辰吉 丈 一郎 ろれつ。 辰吉丈一郎

辰吉丈一郎のヤンキー伝説!薬師寺保栄との一戦が凄い!名言もしびれる!

辰吉 丈 一郎 ろれつ

2015年、にて、(写真右)と 基本情報 本名 辰吉丈一郎 通称 浪速のジョー 階級 身長 164cm リーチ 178cm 国籍 誕生日 1970-05-15 (50歳) 出身地 家族 (次男) スタイル 右ボクサーファイター プロボクシング戦績 総試合数 28 勝ち 20 KO勝ち 14 敗け 7 引き分け 1 辰吉丈一郎(たつよし じょういちろう、 - )は、日本の。 倉敷市立味野中学校出身。 第50代日本、元世界バンタム級王者。 愛称は 浪速のジョー。 入場曲は『』メインテーマ。 マネジメントは所属。 「吉」の正確な表記は「𠮷・」(「土」の下に「口」、つちよし)である。また「丈」の正確な表記は「𠀋」であり、右上に点がある。 来歴 [ ] 生後間もなく両親が離婚。 その後、ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)の男手一つで育てられ、幼少時よりボクシングを仕込まれた。 中学校時代の担任教諭の勧めで、中学卒業と同時にボクサーを目指してに入門した。 粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古をつけていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしたりしやすく、また、喧嘩の相手をつかんだり凶器を奪ったりしやすいと教えた。 辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。 辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。 サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。 、17歳でバンタム級優勝。 の有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。 この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナーが主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。 アマで数試合をこなした後、プロ転向する。 この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。 アマチュア通算成績は19戦18勝 18KO・RSC 1敗。 3ラウンドしかなく、ヘッドギアを着けて試合をするアマチュアの試合はほとんどが判定で勝敗が決まるが、全ての勝ち星をKO・RSC(レフリーストップコンテスト、プロでいうTKO)で決めるなど、当時からその強さは際立っていた。 9月29日、プロデビュー(6回戦)。 韓国の国内ランカー崔相勉を2回KOに降す。 辰吉の前評判は高く、日本人ランカー全てにオファーを出したが拒否された。 6月28日、3戦目。 インターナショナル王者サムエル・デュラン()とノンタイトル戦を行い、7回KO勝ち。 同年9月11日、4戦目で日本王座初挑戦。 日本バンタム級王者を4回KOに降し、王座獲得に成功。 4戦目での日本王座獲得は、、と並ぶ最短タイ記録である(2013年にも並ぶ)。 当時は安易な世界挑戦が多かったので「世界挑戦は最低でも国内または東洋王座を獲得してから」という暗黙の規定がなされていた。 その規定に従い、先ずは日本王座を獲得。 試合後のインタビューでは「この試合は通過点」と世界王座へのこだわりを見せた。 2月17日、6戦目。 世界ランカー()とノンタイトル10回戦を行い、引き分け。 トーレスのジャブに最後まで苦しみ、「辰吉が負けていた」との声が出るほどの大苦戦(トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議)。 当初、この試合の後、国内最短となる7戦目で世界挑戦を予定していた辰吉陣営だったが、トーレス戦での苦戦を目の当たりにし、もう1試合ノンタイトル戦をはさむこととなる。 アウトボックスで相手を翻弄し、10回判定勝ち。 辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せつけずにした試合を評価する声が多かったが、当の本人はKOできなかった悔しさからリング上で涙をこぼす。 9月19日、世界初挑戦。 WBC世界バンタム級王者()に挑む。 アマで275戦、プロで33戦のキャリアを誇る王者相手に終始優位に試合を進め、10回終了TKO勝ち。 (9戦)を抜いて国内最短新記録(当時)となる8戦目で世界王座奪取に成功した(後にも並ぶが、現在はが5戦に更新)。 平成デビューのボクサーとして初の世界タイトル獲得でもある。 しかし同年12月、左眼の異常を訴え、大阪市内の病院で検査。 結果、「網膜裂孔」の診断を受け、そのまま入院・手術。 9月17日、王座奪取から丸1年後の初防衛戦。 休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いた()と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ王座陥落。 プロ初黒星を喫した。 その後、1戦をはさみ、7月22日、世界再挑戦。 当初、3月にラバナレスを降してWBC世界バンタム級王座を獲得した(韓国)に挑むことになっていたが、辺が5月の初防衛戦で左手を骨折。 そのため、同級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。 フルラウンドにわたる死闘の末、僅差ながら判定勝ち。 10か月前の雪辱を果たした。 その後、11月25日に正規王者・辺との統一戦が組まれたが、それに向けてトレーニングを重ねていた9月、再び左眼の異常を訴える。 検査の結果、今度はが判明。 JBC ルールにより試合ができない身となり、事実上引退の危機に(暫定王座も返上)。 手術は無事に成功。 退院後、現役続行の意思を表明し、その道を模索することとなる。 その結果、会長・等の尽力も有り、7月2日、JBC管轄外ので復帰戦を強行。 4月にWBC世界バンタム級王座に挑戦したホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KOに降す。 (結果の如何に関わらず)リングに上がった時点でプロボクサーとして活動可能な健康状態を取り戻した事に伴いWBCから返上していた暫定王座を再び与えられた。 JBCも特例で辰吉の現役続行を許可。 現役続行が許可されたことで、同年12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・)でWBC世界バンタム級正規王者とのが実現(薬師寺は前年12月、辰吉の代役という形で辺に挑戦し、12回判定勝ち。 王座獲得に成功し、これまで2度の防衛に成功している)。 この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、フルラウンドにわたる死闘の末、12回判定負けを喫し暫定王座から陥落。 現役続行の条件として「統一戦に敗れた場合は即座に引退」が掲げられていたため、再度引退の危機に立たされる。 この時の敗因は後のインタビューによると、1ラウンド序盤に放った左ストレートが薬師寺の頭部付近に当たった際、骨折。 以降なかなか左が出なくなり、セコンドから左を出すように言われても「骨折れて出んのじゃボケ! 」と思う程の状態で試合を続行した為という。 しかし、ここでも引退を拒否。 、米国・でノンタイトル戦2試合を強行。 遂にJBCも折れ、辰吉は世界戦に限り国内で試合を行えることとなった(その後、「世界戦に準ずる試合」も追加)。 3月3日、2階級制覇を目指し、WBC世界ジュニアフェザー級(現・)王者()に挑戦。 しかし、初回からほぼ一方的に打ち込まれ、11回負傷TKO負け。 この試合ではストップがかかった後も「何でや、まだオレは元気やないか」と抗議し、場内の声も「レフェリー、何で止めるんや」とわき起こったが、試合後に辰吉は土下座し「ファンに謝るしかないでしょう。 僕のようなしょうもない人間のために、一生懸命援してくれて。 みなさん僕のこと死んでくれと思ってるでしょうね。 いっそ自分も死たい」と、試合後の記者会見でつぶやいた。 翌4月14日、再度サラゴサに挑むがここでも12回判定で完敗。 「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。 同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。 元のバンタム級に戻し、WBC世界同級王者の()に挑む。 5回に王者からダウンを奪ったものの、6回以降は王者の「捨て身」とも言える反撃であわや逆転KO負けというところまで追い詰められる。 しかし、7回、左ボディブローで2度目のダウンを奪う。 辛くも立ち上がった王者を連打で追撃し、レフェリーストップ。 この瞬間、約5年ぶりの世界王座返り咲きを果たした。 その後、2度の王座防衛に成功。 12月29日、3度目の防衛戦。 元世界バンタム級王者でもある(タイ)と対戦。 序盤は様子を見ていたウィラポンだったが、回が進むにつれ次第にペースアップ。 そして、迎えた6回、挑戦者の左をまともに浴び、プロ2戦目以来のダウン。 辛くも立ち上がったものの、挑戦者の激しい追撃に襲われる。 そして、何発もパンチを浴び、最後は挑戦者の右ストレートを左のに受け、仰向けに崩れ落ちた。 ノーカウントで試合をストップされ、完全失神KO。 3度目の世界王座陥落。 王座陥落後の1月、父が他界。 8月29日、王者・挑戦者の立場を入れ替えてのウィラポンとの再戦。 開始当初から一方的に打ち込まれ、最後は7回、レフェリーストップ(同時にセコンドからも「棄権」を示すタオルが投げ入れられた)によるTKO負けで雪辱ならず。 試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。 しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。 復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。 12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。 元WBA王者の(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。 9月26日、復帰第2戦で(メキシコ)と対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。 その後、所属する大阪帝拳ジムから試合を組む意思がないことを再三にわたって告げられたものの、本人は引退を拒否。 あくまで現役続行にこだわり続ける。 9月26日、直近の試合から5年が経過。 JBCの規定により「引退選手」扱いとなり、国内では試合を行うことができなくなった。 しかし、本人は「海外に渡ってでも試合をする」とあくまで現役続行にこだわりを見せる。 そして、同年10月26日、タイ・ので復帰戦を強行。 地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たしたものの、この試合に関してJBCは試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。 12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。 、ライセンス失効後初めてJBCと対談。 JBC側は大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。 それに対し、辰吉は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。 検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せた。 3月8日、前戦と同じに於いて復帰第2戦。 世界戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。 試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明しているが、この試合以降、次戦開催の目処は立っていない。 2014年現在でも辰吉本人は現役に拘り、トレーニングを欠かしていないと言う。 2015年には次男・が大阪帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした。 エピソード [ ]• のとは、親友として知られる。 その縁で「」などにもゲスト出演している。 松本によると辰吉が電話口でアニメについて一方的に熱く語るため、松本は相槌をうつだけの電話応対に回っている。 の番組にゲストとして出演した際、「地球最後の日に何をする? 」というお題に対して、「浜田を一日中シバき回す。 」というボケ回答をする。 同じくゲスト出演していた関根勤に「死んじゃうよ。 一日もたないじゃん。 」と言われると「そこは、持たすように。 」と回答した。 に絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。 と対談を通じて懇意となる。 辰吉が王座から陥落しスランプに陥っていたころ、武は激励の意味で自筆の絵を送った。 そこに書かれていた言葉は、映画「」におけるエンディングの台詞になっている。 、とも仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている。 2008年10月にタイで復帰戦を強行した際は現地で布袋から激励を受けた)。 ボクシング漫画「」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。 またアニメ全般についても話し出すと止まらないくらい好んでいるという。 公共広告機構(現:)のCMに出演し「いじめはすごかったですよ。 親が泣くくらいでしたからね」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らず。 不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。 中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。 中学生の頃、下校途中にヤクザに車を横付けされからまれたことがある。 その時、「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら車に近づき、隙を突いてキーを抜き取り道路脇の草むらに向かって投げつけ、笑いながら走って逃げたことがあるという。 本格的にボクシングを始めて、わずか3回目のスパーリングで国体2位の選手を左ボディブロー一発で倒したことにより辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。 しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。 本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとのこと。 そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在の夫人と出会ったことが、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけとなった。 1987年のでのの会場通路でと大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が「文句あっか」と言ったのを辰吉が「儲かってまっか? 」と聞き間違えたから)。 このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。 非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。 タイトルマッチでは「王者は赤いトランクスを着用して戦う」という慣例がある中、辰吉は赤いトランクスを着用して臨んだ試合を落とすことが多かったため、1997年の王者返り咲き以後の防衛戦には青いトランクスを着用した王者として臨んだ。 のリチャード・スチールが辰吉の引退時の賛辞として「には若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している」と呈した。 一時期は大阪帝拳ジムにて現役復帰を期して練習に励む傍ら、ボクサーを目指していた自身の長男のトレーナーを務めていたことがある。 辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。 ライバルであったのことを「友人である」と語る。 そのことについてラバナレスは、「友人だったらもう一度俺と試合をしてくれ」と、発言した。 初めて世界タイトルを獲った戦では、初回に放った左ジャブがリチャードソンの目に入り、ダブルビジョン(物が二重に見える)になったとリチャードソンが、後に発言している。 初めて世界タイトルを獲ったリチャードソン戦の試合直後に、第一声でテレビカメラに向かって、「父ちゃん、やったで! 」とコメントした。 3度目のWBC世界バンタム級王座2度目の防衛戦でと対戦した際、で眉毛あたりを深く切り、試合を止められてしまう。 その際、試合を途中で止められた悔しさ(本人談)から全国テレビ生放送中にもかかわらず、キャンバスに拳を叩きつけ号泣した。 辰吉の人気はすさまじく、辰吉を見て、ボクシングを始めた人間はかなり多い。 その中には、世界チャンピオンになったもいる。 ただ、畑山が世界を獲った際に、辰吉の名前を騙り、「ようやったなあ、おめでとう! 」と辰吉になりきって、悪戯電話をかけた人間が存在する。 そのためか、畑山とは誤解が生じたようで、畑山がさんまのまんまに出演した際には、「辰吉なんて、片手で倒せる」と言われてしまう。 その後、畑山は渡嘉敷、竹原と共にする自身のYouTubeチャンネル内で謝罪すると共に、日本人最強のボクサーというテーマ内で「今でこそ井上くんがいるが、私は日本人最強は辰吉さんだと思っている」と語っている。 大橋ジム会長、大橋秀行氏が井上尚哉弥を初めて見た時の感想を「初めて辰吉丈一郎を見つけた時の衝撃に似ている」と語ったこと、また、具志堅用高が「私の連続防衛記録を抜くのは辰吉しかいない」と語ったことなどから、デビュー当時の辰吉の強さ、センスは秀逸であった。 ドキュメンタリー風バラエティ番組『』の「ガチンコファイトクラブ」に特別コーチとして出演するが、この企画がいわゆる「やらせ」であることを知らされず(ボクシングに関しては真面目で真摯な性格の辰吉に詳しく企画内容を伝えたら断られるとスタッフが判断したため)、素人 仕込み 参加者に、ごく真面目にボクシングの指導をした。 収録後、辰吉はヤラセ 台本の存在 を企画のレギュラーであったから聞かされ激怒、収録した映像のオンエアは許可したものの、同番組に二度と出演することはなかった。 今でこそ「負けても引退なんか考えたことがない」と語っているが、ラバナレスに負けるまではことあるごとに「負けたら引退」と語っていた。 これは本人によればそれぐらいの気持ちでいなければ試合に勝てないからとのことである。 ボクシングアナリストの増田茂によれば、辰吉はスタイルであるが実は左利きであることを明かしている。 そのために辰吉は右でなく左のパンチが強いとのことである。 辰吉が世界王者になる前、日本人として具志堅の記録を追い越し最短で世界を獲ることに価値を見出すのではなく、辰吉の先々のことを考え、じっくりキャリアを積ませるべきだという声が多かった。 トーレス戦後、特にその声は強くなる。 辰吉自身も、日本、と順番にタイトルを獲ってから世界に行きたいと語っていた。 愛車は。 以前はLS400をドレスアップしており、数々のカー雑誌に取り上げられた。 夫婦愛がとても強く、妻の辰吉るみはインタビューにて生まれ変わっても辰吉丈一郎と結婚したいですか?との問いに「当然です、もちろんです。 誰にも渡さないですから。 生まれ変わっても、何回生まれ変わっても。 旦那も私じゃないとダメだと思います。 」と即答した。 戦績 [ ]• アマチュアボクシング:19戦 18勝 18RSC 1敗• プロボクシング:28戦 20勝 14KO 7敗 1分 戦 日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考 1 1989年9月29日 勝利 2R 0:47 KO 崔相勉 プロデビュー戦 2 1990年2月11日 勝利 2R 2:18 KO チャーチュード・エウアンサンパン マイク・タイソン王座陥落戦の前座試合、東京ドームで開催 3 1990年6月28日 勝利 7R 2:10 KO サミュエル・デュラン 4 1990年9月11日 勝利 4R 2:51 KO 岡部繁 日本バンタム級タイトルマッチ 5 1990年12月18日 勝利 2R 3:04 KO ジュン・カーディナル 6 1991年2月17日 引分 10R 判定 アブラハム・トーレス 7 1991年5月19日 勝利 10R 判定3-0 レイ・パショネス 8 1991年9月19日 勝利 10R終了 TKO WBC世界バンタム級タイトルマッチ 9 1992年9月17日 敗北 9R 1:19 TKO WBC世界バンタム級王座統一戦 10 1993年2月11日 勝利 2R 1:55 TKO ホセ・ルイス・ベガヒル 11 1993年7月22日 勝利 12R 判定2-1 WBC世界バンタム級暫定王座決定戦 12 1994年7月2日 勝利 3R 2:48 KO ホセフィノ・スアレス 13 1994年12月4日 敗北 12R 判定0-2 WBC世界バンタム級王座統一戦 14 1995年8月26日 勝利 9R 2:59 TKO ノエ・サンティヤナ 15 1995年11月23日 勝利 8R 2:55 TKO ヘロニモ・カルドス 16 1996年3月3日 敗北 11R 2:47 TKO WBC世界スーパーバンタム級タイトルマッチ 17 1996年12月21日 勝利 10R 1:02 TKO フェルナンド・アラニス 18 1997年4月14日 敗北 12R 判定0-3 WBC世界スーパーバンタム級タイトルマッチ 19 1997年7月26日 勝利 10R 判定3-0 リカルド・メディナ 20 1997年11月22日 勝利 7R 1:54 TKO WBC世界バンタム級タイトルマッチ 21 1998年3月8日 勝利 12R 判定3-0 ホセ・ラファエル・ソーサ WBC防衛1 22 1998年8月23日 勝利 6R 3:00 負傷判定3-0 WBC防衛2 23 1998年12月29日 敗北 6R 2:52 KO WBC王座陥落 24 1999年8月29日 敗北 7R 0:44 TKO WBC世界バンタム級タイトルマッチ 25 2002年12月15日 勝利 6R 1:10 TKO セーン・ソー・プロエンチット 26 2003年9月26日 勝利 10R 判定3-0 フリオ・セサール・アビラ ・・・ JBC未公認 ・・・ ・・・ JBC未公認 ・・・ 27 2008年10月26日 勝利 2R 2:47 TKO パランチャイ・チュワタナ 28 2009年3月8日 敗北 7R 1:03 TKO 獲得タイトル [ ]• 優勝(アマチュア)• 先述の様に長期ブランクを経て海外で復帰を果たしたものの、現在日本におけるプロボクシング興行に出場するため必要な、JBCの発給するボクサーライセンスは更新・保持しておらず、また後述のように今後も更新・再取得出来ない。 5月に37歳になったことで、JBCルールに基く強制引退の対象となったが、辰吉はWBC世界、日本バンタム級の元王者であるため、特例措置として直前の試合から5年以内に再起すれば厳しい条件付ながら日本国内での現役続行が可能であった。 とはいえ前述した通り、辰吉は網膜剥離の既往者であるために、世界戦またはそれに準ずる試合でしか国内での選手活動は不可能であった。 また、当時所属先であった大阪帝拳ジムを始めとする関係者はそもそも辰吉の現役続行に難色を示していたため、実際に特例措置の申請と試合実施は実現しなかった。 そして9月25日に上記特例期間が終了し、辰吉は事実上国内での試合出場が不可能となった。 今後は、かつて網膜剥離でJBCのライセンスを失効していた頃、あるいは先述のタイ国での試合出場と同様に、外国のコミッションでライセンスを申請し、日本以外の各地で試合に出場することは今後も可能である。 しかし既に強制引退選手の対象となっている上、JBCはタイのコミッションやプロモーターに辰吉に試合をさせないよう求めているため、試合が許可される可能性は低い。 3月8日、再起後2戦目でタイ国スーパーバンタム級1位のサーカイ・ジョッキージムに7R 1:03TKOで敗れた。 試合直後の控室でのインタビューで、現役続行を自らアピールした。 出演 [ ]• いづれも本人役 脚注 [ ] この節には、一部のコンピュータやで表示できない文字が含まれています ()。 1996年中に出場した2試合のみ、友人の元・から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOEのテーマ」を使用したこともあった。 1996年3月4日付日刊スポーツ1面• 日本経済新聞 2015年4月16日閲覧• ヴェルフィー• シネマトゥデイ 2015年9月29日. 2015年9月29日閲覧。 外部リンク [ ]• - (英語) 前王者 世界王者 1991年9月19日 - 1992年9月17日 次王者 暫定王座決定戦 対戦者 世界 1993年7月22日 - 1994年12月4日 次暫定王者 王座統一戦により消滅 前王者 世界王者 1997年11月22日 - 1998年12月29日 次王者.

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辰吉丈一郎の長男 寿希也と次男 寿以輝の現在 次男はプロへ

辰吉 丈 一郎 ろれつ

辰吉丈一郎に懸念されるパンチドランカー説!現在も現役ボクサーなの? 辰吉丈一郎「浪速のジョー」にパンチドランカー説が!舌がもつれるなど懸念される深刻な症状とは 辰吉丈一郎は、「浪速のジョー」のニックネームで親しまれるプロボクサーです。 史上最速で世界王座を奪取した当時は、ファンを熱狂させました。 一時は引退を勧告されたものの、劇的KOで復活を果たした辰吉丈一郎は、今なお現役ボクサーであることにこだわり続けています。 しかし、現在の辰吉丈一郎に懸念されているのが、パンチドランカーによる深刻な症状。 パンチドランカーとは、ボクシングで強いパンチを頭部に受けた結果、脳障害を起こし、動作や言語に影響を受けた状態をいいます。 ある番組へゲスト出演した際、辰吉丈一郎は、テロップなしでは、話す内容が分からないほど、舌がもつれていました。 また、自分の話している内容が分からなくなったと言い出したことも。 これらは、まさにパンチドランカーらしき症状といえます。 さらには、ボクシングのゲスト解説をした際にも、辰吉丈一郎の呂律の回らないしゃべり方が話題となりました。 昔から、辰吉丈一郎の滑舌がよくなかったのは確かですが、最近は、さらに聞き取りにくさが増しているのは事実。 パンチドランカーの症状は、より深刻になっているかも知れません。 辰吉丈一郎は、1970年5月15日生まれの46歳。 岡山県倉敷市出身で、大阪帝拳ジム所属です。 第50代日本バンタム級、第18代・第24代WBC世界バンタム級王者であり、次男の辰吉寿以輝も、大阪帝拳所属のプロボクサーとして活動しています。 幼少期にはいじめられっ子だった辰吉丈一郎ですが、ボクシングファンだった父親からボクシングの手ほどきを受け、中学卒業と同時に大阪帝拳ジムに入門。 一時期は、大阪帝拳を離れて、放浪の日々を送っていたものの、大阪帝拳ジムに復帰し、アマチュアとして数試合をこなした後、1989年9月プロデビューしました。 関西地区では、スポーツ新聞に試合写真付きで取り上げられるなど、辰吉丈一郎の前評判は高く、日本人ランカーからオファーを拒否されるほどでした。 1991年9月には、8戦目でWBC世界バンタム級王座をものにしますが、これは具志堅用高の9戦を更新する、当時の国内記録です。 その後は、網膜剥離に見舞われて、引退のピンチに見舞われますが、現役を続行。 1994年には、WBC世界バンタム級正規王者・薬師寺保栄との統一戦に臨み、12回判定負けを喫しますが、試合中継が視聴率37%という驚異的な数字を叩き出すなど、今もなお名勝負として語り継がれています。 辰吉丈一郎46歳の現在でも現役だった!事実上の引退にもかかわらず、トレーニングを欠かさない! 辰吉丈一郎は、波乱万丈で、破天荒な人生を送ってきましたが、46歳の現在も、ボクサーとして現役を貫いていることにはさすがに驚かされます。 2003年9月のフリオ・セサール・アビラとの対戦以降、負傷した左脚の具合が芳しくないこともあり、再度のブランクが続く辰吉丈一郎。 その後、大阪帝拳からも、「もう試合を組まない」と再三通告されます。 これは、事実上の引退勧告です。 しかし、辰吉丈一郎は、引退を受け入れず、現役続行に対してこだわりを見せます。 JBC規定によれば、37歳の誕生日をもって自動的にライセンス失効するため、国内での試合が不可能となってしまうので、事実上は「引退」状態の辰吉丈一郎。 しかし、現役への執着はすさまじく、「それならば海を渡ってでも試合をする」と、あくなき現役続行へのこだわりを見せています。 そして、2008年10月には、タイ・バンコクで復帰戦を強行。 5年ぶりの再起を果たしたものの、翌年3月の復帰第2戦では、7回TKO負けを喫しています。 これは、世界戦以外の試合で、辰吉丈一郎にとって初黒星となるものでした。 試合終了後、「まだ終わっとらん」と、辰吉丈一郎自身は、リングに上がり続ける意思を表明しているものの、現実は厳しいもので、リングに上がることはほぼ絶望視されている今。 そんな現実に抗うかのように、現役ボクサーとしてトレーニングを欠かさない辰吉丈一郎の、自分がこうと決めた道を歩み続ける一徹さには、敬意を感じます。 辰吉丈一郎伝説は少年時代から始まった!生き様が武勇伝そのもの! 辰吉丈一郎すでに始まっていた伝説の少年時代!「番長を返り討ち」などヤンチャ伝説てんこ盛り! 辰吉丈一郎は、存在そのものが伝説ともいえます。 その伝説は、すでに少年時代から始まっていました。 地元の倉敷では、ヤンチャぶりで名を響かせていた辰吉丈一郎には、語り継がれるエピソードがいくつもあります。 「小学5年生でバイクを乗り回していた」というものから始まり、中学入学後も、「番長からシメられたが、返り討ち」「ゲームセンターで高校の番長に喧嘩を売られたものの、返り討ち」「バイク欲しさに、暴走族を4人で襲撃し、400ccのバイクを奪い取る」「下校途中に、ヤクザにベンツを横付けされ、からまれたが、ひるまず『そんな怖い顔せんとってや』とキーを奪い取った」「修学旅行中に喧嘩を吹っ掛けてきた他県の中学の不良を、一撃でノックアウトした」など、辰吉丈一郎のヤンチャ伝説はてんこ盛り。 本人も、父親からボクシングを教わっていなかったら、むちゃくちゃな人生を過ごしていたかもしれないと振り返っています。 中には面白おかしく脚色されている部分もあるでしょうが、辰吉丈一郎のヤンチャぶりは、少年時代から際立っていたということは間違いなさそうです。 辰吉丈一郎のネバーギブアップを貫く生き様は武勇伝そのもの!「自分のやりたいことをやって生きていたい」という言葉に生き様が凝縮されている! 辰吉丈一郎は、「事実上の引退」「もう辰吉は終わった」などといわれています。 しかし、そんな世間の声にも左右されず、現役にこだわる自分の生き様を貫く、現実に牙をむくかのような生き様がこそが、武勇伝そのもの。 辰吉丈一郎は、これまでにも、網膜剥離などで引退の危機に見舞われながらも、へこたれることなく立ち上がってきました。 2009年以降、試合は行われておらず、現在の収入はまったくないため、過去に蓄えたファイトマネーを取り崩して暮らしているそうです。 そんな状態であれば、誰でも気持ちが折れそうになるもの。 「ボクシングが生活の一部」だという辰吉丈一郎にとっても、試合がまったく組めない今の状況は、非常にキツいといいます。 しかし、「自分でもうダメだとあきらめてしまった時が本当の終わり。 でも、あきらめなければチャンスは必ずやってくる」と、ネバーギブアップを貫いている辰吉丈一郎。 「この世に生まれたからには、ボケっと生きていつか死ぬのは我慢できない。 それなら自分のやりたいことをやって生きていたい」という言葉には、辰吉丈一郎の生き様が凝縮されています。 辰吉丈一郎は息子・寿以輝のTKO勝ちにも「路頭に迷う」「華がない」と辛口コメント連発! 辰吉丈一郎は、10月1日に行われたボクシング・スーパーバンタム級6回戦で、次男・寿以輝(じゅいき)の戦いぶりを観戦しました。 結果は、5回で逆転TKO勝利でしたが、その内容には、不満が隠せない様子。 のっけからダメ出しの辛口コメントを連発しました。 「アイツは天才型やなくて努力型やから、とにかく練習を重ねるしかない。 それやのに練習量が全く足らん」と手加減ありません。 ダウンを食らいながらも、打ち合いを制した試合ぶりにも、「ダウンといったって、バランスを崩した感じ。 パンチも効いていないから、ショックはなさそう。 相手のことを思うんなら、速攻で倒してあげないと」と、欠点だけが目につくのは、父親ならではでしょうか。 さらに、試合の印象について問われると、「寿以輝は個性がない」と一蹴。 「個性がないというのは、華という武器がないということ。 それにしても華がない」と、容赦のないダメ出しは続き、「こんな状態では路頭に迷う」と、次男・寿以輝を一刀両断。 もちろん、一連のダメ出しは、息子の能力を認めていればこそでしょう。 それゆえに、発言にも、もどかしさが募ります。 「次は、どれくらい強くなってるんやろか、とワクワクさせないと客を呼べない。 今の寿以輝は、金を出してまで試合を見に行きたいレベルか?」と、魅せるボクサーとしての資質にも疑問を投げかけました。 ことボクシングに関しては、誰にも真似できない姿勢で取り組んできたという自負があるため、辰吉丈一郎にとって、息子のボクシングは、まだまだ「免許皆伝」とはいかないようです。 今もなお現役としてトレーニングを怠らないという辰吉丈一郎には、「見苦しい」という声もあるかも知れませんが、自分の信念を貫き通す生き様には、誰しも憧れることでしょう。

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浪速のジョーこと辰吉丈一郎さんの愛車がイカツすぎる!!

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辰吉丈一郎の実話ヤンキー伝説が無双! 辰吉丈一郎のボクサーとしての 強さは言うまでもないが、 辰吉丈一郎はボクサーになる前は ヤンキーな学生時代を過ごし 数々の伝説となる実話を 残して来たと言う。 そんな辰吉丈一郎の実話、 ヤンキー伝説について見ていこう。 辰吉丈一郎が中学に入学して早々 髪型にこだわりのある辰吉丈一郎は 髪に剃り込みを入れて ヤンキースタイルの髪型にしていた。 それを見た中学3年生の番長が 生意気だと、辰吉丈一郎に目をつけ 喧嘩をふっかけたが 辰吉丈一郎はすぐさま、その番長を 完膚なきまでに返り討ちにしたという 実話伝説がある。 そんな喧嘩が強く怖い見た目の ヤンキー新入生が来たら、 まず他の生徒は怖気付いていたに 違いないだろう。 筆者であれば、そんな怖いヤンキーと 同じ学校の時点で転校を熱望するに 違いない。 次のヤンキー実話伝説も 中学生の時の伝説だが、 辰吉丈一郎が他校のヤンキー生徒 20人を相手に、一人で喧嘩をし、 しかも、 他校のほとんどの生徒が武器を 持っている状態で、 辰吉丈一郎は素手にも関わらず 勝利をしたという実話伝説がある。 本当に一気に20人のヤンキー生徒が 辰吉丈一郎と乱戦状態で喧嘩を したかどうか定かではないが、 結局、辰吉丈一郎が勝ったというのは 伝説は実話のようだ。 そもそも辰吉丈一郎は 小学生から中学生に至るまで 喧嘩という喧嘩に負けた事がない というほど、伝説級の強さを 誇っていたようだ。 現実に本当にここまで強い人が いるのかどうしても疑問に思って しまう節もあるのは確かだ。 20対1は流石に実話ではなく、 盛った話では?と疑問に感じる ところも勿論ある。 だが、辰吉丈一郎なら有り得るかも 知れないと思えてしまうのが 辰吉丈一郎の凄いところだ。 スポンサード・リンク 辰吉丈一郎現在はパンチドランカーという病気に!?その症状は?? そんなプロボクサーになる前から 伝説級の強さを誇っていた 辰吉丈一郎だが、現在は パンチドランカーという病気に かかっているという噂がある。 その噂について深掘りしていこう。 まず最初に、パンチドランカーの 症状について簡単に整理していこう。 パンチドランカーという病気は 頭部に生じた脳震盪が原因で 神経に異常を及ぼしたり 認知症に似たような症状を 引き起こす病気の事である。 頭部への衝撃という事で、やはり ボクサーが圧倒的に成りやすい 病気なのである。 その症状としては、 軽度の場合手足の震えや 軽い運動障害、 思考力や記憶力、言語力等 脳への障害が起こる事が 軽い症状である。 重度の症状の場合は、重い運動障害、 人格崩壊などの症状となる 恐ろしい病気なのである。 では、辰吉丈一郎は何を以って 現在パンチドランカーという病気に かかっていると噂になったのだろうか? それは現在辰吉丈一郎が メインの仕事としている、ボクシングの 試合の解説の仕事での事だ。 それは辰吉丈一郎のろれつが 余りに回っていなくて 何を喋っているのか、 さっぱり不明瞭だった事が、 現在辰吉丈一郎がパンチドランカーに かかっているのでは? と言われているきっかけのようだ。 だが、同じ現場にいた千原ジュニア曰く この辰吉丈一郎の滑舌の悪さには 裏があるようだ。 実はボクサーである辰吉丈一郎が 同業のボクサーの解説に気乗りせず、 渋々と仕事に取り組んだ為に、 あのような聞き取りづらい解説に なってしまったようだ。 それを見た辰吉丈一郎の奥さんに 辰吉丈一郎は怒られてしまい、 その後は普通に解説を 行なっていたとの事だ。 したがって、 この辰吉丈一郎の解説だけでは、 現在パンチドランカーにかかっている という証拠にはなり得ない というわけだ。 ボクサー歴が長い辰吉丈一郎が 現在はパンチドランカーに かかっていなくても、 将来的にはその症状が出てくる 可能性は勿論否めない。 だが、現在は特に問題はないようだ。

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