ミッドウェー 海戦 と は。 【ミッドウェー海戦とは】わかりやすく解説!!敗因やその後の影響など

無数の航空機が飛び交い空母が爆発炎上する映画「ミッドウェー」新予告編公開

ミッドウェー 海戦 と は

計画 [ ] 日程の予定• 6月5日(4日から変更)、第一機動部隊(第一航空艦隊)は黎明にミッドウェーの北西250浬付近に進出し、ミッドウェー攻撃隊を発進させて同島を奇襲し、所在の敵機、防備施設等を撃滅。 状況により同日再度ミッドウェーを攻撃。 索敵はミッドウェー付近を広範囲に行い、警戒を厳にする。 攻撃隊の半数は敵艦隊の出撃に備えて艦上待機させる。 6月6日、第一機動部隊は、敵情に変化なければ、敵艦隊の出撃に備えつつ、ミッドウェー島の攻撃を続行。 6月7日、攻略部隊はミッドウェー島に上陸。 第一機動部隊は、敵情に変化なければ、敵艦隊の出撃に備えつつ、上陸作戦に協力後、同島北方400浬付近に進出し、敵艦隊の出現に備える。 同島の基地使用可能の報があれば、各空母に搭載している基地航空部隊の戦闘機を同島に進出させる。 爾後14日まで付近海面を機宜行動し敵艦隊の出現に備え、14日以後、命により同海面を離れてトラックに向かう。 目標 MI作戦の主目標は攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。 軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長少将と第二艦隊参謀長少将は、の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得たという。 また、5月の図上演習で陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出た際、連合艦隊参謀長から陽動をしたら米艦隊を引き出せないと説明したが、この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されたので、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。 連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、徹底して伝わらなかった。 4月15日(推定)に上奏された「大東亜戦争第二段作戦帝国海軍作戦計画」には、「主として敵の奇襲作戦を困難ならしむる目的を以て「ミッドウェー」を攻略す」とある。 「ミッドウェー」島作戦に関する陸海軍中央協定では、作戦目的は「ミッドウェー島を攻略し同方面よりする敵国艦隊の機動を封止し兼ねて我が作戦基地を推進するに在り」と示している。 また、中央協定の項目には「海軍は有力なる部隊を以て攻略作戦を支援すると共に反撃の為出撃し来ることあるべき敵艦隊を捕捉撃滅す」とあるが、要地攻略で敵艦隊が反撃してきた場合に捕捉撃滅するのは常識なのにこの一文を加えたのは重視していたからで、このような表現になったのは反撃が必至とは言えなかったからという意見もある。 経過 [ ] 採択 [ ] 詳細は「」を参照 が成功し、が作成される中、連合艦隊は次期作戦構想を立てていた。 ハワイ攻略を目指していた連合艦隊長官大将は、それが企図できるようになるまでの間にMI作戦、続いてを実施する案を作成した。 MI作戦はハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた。 しかし、軍令部はこの案に反対であった。 軍令部では米豪交通を遮断するため、フィジー方面の攻略を計画していた。 ミッドウェーも攻略後の防衛は困難で、わざわざ米空母が出撃してくるとは考えにくかった。 連合艦隊参謀たちによって交渉が行われ、「山本長官は、この案が通らなければ、連合艦隊司令長官を辞任すると言っている」と伝えて採択を迫ったが、話は進まなかった。 そこで連合艦隊は歩みより、一番遠いサモア島は攻略後破壊して引き上げるが、ニューカレドニア島とフィジー諸島は攻略確保することで合意した。 連合艦隊はミッドウェーで米空母を撃滅できれば可能と考えていた。 詳細は「」を参照 さらに軍令部はミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を押さえるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母のわが本土近接を一層困難にすることができると判断し、そのための実施を連合艦隊にはかり、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した。 軍令部第一部長によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。 そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という。 軍令部一課長によれば、「ミッドウェー作戦の戦術的牽制にもなるだろうと考えた」という。 これらの作戦によりと間に哨戒機を往復させて米空母が近接するのを防ごうという意見の者もいたが、軍令部航空主務部員のも連合艦隊航空参謀の佐々木彰も、霧などの関係から到底そのような飛行哨戒は不可能と考え、全くその案は考慮しなかったと回想している。 1942年4月5日、海軍の次期作戦構想が内定し、主務者連絡で陸軍に伝えた。 ミッドウェー攻略は海軍単独で行うが、できれば陸軍兵力の派出を希望するとした。 陸軍参謀本部は、ハワイ攻略の前提ではないことが明言され、海軍単独でも実施してもよいとのことだったので反対できなかった。 4月18日、が発生。 米空母によって日本本土が爆撃された。 国民から山本長官に非難の投書があり、また山本は以前から本土空襲による物質的、精神的影響を重視しており、一層ミッドウェー作戦を重視したという意見もある。 準備 [ ] 1942年4月28日、連合艦隊は関係者に作戦計画案を配布。 その後、図上演習開始まで関係者は第一段作戦の戦訓研究会に出席していたため、作戦計画を深く研究する時間的余裕はなかった。 戦艦「大和」において、28日から3日間は連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会を実施、5月1日から4日間は第二段作戦の図上演習を実施、図上演習ではハワイ攻略まで行われた。 実演は3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた。 図上演習では、連合艦隊参謀長中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は戦艦「日向」艦長大佐が務めた。 ミッドウェー攻略前にアメリカの空母部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったが、赤軍担当の松田は出撃させなかった。 ミッドウェー島の攻略中に米空母部隊が出現し、艦隊決戦が発生し、日本の空母に大被害が出て攻略の続行が困難になり、統監部は審判のやり直しを命じ、空母の被害を減らし空母3隻を残し、演習を続行させた。 数次の攻撃で空母「加賀」が沈没、さらに空母「赤城」に9発命中して沈没する結果が出たが、宇垣は赤城を3発命中の小破に変更した。 爆撃、空戦などの審判官が規則に従って判決を下そうとしたとき、宇垣は日米の戦力係数を三対一にするように命じた。 その後、攻略には成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した。 宇垣は「連合艦隊はこのようにならないように作戦を指導する」と明言した。 戦訓分科研究会において、宇垣は第一航空艦隊参謀長少将に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「斯かる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が草鹿を追及すると、第一航空艦隊航空参謀中佐が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、之と巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。 敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。 そのため宇垣は注意喚起を続けたが、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃として第二次は敵の海上航空部隊に備える案に至ったため、宇垣も安堵した。 研究会で作戦参加者から最も要望されたのが準備が間に合わないことによる作戦延期だった。 第二航空戦隊司令官少将と一航艦航空参謀源田中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった。 4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と第二艦隊参謀長白石少将も作戦に反対したが、受け入れられず、5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され、反対せずに帰った。 第一航空艦隊は部品が間に合わず、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め 、6月4日予定の空襲を5日に変更されたが、7日の攻略は変更されていないため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見されやすくなった。 1942年5月5日、連合艦隊司令長官大将に対し、大海令第18号が発令された。 連合艦隊司令長官はと協力し「AF」 ミッドウェー 及「AO」 アリューシャン 西部要地を攻略すべし。 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。 「ミッドウェー」島作戦に関する陸海軍中央協定において、「本作戦をMI作戦と呼称す」と定めた。 5月25日、戦艦「大和」でMI作戦における艦隊戦闘の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、関係者の思想統一を図った。 図上演習はミッドウェー攻略の次の日から始まっており、青軍(日本)はミッドウェー北方に機動部隊、その西方に主力部隊、赤軍(アメリカ)は、主力および空母はオアフの南東450海里から西方に急進中の状態から立ち上がった。 結果は、日本は空母一隻沈没、二隻損傷、アメリカは空母二隻沈没(全滅)となった。 打ち合わせにおいて第一航空艦隊は、部品が間に合わないので延期を要望し、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め、6月4日予定の空襲は5日に変更されたが、7日の攻略は変更されていないため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見される公算が大きくなったが、連合艦隊はこれを敵艦隊誘出に役立つと考えた。 実施 [ ] 1942年5月27日、第一航空艦隊が広島湾柱島から出発。 戦史叢書43ミッドウェー海戦164頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦164頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦164頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦123頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦123頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦51頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦92-93頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦93-94頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦40頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦44頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦45頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦47-48頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦48頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦48-49頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦49頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦62頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦90頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦89頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦89頁• ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 上』原書房50頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦90頁• ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 上』原書房50頁• 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』朝日ソノラマ411頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦90頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦90頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦584頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦91頁• 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂40頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦132頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦121頁• 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫118頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦93頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦117頁• 戦史叢書43ミッドウェー海戦121頁.

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なぜ、ミッドウェー海戦は惨敗したのか?

ミッドウェー 海戦 と は

ミッドウェー海戦とは? (炎上するミッドウェー島基地 出典:) ミッドウェー海戦とは、1942年 (昭和 17年)北太平洋のハワイ諸島北西にあるミッドウェー島付近で行われた海戦です。 日本海軍の機動部隊とアメリカ海軍機動部隊・ミッドウェー島基地航空隊の間で戦闘が行われ、 日本海軍は参加した空母 4 隻全てが撃沈されるという大敗北をします。 ここまで破竹の勢いで進撃してきた日本海軍にとっては、 敗北への道を歩むことになる転換点になる戦いでした。 日本軍潜水艦はアメリカ西海岸付近の商船を攻撃しただけではなく、ときには沿岸の石油施設に砲撃も加えていました。 こうした状況にアメリカ国民の士気も低下していきます。 そこで アメリカ軍は士気向上のため、日本本土への空襲を計画しました。 アメリカ海軍の空母に載せている飛行機は航続距離が短いため、日本近海に接近しないと攻撃できません。 これだと日本軍にみつかって反撃される可能性もあります。 このときのアメリカ軍にとっては虎の子の空母ですから失うわけにはいきません。 そこで、航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母に載せることで対応することにしました。 これで少し離れたところからでも攻撃ができるというわけです。 もちろん大型の陸軍の飛行機ですので海軍の飛行機のように直接空母に離着艦はできません。 そこで空母には港でクレーンを使って積み上げ、飛び立った攻撃機は東京などの主要都市を空襲した後、中国大陸まで飛び中国軍の基地に向かうことになりました。 こうして 1942年 昭和 17年 4月 18日にアメリカ軍による東京をはじめとする日本各地への空襲が行われました。 これは指揮官の名をとって ドーリットル空襲と呼ばれています。 日本側の被害は軽微でしたが、東京を空襲されたことのショックは大きく、防衛体制を強化することが早急に求められました。 しかし、本土空襲の再発を防ぐため哨戒基地の前進と、敵空母を発見し撃沈する必要性が出てきました。 そのためミッドウェー作戦が採用となります。 ただ海軍の中でも ミッドウェー作戦の目的が「ミッドウェー島の占領」なのか「アメリカ海軍空母の撃滅」なのか、指揮官の間でも認識の違いがありました。 事前のシミュレーションでもこのことが露呈し失敗する可能性が指摘されますが、最後まで認識が統一されないまま作戦が決行されることになりました。 主目標がはっきりしないまま作戦を実行することになったことも、ミッドウェー海戦での日本の敗因の一つとして挙げられています。 次の日本軍の攻撃目標地点を指しているであろう「 AF」という言葉が良く出てきていたのですが、それがどこを指しているのかわからなかったのです。 ワシントンの統合参謀本部ではハワイ、陸軍航空隊はサンフランシスコだと予想していました。 一方海軍ではミッドウェーではないかという予測を立てます。 その確証を得るために、わざと「ミッドウェー島で水不足が起きている」という電文を発しました。 それを傍受した日本軍は暗号で「 AFは真水不足」という電文を発します。 これによって日本軍の次の攻撃目標がミッドウェー島であることがわかりました。 そこで海兵隊や航空機を増員してミッドウェー島の守備力を高めるとともに 「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の 3 隻の空母を中心とする艦隊を派遣しました。 6月 5日、 4隻の空母から第一次攻撃隊が発進、ミッドウェー島へ空襲を開始します。 第一次攻撃隊がミッドウェー島を攻撃したのと同じ時期、 4隻の空母も基地航空隊からの攻撃を受けていました。 日本艦隊は被害を最小限に食い止めますが、基地への第二次攻撃の必要性が迫られていました。 しかし、基地への第 2次攻撃の必要性から艦船攻撃用の装備を解き、基地攻撃用の爆弾に変更しなければいけなくなりました。 ちょうど変更が終わったとき、敵艦隊発見の知らせが入ったのです。 艦隊がいるということは空母も来ているはず。 敵基地からの攻撃は受けていますので、敵空母からの攻撃を受ける可能性も十分にあります。 そこでまた艦船攻撃用の装備に戻すことになりました。 そうこうしているうちに、ミッドウェー島を攻撃してきた第 1次攻撃隊も帰ってきます。 先に帰還させるのか、艦隊攻撃を優先するのか、またもや判断に迫られることになりました。 司令部は攻撃隊の収容を優先。 収容も終わり、まさに 艦隊攻撃のために部隊が発進しようとしたとき、アメリカ海軍の空母艦載機が攻撃をしてきたのです。 日本艦隊空母は大損害。 ほんの わずかな時間で「赤城」「加賀」「蒼龍」の 3 隻は戦闘不能に陥ります。 (爆撃の受け、回避行動中の空母飛龍 出典:Wikipedia) その後「加賀」「蒼龍」は沈没。 「赤城」は味方駆逐艦によって雷撃処分されました。 残った「飛龍」は反撃を試み「ヨークタウン」を大破させますが、アメリカ艦隊の攻撃を受け炎上。 「飛龍」も最後は味方駆逐艦による処分で沈みました。 「ヨークタウン」はその後ハワイへ戻る途中、日本軍潜水艦の攻撃で沈没しました。 ミッドウェー海戦の敗因 (炎上傾斜する日本の重巡洋艦 出典:Wikipedia) 敗因は第一に作戦目標がはっきりしなかったことです。 4月のドーリットル空襲を受け、作戦内容を指揮官が共有しないままに実行してしまったことが、現場の混乱を生み出しました。 準備不足ということですね。 ミッドウェー島を占領するのか、敵空母を沈めるのかどっちつかずの方針だったことが災いしました。 また真珠湾のときと違って、攻撃だけではなく防御も考える必要があります。 一つの空母の上で、基地攻撃、敵艦隊索敵、味方の防衛、敵艦隊攻撃の4つを行わないといけないため、刻一刻状況が変わる戦場では判断を下す指揮官にも資質が求められました。 さらにこれまで連戦連勝していたこともあり、 驕りや油断を生んでいたことも敗因にあげられます。 その後しばらくは主力空母 2隻になってしまい、 守勢に転じてしまいます。 一方搭乗員はほとんど救出されたため、大きな損失はなく士気も上がっていました。 ただ後継者の育成はその後も順調に進まなかったので次第にベテランパイロットも失われていきます。 大敗北を喫したにも関わらず 司令部の責任は問われず、その後も指揮を取ることになります。 合わせて 戦果の水増しが行われ、国民には真相が語られないまま戦争が続いていくことになります。 またそれ以上に開戦より半年、 快進撃を続ける日本軍を止めることができたことが大きかったです。 また戦前より建造を進めていた 大型空母を配備するまでの時間を稼ぐことができました。 大戦後期には空母の集中運用が可能になり、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では大機動部隊により日本軍を圧倒しました。

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【ミッドウェー海戦】わかりやすく太平洋戦争の分岐点の戦いを解説

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ミッドウェー海戦とは? (炎上するミッドウェー島基地 出典:) ミッドウェー海戦とは、1942年 (昭和 17年)北太平洋のハワイ諸島北西にあるミッドウェー島付近で行われた海戦です。 日本海軍の機動部隊とアメリカ海軍機動部隊・ミッドウェー島基地航空隊の間で戦闘が行われ、 日本海軍は参加した空母 4 隻全てが撃沈されるという大敗北をします。 ここまで破竹の勢いで進撃してきた日本海軍にとっては、 敗北への道を歩むことになる転換点になる戦いでした。 日本軍潜水艦はアメリカ西海岸付近の商船を攻撃しただけではなく、ときには沿岸の石油施設に砲撃も加えていました。 こうした状況にアメリカ国民の士気も低下していきます。 そこで アメリカ軍は士気向上のため、日本本土への空襲を計画しました。 アメリカ海軍の空母に載せている飛行機は航続距離が短いため、日本近海に接近しないと攻撃できません。 これだと日本軍にみつかって反撃される可能性もあります。 このときのアメリカ軍にとっては虎の子の空母ですから失うわけにはいきません。 そこで、航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母に載せることで対応することにしました。 これで少し離れたところからでも攻撃ができるというわけです。 もちろん大型の陸軍の飛行機ですので海軍の飛行機のように直接空母に離着艦はできません。 そこで空母には港でクレーンを使って積み上げ、飛び立った攻撃機は東京などの主要都市を空襲した後、中国大陸まで飛び中国軍の基地に向かうことになりました。 こうして 1942年 昭和 17年 4月 18日にアメリカ軍による東京をはじめとする日本各地への空襲が行われました。 これは指揮官の名をとって ドーリットル空襲と呼ばれています。 日本側の被害は軽微でしたが、東京を空襲されたことのショックは大きく、防衛体制を強化することが早急に求められました。 しかし、本土空襲の再発を防ぐため哨戒基地の前進と、敵空母を発見し撃沈する必要性が出てきました。 そのためミッドウェー作戦が採用となります。 ただ海軍の中でも ミッドウェー作戦の目的が「ミッドウェー島の占領」なのか「アメリカ海軍空母の撃滅」なのか、指揮官の間でも認識の違いがありました。 事前のシミュレーションでもこのことが露呈し失敗する可能性が指摘されますが、最後まで認識が統一されないまま作戦が決行されることになりました。 主目標がはっきりしないまま作戦を実行することになったことも、ミッドウェー海戦での日本の敗因の一つとして挙げられています。 次の日本軍の攻撃目標地点を指しているであろう「 AF」という言葉が良く出てきていたのですが、それがどこを指しているのかわからなかったのです。 ワシントンの統合参謀本部ではハワイ、陸軍航空隊はサンフランシスコだと予想していました。 一方海軍ではミッドウェーではないかという予測を立てます。 その確証を得るために、わざと「ミッドウェー島で水不足が起きている」という電文を発しました。 それを傍受した日本軍は暗号で「 AFは真水不足」という電文を発します。 これによって日本軍の次の攻撃目標がミッドウェー島であることがわかりました。 そこで海兵隊や航空機を増員してミッドウェー島の守備力を高めるとともに 「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の 3 隻の空母を中心とする艦隊を派遣しました。 6月 5日、 4隻の空母から第一次攻撃隊が発進、ミッドウェー島へ空襲を開始します。 第一次攻撃隊がミッドウェー島を攻撃したのと同じ時期、 4隻の空母も基地航空隊からの攻撃を受けていました。 日本艦隊は被害を最小限に食い止めますが、基地への第二次攻撃の必要性が迫られていました。 しかし、基地への第 2次攻撃の必要性から艦船攻撃用の装備を解き、基地攻撃用の爆弾に変更しなければいけなくなりました。 ちょうど変更が終わったとき、敵艦隊発見の知らせが入ったのです。 艦隊がいるということは空母も来ているはず。 敵基地からの攻撃は受けていますので、敵空母からの攻撃を受ける可能性も十分にあります。 そこでまた艦船攻撃用の装備に戻すことになりました。 そうこうしているうちに、ミッドウェー島を攻撃してきた第 1次攻撃隊も帰ってきます。 先に帰還させるのか、艦隊攻撃を優先するのか、またもや判断に迫られることになりました。 司令部は攻撃隊の収容を優先。 収容も終わり、まさに 艦隊攻撃のために部隊が発進しようとしたとき、アメリカ海軍の空母艦載機が攻撃をしてきたのです。 日本艦隊空母は大損害。 ほんの わずかな時間で「赤城」「加賀」「蒼龍」の 3 隻は戦闘不能に陥ります。 (爆撃の受け、回避行動中の空母飛龍 出典:Wikipedia) その後「加賀」「蒼龍」は沈没。 「赤城」は味方駆逐艦によって雷撃処分されました。 残った「飛龍」は反撃を試み「ヨークタウン」を大破させますが、アメリカ艦隊の攻撃を受け炎上。 「飛龍」も最後は味方駆逐艦による処分で沈みました。 「ヨークタウン」はその後ハワイへ戻る途中、日本軍潜水艦の攻撃で沈没しました。 ミッドウェー海戦の敗因 (炎上傾斜する日本の重巡洋艦 出典:Wikipedia) 敗因は第一に作戦目標がはっきりしなかったことです。 4月のドーリットル空襲を受け、作戦内容を指揮官が共有しないままに実行してしまったことが、現場の混乱を生み出しました。 準備不足ということですね。 ミッドウェー島を占領するのか、敵空母を沈めるのかどっちつかずの方針だったことが災いしました。 また真珠湾のときと違って、攻撃だけではなく防御も考える必要があります。 一つの空母の上で、基地攻撃、敵艦隊索敵、味方の防衛、敵艦隊攻撃の4つを行わないといけないため、刻一刻状況が変わる戦場では判断を下す指揮官にも資質が求められました。 さらにこれまで連戦連勝していたこともあり、 驕りや油断を生んでいたことも敗因にあげられます。 その後しばらくは主力空母 2隻になってしまい、 守勢に転じてしまいます。 一方搭乗員はほとんど救出されたため、大きな損失はなく士気も上がっていました。 ただ後継者の育成はその後も順調に進まなかったので次第にベテランパイロットも失われていきます。 大敗北を喫したにも関わらず 司令部の責任は問われず、その後も指揮を取ることになります。 合わせて 戦果の水増しが行われ、国民には真相が語られないまま戦争が続いていくことになります。 またそれ以上に開戦より半年、 快進撃を続ける日本軍を止めることができたことが大きかったです。 また戦前より建造を進めていた 大型空母を配備するまでの時間を稼ぐことができました。 大戦後期には空母の集中運用が可能になり、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では大機動部隊により日本軍を圧倒しました。

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