要》卷8《務農》、上海古籍出版社1978年版、第237頁。 (ウィキソース中国語版)。 (ウィキソース中国語版)。 王溥:『』巻44、中華書局1955年6月第1版、第790頁• [ ]• 2008年7月24日. 2016年12月28日閲覧。 (ウィキソース中国語版)。 周懐宇 、中国水利報、2000年• (ウィキソース中国語版)など。 陳芳生『捕蝗考』()• (ウィキソース中国語版)• 岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』、2006年、ちくま新書、• 鳳陽論壇 [ ]• (ウィキソース中国語版)。 人民報. 2005年8月20日. 2016年12月28日閲覧。 原文 [ ]• 「夏州蝗。 蝗之殘民、若無功而祿者然、皆貪撓之所生。 先儒以為人主失禮煩苛則旱、魚螺變為蟲蝗、故以屬魚孽」• 「自春大旱、麦枯死、禾無苗、関中有蝗」• 「夏、蝗、東自海、西盡河隴、群飛蔽天、旬日不息;所至、草木葉及畜毛靡有孑遺、餓殍枕道」• 「大蝗蔽日而飛、晝為之黑、庭戸衣帳悉充塞」• 「渠県有虫数万斛、似蝗、黒色、頭鋭、有翅、嗅之甚臭」• 「徐州鄰県秋蝗入州界、不食禾皆抱草而斃」• 「泗陽西郷柴林湖夏蝗蝻遍地、厚数寸。 官兵惶懼、旋尽抱草僵死」• 「河南蝗来境、抱草而死、不為災」• 「蝻起、至四月皆依草附木而枯」• 「夏、蝗虫又起、飛翳天日、棲樹枝折、復値歳飢、木葉草亘、人虫争相取食、衰鴻遍野、売男鬻女」• 「五月、飛蝗遍野。 六月、蝻生、食稼害稼」• 「(安徽皖北大旱)旱、飛蝗大至、食稼幾盡」• 「八月、昌平蝗、邢台蝗、香河、順義、武邑、唐山蝗」• 「秋七月至望復返、群飛蔽日、食稼太甚」• 「大風雨、蝗抱草斃」 参考文献 [ ]• (中国語版) 倪根金、《历代蝗灾及治蝗述要》(《历史教学》1998年第6期)• (中国語版) 陆人骥、《中国历代蝗灾的初步研究——开明版〈二十五史〉中蝗灾记录的分析》(《农业考古》1986年第1期)• (中国語版) 袁林著、《西北灾荒史》(甘肃人民出版社、1994年).
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