スペイン 風邪 死者。 スペインかぜ5000万人死亡の理由

スペイン風邪の死者はどの国が一番多かったのか?ヨーロッパとアジアの国々における死者数の比較

スペイン 風邪 死者

1918年、ワシントンD. のウォルター・リード病院でインフルエンザ患者の脈を取る看護婦。 Photograph by Harris & Ewing Inc. 1918年に大流行したスペインかぜ(インフルエンザ)では世界中で5000万人が死亡したが、犠牲者が主に若い健康な成人だったのはなぜなのか、これまで明らかになっていなかった。 答えは驚くほどシンプルだ。 1889年以降に生まれた人々は、1918年に流行した種類のインフルエンザウイルスを子どもの頃に経験(曝露)していなかったため、免疫を獲得していなかったのだ。 一方、それ以前に生まれた人々は、1918年に流行したインフルエンザと似た型のウイルスを経験しており、ある程度の免疫があった。 今回の研究に携わった科学者らは、ヒトと鳥のインフルエンザ株の遺伝子が混じった1918年型ウイルスの構成要素がどう進化して来たかに着目した。 1830年まで遡り、優勢なインフルエンザ型の移り変わりを明らかにした。 進化生物学者らは、1889年にA型インフルエンザH3N8亜型、通称アジアかぜ(ロシアかぜとも)が世界中で流行したことで、子どもの頃にH1N1株のスペインかぜに似た型のウイルスを経験する機会を持たなかった世代があることに気づいた。 インフルエンザウイルス亜型の名称におけるHとNは、それぞれヘマグルチニン(hemagglutinin)およびノイラミニダーゼ(neuraminidase)という蛋白質を表す。 1900年以降、スペインかぜに似たH1亜型が流行したことで、それ以降に生まれた子ども達には部分的な免疫ができ、ウイルスに対する「脆弱性の窓」が閉じた。 研究を主導したアリゾナ大学の生物学者マイケル・ウォロビー(Michael Worobey)氏は、「史上最悪のインフルエンザのパンデミックで罹患者が最も多かった高齢者は、基本的にほとんどが生き残った」と述べる。 一方で、18~29歳の年齢層では大量の死者が出て、罹患者の200人に1人の割合で亡くなっている。 専門家らは、1918年におけるパンデミックの発生を脆弱性の窓という観点から部分的に説明できるのではないかと考えている。 コロンビア大学のウイルス学者、ビンセント・ラカニエロ(Vincent Racaniello)氏によると、今回の新しい研究ではコンピューター解析によって1918年型インフルエンザウイルスの前駆体が1907年頃に発生したことが判明した。 このことで、脆弱性の窓がどのようにして開き、また閉じたかが説明できるという。 この発見は、猛威を振るう鳥インフルエンザがヒトへ感染するのではという不安の高まる中、将来のパンデミック予防に役立でられる可能性がある。 また、インフルエンザワクチンの摂種法も変わる可能性がある。 現在のようにそのシーズンに流行が予想されるウイルスに対してワクチンを摂取するのではなく、子どもの頃に免疫を獲得できなかった株に対してワクチン接種を行うようになるかもしれない。 たとえば、2009年のH1N1亜型によるパンデミックはアメリカ疾病予防管理センターの発表によると世界中で28万4千人の死者を出し、この型は現在、優勢となっている。 「シーズンごとにインフルエンザの流行型が変動するのは普通のことで、毎年新たなワクチンを開発するのもそのためだ」と、シアトルにあるワシントン大学の免疫学者、マイケル・ゲール・ジュニア(Michael Gale Jr. )氏は述べている。 また、あらゆる型のインフルエンザを予防する万能ワクチンが実現する可能性もありそうだ。 研究結果は「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌で公開された。 Photograph by Harris & Ewing Inc.

次の

スペインかぜ5000万人死亡の理由

スペイン 風邪 死者

新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している()。 パニックや流言飛語も相次いでいる。 しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。 今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか? 本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した 「スペイン風邪」を取り上げる。 そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史から得んとするものである。 速水(左)、内務省(右) ・100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか 1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。 そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。 現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。 スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。 1918年春。 アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。 当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。 このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。 アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、 こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。 当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。 ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。 それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。 そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。 スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。 国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。 日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。 ・「スペイン風邪」、日本に上陸 日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。 そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。 当時、 日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。 速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。 「前流行」は1918年の感染拡大。 「後流行」は1919年の感染拡大である。 どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。 ともあれ、このスペイン風邪によって、 最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0. 8%強に当たる45万人が死亡した。 当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、 日本統治下全体での死者は0. 96%という(速水,426. 以下、図表参照)。 1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。 日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。 単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。 これは大阪市の人口の約半分にあたる。 筆者制作 ・「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も 「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。 以下速水より。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 福井県九頭竜川上流の山間部では、 「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。 出典:速水,146 (1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。 各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。 出典:速水,161 (岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、 市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。 (1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し 出典:速水,168 神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、 処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。 出典:速水,128 など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。 とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。 だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。 ・「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。 結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。 なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。 人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。 実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。 つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。 当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。 当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。 それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。 今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。 大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。 驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。 以下、内務省から抜粋したものをまとめた。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 ・はやりかぜはどうして伝染するか はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。 かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。 ・(はやりかぜに)かからぬには 1. 病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ 2. たくさん人の集まっているところに立ち入るな 3. 人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい ・(はやりかぜに)かかったなら 1. かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ 2. 病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ 3. 治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな (内務省,143-144) 部分的に認識違いはあるが、 基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。 そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。 またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。 マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。 ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。 病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。 だが、当時の技術ではそれが限界だった。 ・100年前も全面休校 休校イメージ、フォトAC 各自治体の動きはどうだったか。 とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。 1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。 人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。 学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。 そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。 このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。 なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、 日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。 そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。 つまり、 スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。 残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。 だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。 このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。 採るべき方針はあまり変わらないように思える。 すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。 実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。 ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。 ・100年前もデマや流言飛語 満員電車イメージ、フォトAC 最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。 現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。 とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し 兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。 人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。 日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。 そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。 どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。 デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、 「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。

次の

スペインかぜ5000万人死亡の理由

スペイン 風邪 死者

の続き的な意味で書いてます。 先日、「スタンバイ」を聞いていたら、コメンテーターの山縣裕一郎氏(会長)がコロナが騒がれる今「お薦めの本」として 【順番は発行年順】 1)速水融(はやみ・あきら)『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ:人類とウイルスの第一次世界戦争』(2006年、) 2)衛生局編集『流行性:「」大流行の記録』 2008年、 3)アッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ:忘れられた』(2009年、) など『(インフルエンザ)・』関係の本を紹介していました。 山縣氏曰く 「実はこれらの著書は最近まで品切れだったのですが、コロナ騒動で注目が集まって重版が決まったそうです」 「当時と今とでは色々違いがありますが、この・についての著書から学べることが沢山あると思う」 「何故か日本人はこの・を忘れてしまったように思いますが、今回の新型コロナなどと比較にならない死者数が出ている。 全世界で約4000万人、日本だけでも約40万人が死亡したと言われます。 今回のコロナでは有名人では例えばさん(1950~2020年、お笑い芸人)が亡くなっていますが、・では有名人では例えば(劇作家、1871~1918年)が亡くなっています。 そして抱月の弟子で愛人関係にもあったという女優・(1886~1919年)が抱月の死にショックを受けてしています。 は『ゴンドラの唄(『生きる』で(1905~1982年)が歌っていた例の歌)』などで割と有名だと思いますが」 云々と。 名誉教授。 著書『古代 上 中 下 』、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、『の根本概念』、『職業としての学問』、『職業としての政治』、『』 以上、 、『社会科学の方法』、『の方法』 以上、 など。 著書『』(、)など。 著書『一万一千本の鞭』、『若きの冒険』 以上、角川文庫 など。 、、を歴任。 「最後の元老」の兄。 文部省学務局長、(の前身)校長など歴任。 には折田の功績を顕彰する「像」が設置されている。 工科大学学長(現在の工学部長に当たる)。 本店、東京駅の設計で知られる。 第2次伊藤、第2次松方、第3次伊藤内閣大臣、第4次伊藤内閣内務大臣など歴任。 総長、総長、総長を歴任した(1854~1931年)の妹。 津田梅子(1864~1929年、創設者)とともに団にして米国留学。 帰国後は津田の友人として、女子英学塾(の前身)を支援している。 参議、陸軍大将、近衛都督を務めたの息子。 中の1914年()に東京俘虜収容所長、1915年()に俘虜収容所長。 家当主。 司法省技官として監獄等の設計に従事、豊多摩監獄(後の中野刑務所)が代表作。 などが死去していますね。 にもかかわらず、日本においてこの「・」は最近まであまり知られてなかったように思います。 【追記】 はこのほど、感染拡大を受けて、10年以上前に初版を刊行し品切れになっていた778『流行性 「」大流行の記録』(本体3000円)をウェブで全文無料公開したところ、などでの反響が多く重版を決めた。 の重版は四半世紀ぶりだという。 同書は1918年から20年にかけて世界的に流行したインフルエンザ()について2年後の22年に日本の衛生局が刊行した報告書をし、解説を付けたもの。 2008年に778として初版2700部で発行。 2年ほどで品切れとなり、重版未定のまま10年ほどが経過していた。 下中美都社長によると、2009年にエンザが流行したときにも重版を検討したが、このときはできなかったという。 しかし、今回は「出版社として何かできることはないか」と考え、編集部門からの提案で無料公開に踏み切ったところ、すぐに多くの反響があって重版に至ったという。 下中社長は「出版社には、のど元過ぎたら忘れてしまうようなことも残していく使命がある。 今回、感染拡大が終息した後の世界がどうなるのかを見通すこともできない。 この本は専門的な内容ではあるが、そういう時代に示唆に富む本だと思う」と話している。 の感染拡大を受け、『ペスト』()が異例の売り上げで話題になった。 小説以外にも、過去のの研究や歴史を扱った本もじわじわ売れている。 全容がまだ見えないウイルスと向き合う手がかりを、本に求める読者が増えているようだ。 新潮社によると、『ペスト』は2月以降で15万4千部を増刷し、累計発行部数は104万部になった。 ペストにより封鎖された街で、伝染病の恐ろしさやを脅かす不条理と闘う人々を描く。 フランスやイタリア、英国でもベストセラーになっているという。 日本の小説で、新型コロナによる混乱を「予言している」と注目が集まったのは、『首都感染』(文庫)。 中国で強毒性のエンザが発生し、東京が封鎖される。 2月以降、計6万4千部増刷した。 の担当者は「が発生した場合に、何が起こるのか、どのように対処したら良いのかを、読んだ人が冷静に判断できる内容」という。 ほかに(ボーガス注:をネタにした娯楽小説として)『』(角川文庫)、『破船』()なども売れている。 では、1983年刊行の『ペスト大流行』()が、品切れ状態から約1万部増刷した。 『流行性:「」大流行の記録』()は、100年前の衛生局による報告書に、解説を付けた一冊。 解説を書いているのウイルス疾患研究室長・西村秀一が、古書として出回っていたこの本を入手、「現代に復活させようという強い思いが生まれた」と記す。 「ペストとコロナと関係ないやろ?」と思いますけどねえ。 ましてや娯楽読み物なんか「作り話やないか。 役に立たないやろ?」と思いますけどねえ。 : 「」編集長、常務取締役・編集局長、社長などを経て会長。 著書『東アジア経済圏90年代を読む』 1989年、)、『私のカ・ジャーナリズム修行』(1992年、)、『図解・経済統計の「超」解読術』 (1996年、)(『山縣裕一郎』参照)。 : 1929~2019年。 名誉教授、名誉教授、名誉教授。 日本における歴史人口学研究の草分けとされる。 : 編者で分かるようにこれは『当時、が編纂した調査報告書』の復刻版で旧仮名遣いなので読むのは大変です。 : オースティン校名誉教授。 著書『飛び道具の人類史』(2006年、)、『ヨーロッパの:的視点から歴史を見る』 2017年、)など : 1849~1940年。 第二次伊藤、第二次松方内閣文相(外相兼務)、第三次伊藤内閣文相、首相、元老を歴任 : 1841~1909年。 、、首相、議長、枢密院議長、韓国統監など歴任。 元老の一人。 : 1835~。 第1次伊藤、黒田、第1次山縣内閣蔵相、首相、第2次伊藤内閣蔵相、など歴任。 元老の一人 : 1842~1916年。 第1次伊藤、黒田、第1次山縣、第1次松方、第2次伊藤内閣、など歴任 : 1825~1883年。 で右大臣、外務卿を歴任 : 1999年、『イントゥルーダー』(現在、文春文庫)で第16回ミステリー大賞・読者賞をダブル受賞し、本格的に作家デビュー(『』参照)。 : 名誉教授、名誉教授。 著書『近代科学を超えて』 1986年、 、『科学者とは何か』 1994年、新潮選書 、『の逆遠近法:の再評価』 1995年、 、『:二十世紀の物理学革命』 1998年、 、『科学の現在を問う』 2000年、 、『安全と安心の科学』 2005年、 、『あらためて教養とは』 2009年、 、『人間にとって科学とは何か』 2010年、新潮選書 、『奇跡を考える:科学と宗教』 2014年、 、『死ねない時代の哲学』 2020年、文春新書 など bogus-simotukare.

次の