雲肘木。 法隆寺06 金堂と五重塔 2016.05.12/北道倶楽部

寺院建築ー飛鳥時代

雲肘木

【60】法隆寺 法隆寺 No. 2007年6月16日(土曜) 法隆寺を訪れた。 3度目であるが、前回訪れたのはたぶん30年も前のことか。 法隆寺は見るべきものが多すぎる。 例えば建造物は国宝が18棟・重文が30棟ある。 あの東大寺は国宝8棟、重文14棟である。 仏像となると法隆寺は国宝18点・重文76点。 東大寺は国宝13点・重文36点である。 リストを数えたので間違っているかも知れないが、これに壁画・絵画・工芸品・経典・書籍・古文書を加えると途方もない量の歴史・美術の大宝庫である。 とうてい1度や2度の訪問では見ることはできないし、予備知識を得るためには何冊かの本も読んでおかねばなるまい。 これが法隆寺を敬遠していた理由だが、今日は「近代建築探訪」の最後のしあげとして訪ねることにした。 見るのは建物である。 過去2度の訪問では、JR関西本線(大和路線)の法隆寺駅で下車して20分ほど歩いた記憶がある。 JRの通っていない名張からはどう行けば短時間で行けるのか。 調べると、近鉄京都線の筒井駅で下車して、王子行きのバス(奈良交通)に乗ればよいことを知った。 名張を6:27分の電車に乗り、筒井駅に着いたのは7:15ころ。 バスに乗って写真の法隆寺前に着いたのは7:40ころか。 道路は国道25号線。 少し西に歩くと法隆寺の参詣道があった。 松並木の間を進めば南大門である。 工科大学校で辰野金吾から西洋の近代建築を教わった、歴史主義の第2世代のうちの何人かは日本の伝統様式について独自に研究する。 その嚆矢が伊東忠太の「法隆寺建築論」 明治26)である。 伊東は法隆寺に出向いて調査し、法隆寺は世界最古の木造建築物であることを発見する。 最古であることをいうには、各時代の建築様式を明らかにせねばならない。 様式の特徴や様式から次の様式への転化の過程がわかっていなければならない。 伊東はこれらのことを明確にしていたのであろう。 松並木道は300mほどあったか。 左手に信貴山(奥のとがった一番高い山)が見える。 右端の山は矢田丘陵の南端で、法隆寺はこの山裾にある。 伝統様式を学ぶことは第2世代の風潮であったのかも知れない。 明治28年、伊東は元は御所の棟梁であった木子清敬(きよよし)と協同して平城京の大極殿を復元した(これが平安神宮)。 同じ明治28年に長野宇平治が木造伝統様式の旧奈良県庁舎を建てている。 同じ年に関野貞(ただし)は古社寺修理監督として奈良県に赴任し、赴任後わずか半年で80棟の造立年代を判定し、大きな間違いがなかったという。 伊東ばかりでなく長野や関野も伝統様式に明るかったわけである。 最も古い様式を持つ法隆寺を基準にして、シロートが得ているわずかの日本建築の様式の知識を実地で復習するつもりでやってきた。 わずかの知識は、前回も掲げたが「日本建築様式史」(太田博太郎 監修)、「日本建築のみかた」(宮元健次)、「継手・仕口 日本建築の隠された知恵」(伊藤延男・田中文男・浜島正士)の3冊から得た。 南大門(国宝)。 この南大門は法隆寺としては新しい建物で、1435年に焼失した後、すぐに 1439年 再建された室町期の建物である。 よって、鎌倉期に導入された大仏様あるいは禅宗様の特徴が見られる。 「継手・仕口」を読むと、大工がどのような工夫をしてきたかがわかって、実に面白い。 例えば軸部(柱)である。 (図1)のように柱を立て、柱と柱を繋ぐときどうしたか、である。 図2)柱の頭部に切り込みを入れて、ここへ梁や桁(水平材)を落とし込むのが最も簡単なやりかたである。 柱の頭部を貫いているので「頭貫(かしらぬき)」と呼ぶ。 角にくる柱は「隅柱」(すみばしら)と呼ばれる。 ここには2方向からの水平材が差し込まれる。 図3)では、• 隅柱に「凹」の切り込みを2か所に入れて、水平材を落とし込む。 隅柱に「L」の切り込みを入れて、水平材の先を三角にカットして差し込む。 (これは「留め(とめ)」という継手(つぎて)だそうだ)• 水平材が長いときは、 図2)のように柱に切り込みを入れて、水平材を落とし込む。 水平材の長さが不足するときは、どこかで継がねばならない。 柱に埋まった箇所で継ぐのが普通である。 このとき2つの水平材に何の加工もせずに柱に落とし込むのを「突き付け」と呼ぶそうだ。 A や B の隅柱と水平材は繋がっていない。 D の水平材どうしも繋がっていない。 よって水平材が水平方向に動くと柱からはずれてしまう。 法隆寺金堂はこのやり方であるという。 隅柱の切り込みの形は A か B か、あるいはもっと複雑にしているのかは、外から見てもわからない。 解体してみたら A であったそうである。 金堂のように頭貫を落とし込んだだけのときは、柱・隅柱が固定できず構造体としては弱い。 そこで、(図4)のようなことが考えられた。 E の隅柱の頭部は「十」字に切込みを入れ、 図5)のように2本の水平材を直交させ、これを落とし込む。 2本の直交する箇所は互いが水平材の厚さの半分を切り取られる。 (これを「相欠き(あいかき)」と呼ぶそうである)。 実際には図のような単純な「相欠き」ではなく、ほかの継手(例えば「蟻(あり)」)と組み合わせてある。 E の隅柱では水平材が柱から飛び出た格好になる。 この飛び出た部分を「木鼻(きばな)」と呼び、繰形(くりがた)や渦紋あるいは象や獏(ばく)の彫刻を入れる。 F 柱に落とし込む水平材には、一部を切り欠いて「凹」形にし、柱頭は「凸」形に切り込んで、水平材を落とし込むと凹凸ががっちりと組みあい、柱が固定される。 G 継手も工夫される。 図のような矢印形の雄雌(オスメス)を作って、上から嵌め込むと引っ張っても抜けなくなる。 南大門には木鼻があった。 木鼻で隅柱を固定する技術は、鎌倉期に重源が中国から導入した大仏様あるいは禅宗とともに入ってきた禅宗様で使われ始めた。 隅柱の柱頭には「十」字の切り込みがあり、水平材がそこで直交していること、直交しているがために木鼻があることを知ると、隅柱ひとつを見ても大工の知恵に感心する。 頭貫で柱を連結したとしても、これだけでは水平方向の強度が不十分である。 地震の横ゆれや台風が来れば、横倒しになるだろう。 (図6)のように頭貫の上に桁や梁を重ねて補強する必要がある。 そのために組手(くみて)が考えられた。 柱の上(頭貫の上)に「大斗(だいと)」という斗(ます)が置かれる。 大斗の上には肘木が嵌め込まれる。 肘木で桁や梁を支えることもあるし、肘木の上に巻斗(まきと)という斗(ます)が置かれ、• 巻斗で桁や梁を挟んで支える。 これによって、頭貫のほかの水平材が構造体に組み込まれることになる。 (図8)の a のように肘木の上に3つの斗が乗っているを「三斗(みつど)」といい、 b のように2つの斗があるのを「双斗(ふたつど)」という。 c のように束(つか・短い柱)の上に1つの斗が乗っているのを「間斗(けんと)」または「間斗束(けんとづか)」という。 軒下から見上げると、• 柱の上に「大斗」が載り、• 桁と同じ方向に舟形の肘木が載るとともに、直交して梁方向に舟肘木が出ている。 桁方向の肘木には3つの斗(ます)が載り、軒桁(丸桁・がぎょう)を支えている。 3つの斗が載るから「三斗組(みつどぐみ)」であり、梁方向に肘木が伸びているので「一手先(ひとてさき)」でもある。 奥の柱の上にも同じ組物(くみもの)がある。 柱と柱の間にも水平材を支えるしくみがある。 頭貫の上に斗が置かれ、• その上に肘木が嵌め込まれている。 肘木には2つの斗が載っているから「双斗」である。 この肘木は舟形ではない。 蝶の羽のような形をしており、彫刻が施されている。 禅宗様で「花肘木」というらしい。 花肘木に載る「双斗」は水平材を支えているが、その上にまた斗が載り、別の水平材を支える。 さらにその上に斗があって垂木(たるき)を載せる桁を支えているようだ。 南大門から内が法隆寺である。 中門(ちゅうもん)が見える。 五重塔が見える。 金堂は松の木に隠れて屋根の一部が見える。 607年に聖徳太子が建立したが、670年に全焼し、その後に再建された。 だが何年に建てられたかは不明である。 もし7世紀最後の699年に再建されたとしても、約1300年前の建物であることになる。 飛鳥様式と呼ばれる古式の様式の建物群である。 中門(国宝)。 桁行4間・梁間3間の二重門。 間口が4間というのは異常である。 中の2間が出入り口で、両脇の各1間には金剛力士像が立つ。 間口が4間(柱は5本)となると、中央に柱が立つことになる。 中央の柱は出入り口としては邪魔であるので、太子の霊が出られないようにしてあるとの説も出てくる。 奥行きが3間というのも異例である(通常は2間)。 手前の1間には力士像があるから、寺の中に2間分のスペースがあることになる。 まずは柱から。 たしかに柱には膨らみがある。 藤森照信さんの「日本の近代建築 下 」によれば、伊東忠太はこの中門とギリシャ神殿を比較し、• 円柱はオーダーの列柱 シャフト にあたり、• 柱の上の斗は円柱の上のキャピタルにあたる。 頭貫から軒までの高さはエンタブラチュアの厚さと同じであり、• 屋根の勾配はペディメントの角度に近い。 などを発表したという(明治26年。 刊行は明治31年) 伊東はこの発見? によって、法隆寺の起源はギリシャにあるとして明治35年から3年間、中国・ベトナム・インド・トルコ・ギリシャ・エジプトなどへ出向いて研究するのである。 この説はいまでは受け入れられていないようだが、「エンタシス」という言葉は広まった。 中門の軒は深い。 これは金堂・五重塔もそうだが、一番外側の柱から5mは伸びているのではないか。 この長い軒をどう支えるか。 この上に瓦を載せる。 垂木には非常な重量がかかるから、5mもある垂木だけではこの重量を支え切れない。 (次図)左は中門の組物、右は平安神宮の組物で和様の典型かと思う。 どちらも目的は同じである。 尾垂木の上の(斗+肘木)で丸桁を支えるのはどちらも同じだが、中門の肘木は雲形をしている。 軒の隅部。 正面の軒と側面の軒は隅部で互いに45度の角度で接合している。 接合部分には「隅木」と呼ばれる材が45度の角度で伸びているのを組物で支えている。 組物は先に見たものと同じである。 ただし45度の角度があるので、肘木や尾垂木は直角に出たものに比べて1. 414倍ほど長くなる。 また尾垂木の上に載る斗は、正面方向の丸桁と側面方向の丸桁が交差しているところを支えるので少し複雑になる。 隅部の肘木や尾垂木が、ほかのものより1. 414倍長いということは、その分だけここに力がかかるということだろう。 隅柱から黄色い線方向に2つの組物をして、45度の組物の負担を軽くするのが普通だと思うが、そうしてはいない。 二層を見上げる。 軒下の組物は初層のものとまったく同じである。 違うのは、二層目には高欄があること、連子窓があることである。 その「卍崩し」だが、どう崩してあるのかわからない。 「卍」は中心で十字 に交わるが、高欄の意匠には十字(4方向)で交わるところはない。 「T」や「ト」や「逆T」の3方向で交わっている。 帰宅してあれこれ崩してみたが、2時間かけてもわからなかった。 (次図)中門の右には阿形(あぎょう)、左には吽形(うんぎょう)の金剛力士像(塑像)がある。 回廊の南西角が観光客の入り口である。 8:00である。 開場の合図があったので入ると、一番乗りである。 拝観料は1000円。 1枚のチケットで西院伽藍・東院伽藍・大宝蔵院の3か所の見学ができるのだから、格安といってよい。 西南隅の回廊にいる。 右手に中門の屋根、左手に五重塔の屋根、中央に金堂、その向うに回廊が見える。 観光客は誰もいない。 作務衣を着た、坊さんか法隆寺の職員かボランティアかはわからないが、10数名が掃除をしたり、改札口の脇にたむろしているばかりである。 法隆寺の内側から見た中門である。 柱の上に頭貫(かしらぬき)が水平に通り、その上に組物があるのはよい。 全体は本瓦葺(丸瓦と平瓦を交互に葺く)であるが、中間部分が平瓦(桟瓦・さんがわら)になっているのではないか? 中門の下に行ってみた。 門扉の裏は2間である。 外側の門扉の前の1間を加えて、奥行き3 間であることはわかった。 水平材のことである。 柱の頭部と同じ高さにある。 後に修繕や補強が行われたようである。 中門にある金剛力士像は711年に作られた記録があるので、中門はそれ以前に建てられていたといわれている。 写真のように水平材を柱に貫通させて軸部を固定する方法は、大仏様や禅宗様がもたらされた鎌倉期以降のことであるから、補強工事は鎌倉期以降のことであろう。 法隆寺の休憩所で買った「法隆寺ハンドブック」 500円)によると、1605年(慶長10)に豊臣秀頼が全伽藍を修理、1696年(元禄9)に全伽藍の大修理をした、との年表があったので、このどちらかのときに補強されたようだ。 正面からはわからなかったものを見ることができた。 力肘木はずいぶん長い。 柱の外に出たものよりも、柱のうちにあるほうがよほど長い。 奥の柱の大斗まで伸びている。 本瓦の中の平瓦については、作務衣を着て掃除をされている方に尋ねたら、「軒先には雨樋がないので、2階の屋根から落ちる雨垂れから1階の屋根を守るためである」とのことであった。 なるほど平瓦が敷かれているのは初層だけである。 2層目の屋根にはない。 「雨垂れ、石をも穿つ」というから、初層の屋根瓦は傷むのだろう。 平瓦は時期がたてば取り替えるそうである。 そういうことだったのか。 金堂(国宝)。 北から見たもの。 桁行5間・梁間4間の重層入母屋造。 2層目は桁行4間・梁間3間。 中門と同じ高欄があり、連子窓がある。 初層は裳階(もこし)が取り巻いているので、桁行9間・梁間7間に見える。 裳階は取ってつけたような感じもするし、いやこの裳階屋根と初層の屋根との間隔が狭いから建物が鋭く見えるのだと思ったりもする。 裳階は妙に気になるのである。 おそらく再建当初、裳階はなかったであろう。 裳階が無かったときの姿はどのようであったのか? 中門の柱を張りつけてみた。 「法隆寺ハンドブック」に載っている金堂平面図を見ると、南(正面)の桁行5間のうちの中央の3間が開口部である。 東面と西面は4間のうちの1間が開口部であり、北面は桁行5間の中央の1間だけが開口部である。 正面からはだいたい図のように見えるのではないか。 うーん。 見慣れていないから、裳階がないと法隆寺の金堂らしくない。 裳階屋根と初層の屋根の間隔が狭く、ライト兄弟が初めて飛ばした複葉機の羽のような形そのものがよいのか? 裳階のぐるりの連子窓の連続がリズムを与えているのか? 右図は薬師寺の金堂の側面である。 創建時(718年)のものを昭和に復元したものである。 当初から裳階をつけるように設計したならば、図のように初層を高くして、裳階とのバランスを配慮する。 また側面は4間であるので1間幅の裳階をつけて6間の裳階とする。 これが普通である。 法隆寺金堂は、桁行5間の母屋に9間の裳階だから、2間幅の裳階を巻いたわけだ。 そうなら梁間4間に巻いた裳階は8間となるはずだが、実際には7間となっている。 母屋と裳階の間が対応していないことは、裳階が後からつけられたという証拠の1つではないか。 薬師寺の裳階は1間幅であるので裳階屋根は初層の屋根よりも小さいが、法隆寺は裳階を幅広く巻いているので、裳階屋根と初層の屋根はほぼ同じ(やや裳階屋根が短い)である。 薬師寺に比べてバランスがよいとはいえない。 右図は喜光寺の金堂である。 喜光寺は721年に創建された。 東大寺大仏の建造を指揮した行基が、奈良での滞在の場所とした寺である。 この金堂は東大寺大仏殿(今の大仏殿ではない)を建てる際に手本となった建物で、「試みの大仏殿」と呼ばれている。 (今の金堂は再建されたものである) 二重(2階建て)に見えるが、一重(1階建て)である(入ってみると2階はなく吹き抜けになっている)。 桁行3間・梁間2間。 ここに1間幅の裳階をつけて、桁行5間・梁間4間にしている。 正面の1間は柱だけ立て、吹き放しにしている。 この建物も当初から裳階をつけることを考えて設計してある。 ニ重に見せようとしたのであろう。 裳階の高さは普通の建物の初層と同じ高さにしている。 裳階より上の部分も高さがあり、明かり取りの窓がつけられているほどである。 裳階が高いので裳階屋根は一番上の大屋根よりも大きい。 だから裳階屋根は大屋根よりも小さいとは限らないのであるが、それは喜光寺がニ重の建物に見えるように高い裳階をつけたからである。 法隆寺金堂に近づいて見る。 雲肘木が• 力肘木を支え、これが• 尾垂木を支え、これが丸桁(がぎょう)を支え、丸桁の上に地垂木が載る。 これは中門と同じである。 法隆寺 系 独特の組物である。 唐獅子の彫刻は裳階の隅柱の上にある。 つまり隅柱と唐獅子が「軒柱」となって尾垂木を支えているのである。 法隆寺の軒は深すぎる上、隅の軒を支える組物は45度に出た尾垂木だけであるから、軒柱を追加して補強せざるを得なかったようだ。 ただし再建当時に裳階がなかったとすれば、裳階の隅柱は軒柱に利用されることはない。 裳階をつけたときに軒柱に利用したのか、あるいはのちに隅柱の上に唐獅子を置いて軒柱としたのかだろう。 唐獅子の彫刻というのが桃山期か江戸期のイメージを湧かせるから、獅子は慶長あるいは元禄の大修理のときに作られたのか?• 裳階(もこし)の柱から細い肘木が出て、• その肘木の上に「三斗組」が載って、裳階屋根を支えている。 柱からでている肘木は、柱に差し込んである。 「挿肘木(さしひじき)」である。 組物ではない。 挿肘木は鎌倉期以降のものだというから、裳階は鎌倉期以降に新しくつけられたか、古い裳階から新しいものに変えたかであろう。 そう考えながら裳階屋根に目をやると、なんと板葺きである。 小さい写真を見ていては板か瓦かということは判断できないし、第一板葺きであるとは考えもつかなかった。 私にとっては大発見である。 近くで掃除をされている作務衣(さっき平瓦の質問をした人と同じ。 この方には金堂内でも多くのことを教えてもらった)の人に確認すると、「そうです」と平然といわれる。 薬師寺も喜光寺も裳階屋根は瓦葺きである。 ここにも法隆寺の特異さがある。 ニ層目を見上げる。 雲肘木が• 力肘木を支え、これが• 尾垂木を支える。 尾垂木の先には斗が置かれ、雲形の肘木をくわえ、• 雲形の肘木が水平材である丸桁(がぎょう)を支え、丸桁の上に地垂木が載る。 これは一層目や中門と同じである。 これは雲肘木であろう。 一層目と同じく隅の尾垂木は軒柱で補強されている。 軒柱には龍の彫刻が施されている。 元禄期の修復のときに付けられたという。 上層に高欄があり、人字形割束があること、• 意匠は「卍崩し」であることは、中門と同じである。 金堂にも雨垂れ対策の平瓦が、本瓦の上に載せられている。 金堂の外観を見てから金堂内に入った。 内陣には有名な釈迦三尊・薬師如来・阿弥陀如来の本尊とこれを囲む多聞天・持国天・増長天・広目天の四天王像があり、有名な金堂の壁画が復元されていた。 暗いうえに金網越しに見るためよく見えない。 懐中電灯が備えてあって、観光のガイドさんは仏像や壁画にライトをあてて説明するらしい。 畏れ多いことである。 法隆寺の建物の特徴は、• 雲形の彫刻(雲肘木)があること。 雲斗雲肘木のように組物が簡単であること。 軒が深いのに軒の垂木は1段(「一軒(ひとのき)」)であること (多くは2段(「二軒」ふたのき)にして軒先を延ばす)。 継手が少ないこと。 柱と頭貫の仕口が簡単であること。 中国の様式があること(高欄の意匠の卍崩しと人字型割束)。 かと思うが、最も法隆寺らしいのは雲肘木と雲斗であろう。 「法隆寺ハンドブック」(手帳サイズで手帳にもなる)に右のような本堂の断面図があった。 図には「雲斗雲肘木」(くもとくもひじき)と書いてある。 私は図の青緑色の部材は「雲肘木」であると思っていたが、「雲斗」でもあるらしい。 これまで学習したところでは、「斗(ます)」は「梁(はり)」や「桁(けた)」の水平材や「尾垂木」などの斜め材、あるいは水平材を支える「肘木」を挟んで固定するものである。 「日本建築のみかた」(宮元 健次)には左図のものが掲げてある。 その通りであるが、よく考えると雲肘木が力肘木を支えているのである。 雲肘木の上に「斗」が載り、それが力肘木を固定するのが普通であろう。 私が雲肘木であると思っていた 青緑色)の部材には「斗」が載っているので「雲斗」と呼ばれているに違いない。 ではどこに「雲斗」があるのか?なにしろ「雲斗雲肘木」は高いところにあるので遠望するしかない。 遠目には判然としないのである。 だが、あとで行った宝蔵院に「雲斗雲肘木」が陳列してあった。 別の休憩所で買った本の「法隆寺」(法隆寺発行)に宝蔵院で見た「雲斗雲肘木」の写真が載っている。 右図である。 が「雲肘木」であることはよい。 写真は隅部にあるものなので、直交した肘木が「斗」で固定されているが、一方向だけの雲肘木も当然にある。 は金堂の「雲斗雲肘木」である。 白線部分で部材が分かれているならば、下から順に「雲肘木」、ここへ「雲斗」が3つ載り、「力肘木」を固定する。 (力肘木は断面図の(黄色)にあるように1本の材なのだが、重さに耐えられずに折れたらしい。 補修されて先の方は別の材が「突き付け」られていたようだ) 雲肘木の上に雲斗が置かれている格好である。 これだと「雲斗」と「雲肘木」が理解できる。 しかし遠目に見たところでは雲肘木と雲斗は一体であるような感じであった。 また「雲斗」が力肘木を挟んで固定しているようにも見えなかった。 は五重塔の「雲斗雲肘木」。 昭和の大修理で、老朽化していたものが取り外され、陳列されていた。 説明では金堂のものは「力肘木」と「雲斗雲肘木」は別の部材であったが、五重塔のものは全部を1つの部材にしてある、と説明されている。 つまり金堂のものは「力肘木」と「雲斗をそなえた雲肘木」の2部材の組み合わせであり、五重塔のものは「力肘木+雲斗+雲肘木」の機能を1つの部材にまとめているのである。 五重塔(国宝)。 東北方向から撮る。 のが理由のひとつかも知れない。 軒下をスッキリさせるために「雲斗雲肘木」のように組物を省略して一体化した部材を使っているのだが、それには大量の巨木が必要である。 宝蔵院でみた「雲斗雲肘木」の高さは1mほど、長さは3mから3. 5mはあったのではないか。 五重塔を遠望すると、軒下に見えるのは尾垂木だけである。 柱からいきなり長い軒が外に広がっているように見える。 巨木が調達できないときは、深い軒は組物で支えるしかない。 左図は興福寺五重塔の軒下、右図は法隆寺の2層目の軒下である。 興福寺のほうは組物で「三手先(みてさき)」である。 軒下はゴチャついている。 法隆寺は雲斗雲肘木である。 部品が少ないので、軒が鋭く見える。 五重塔は3間四方で、初層に5間の裳階がつく。 造りは金堂や中門と同じである。 力肘木と一体になった雲斗雲肘木(これが金堂と異なる)が、• 尾垂木を支え、• 尾垂木の上に雲肘木を載せ、• 丸桁(がぎょう)を支える。 地垂木は1本で軒を伸ばす「一軒(ひとのき)」であるのも金堂と同じ。 裳階の隅柱とともに軒柱となっている。 金堂は唐獅子であったがこちらは邪鬼。 裳階の柱からは「挿肘木(さしひじき)」が出て、• 板葺き屋根を支えている。 ニ層より上を見る。 高欄がつき、意匠が卍崩しであるのは、金堂・中門と同じ。 これは雲肘木なのか雲斗なのか迷うのであるが、中門と金堂と五重塔の形は少しずつ違っているようだ。 中門のものは、輪郭は雲形。 金堂のものは、輪郭は雲形で彫刻があるようだ。 五重塔のものは、輪郭は雲形で中央が繰り抜かれている。 (遠くから見ているので確かではない。 すべての雲形に彫刻があるのかもしれない。 ) 裳階のことである。 裳階(もこし)がなかったときの五重塔の姿はどうだったのか? せっかくの写真にシロートが手を加えて申しわけないことだが、裳階を取り払ってみた(左図)。 金堂のときと同じである。 裳階つきの五重塔に慣れているので、裳階がないと違和感がある。 初層が頼りなく見える。 だが今でこそ木地が現れて黒褐色の建物になっているが、当初はそうではなかったろう。 四天王寺(右図)や薬師寺のように柱や高欄は丹色で塗られ、連子窓は碧色で塗られていただろう。 塔は赤・緑・白色の明色であった。 明色は広がる感じを与え、暗色は縮む感じを与える。 今は色が剥げて黒褐色になっているので、軒は刃のような鋭さを感じさせるのだが、もし褪色前に裳階があって塔と同様の色彩が施されていたならば、裳階は異様に大きく見えたのではなかろうか。 法隆寺が1300年の間に美しく枯れてきたから裳階が引き立つようになったのではないか。 東側の回廊から見た金堂・五重塔。 裳階が広がっているので、大木の根が大地に張り出したような安定感がある。 しかし裳階がなければ当初の柱や頭貫や白壁や扉があらわになり、それはそれで見事なツーショットであろうと思われる。 金堂・五重塔・中門は飛鳥様式であるといわれる。 雲肘木や雲斗がその代表であろう。 法隆寺は聖徳太子が創建した当初のものであるとされていたが、明治20年ころから再建されたものではないかの学説がでてきた。 「再建論」は日本書紀に670年に全焼したの記述があることが最大の根拠である。 その後711年まで法隆寺の記述がないので、670年〜711年の間に再建されたとする。 「非再建論」は法隆寺が7世紀前半の飛鳥様式で建てられていることが一番の根拠であった。 伝統建築に明るい伊東忠太や関野貞(ただし)は「非再建論」に組したようである。 非再建の理由は、• 現在の法隆寺伽藍敷地内には焼失を示す遺物がない。 法隆寺は高麗尺(こまじゃく)で設計されている。 奈良期の興福寺や薬師寺は唐尺(とうしゃく)である。 再建されたものであればなぜ、古い高麗尺を使い、古い飛鳥様式で建てたのか と主張した。 建築様式を研究した伊東・関野であるから、もっともな主張である。 しかし昭和14年に法隆寺回廊の外、南大門のずっと東に若草伽藍の跡が見つかり、ここから四天王寺式の塔と金堂の遺構が発掘された。 出てきた瓦は飛鳥時代(大化改新より前)のものであった。 これによって法隆寺は再建されたものであることが明らかになったのであるが、ではなぜ飛鳥様式で再建したのか? の謎は残った。 さらに困ったことがある。 仏像の年代およびその様式が変わってくる。 例えば金堂で見た釈迦三尊像は北魏様式であるとされている。 この光背に「太子の病気平癒を祈って造像を始めたが、太子は622年に亡くなり、その翌年の623年に完成した。 造ったのは鞍首止利(くらつくりのおびと・とり)である。 」といった銘文があるのである。 美術史家はこれをもって飛鳥期の仏像であるとしているが、法隆寺が670年に全焼したのであれば、釈迦三尊像は残ってはいまい。 金銅仏であるから、それは何百Kgの重量であろうと思う。 火事場から人手で運び出すことは到底できないだろう。 すると現在ある釈迦三尊像は法隆寺が再建された時期に造られたもので、早くても白鳳期のものになる。 そうならば光背の銘文はのちの時代に彫られたことになる。 光背の銘文が真正とするならば、全焼時に法隆寺には釈迦三尊像はなく、別の寺にあったものを再建後移してきたことになる。 玉虫厨子はもと橘寺にあったそうだからその可能性もあるが、釈迦三尊と同じ様式の薬師如来像も別の寺にあったことになる。 回廊(国宝)を通って大講堂へ向かう。 回廊は当然に中門ができてから作られたものだろう。 虹梁とは虹のように曲がった梁であり、アーチのように上方からの力に耐える。 その上の叉首(さす)も三角形で上方からの力に強い。 この2重の仕組みで回廊の真ん中に柱を立てることなく回廊の屋根を支えているわけだ。 (次図)中央は大講堂(国宝)。 右は鐘楼(国宝)、左は経蔵(国宝)。 何もかもが国宝建物である。 大講堂は、桁行9間・梁間4間。 925年に落雷で焼失し、990年に再建されたので、金堂・五重塔・中門の飛鳥様式ではなく、平安期の和様である。 当初は桁行8間であったが元禄の大修理のとき9間に延ばしたという。 大講堂の西にある経蔵(国宝)。 桁行3間・梁間2間。 この建物は747年の「法隆寺資財帳」にでているそうだから、金堂・五重塔・中門・回廊とともに生え抜きの建物であるわけだ。 「妻」の構造は初見である(今まで気にとめていなかったから)。 2間の長さの梁である。 虹梁の特性をうまく利用している。 下の長い虹梁で柱を繋ぐとともに、垂直方向の力に強いことを利用して桁材を支えているわけだ。 虹梁が2重になっているので「二重虹梁」と呼ぶそうだ。 「斗(ます)」は通常は柱の上に置かれる。 柱の軸方向は強いから、だいたいが柱の真上に梁や桁を支える組物が置かれる。 図の「三斗(みつど 」がそうである。 下に柱がないときは、そう重いものを支えることはできない。 右図の「間斗(けんと)」は水平材の上に束(つか)を立て、斗(巻斗)を載せて桁や梁を支えるのだが、束の幅がせまいために束の下に集中して力がかかり、水平材が耐えられない。 水平材に接する面積を広げて、水平材にかかる力を分散すると、「束」よりも重いものを支えることができるようになる。 これが「蟇股」であるらしい。 「蟇股」の形はいろいろである。 経蔵を見上げる。 連子窓の上に「長押(なげし)」が見える。 長押は柱の外側から柱を押さえ、柱と柱を固定する水平材である。 長いほうの虹梁は隅柱の上の斗で固定されている。 短いほうの虹梁には蟇股が置かれ、• 蟇股の上の斗から肘木が出て、• 斗を載せて、• 棟桁を支えている。 垂木は「二軒(ふたのき)」である。 地垂木があって、• その上により角度が小さい「飛檐垂木(ひえん)」が載る。 「檐」とは軒の意味である。 伊東忠太や関野貞がかつて何度も訪れた法隆寺である。 彼らは法隆寺の何を見て、建築様式の研究をしたのであろうか。 明治20年代には、「日本建築史」を研究する人間は皆無であったし、学問としても確立されてなく、文献もなかったのである。 西側の回廊。 高低差がある斜面にあるから、垂直の縦材と斜めに傾いた横材を接合しなければならない。 という大変な作業になる。 静かだった境内が急にザワついた。 時刻は10:00である。 回廊の改札の場所に戻ると、小学生と中学生の修学旅行客であふれている。 これはいかん。 このあとも多くのものを見たのであるが、団体がドドーッとやって来て、ガイドさんの説明を聞き、終わったとたんに潮が引くように去っていくのである。 その場にじっといればまた一人二人の観光客だけに戻るのだが、10分もすれば次の大波がやってくる。 じっくり見ることはかなわなくなった。 今日は多くのものを見過ぎて消化不良である。 さらには宝蔵院で1時間ほど、仏像・工芸品・絵画・壁画・古文書を見たが、見るべきものが多すぎて、さらに印象が薄くなった。 ただそこには金堂の架構造の模型と五重塔の模型および雲斗雲肘木の現物があった。 これはつぶさに見た。 「法隆寺ハンドブック」に掲載されている年表によると• 昭和9年「昭和大修理」の起工式を行う。 17年 五重塔の解体修理を開始。 20年 金堂の解体修理を開始する。 24年 金堂壁画を焼失する。 27年 五重塔の修理が終わる。 29年 金堂の修理が終わる。 とある。 その後も各建物の修理を行い、「昭和大修理」が完成したのは昭和60年のことである。 修理だけで50年かかっている。 法隆寺を1日で見ようというのがどだい無理なことである。 5度6度と訪ねるべき寺であろう。 法隆寺南大門前の食堂で昼食をとって帰宅する。 案外に歩いており、万歩計は15700歩だった。 執筆:坂本 正治.

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放浪者が信じるもの|枯雲肘木|note

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寺院建築ー飛鳥時代 飛鳥時代の寺院建築は、現在残念ながら1棟も残っておりません。 飛鳥様式の建築は、「法隆寺」「法起寺」「四天王寺 昭和の再建 」などで拝観することが出来ます。 「明日香」の 地に、飛鳥時代の建築が残っていないのは、遷都と共に寺院が移築されたのと、新しい 都城の地に新寺院が建立されたりしたからでしょう。 現在、明日香の町並は、遺跡、住 宅が丘のような低い山々に囲まれた風景となっており、古さと新しさが調和して比類の ない落ち着きのある「古都」として皆さんから親しまれております。 飛鳥寺、四天王寺、法隆寺などの氏寺寺院の建立目的は、一族の繁栄を祈ると同時に、仏教がもたらしたものとして病気治療の薬がありましたので病気平癒を願ったものでした。 飛鳥時代には後の時代のような「国家鎮護」を祈願した寺院は存在しなかったようです。 「古墳から寺院建築」に変わったのが飛鳥時代で、ただ、我が国の寺院は異国の高度な 木造建築技術だけに頼って建立出来たものではないでしょう。 なぜならば、それらの建 築技術が請来以前に「出雲大社」の高層木造建築を仕上げた実績がありましたし、古墳の 土木技術も存在していたからです。 その証拠に、寺院建築の工期は、満足な建設設備や 道具が無かった筈なのに驚くほどの短期間で終えているのです。 飛鳥時代の尺度は、「高麗尺 こまじゃく 飛鳥尺 」と言われるもので一尺が35. ただ、一間は六尺 現在、尺貫法は使用禁止 ではなく、当時、尺貫法に関係なく寸法がいかに違おうとも柱と柱の間即ち「柱間」を言うので ありました。 ですから、今なら寸法が12尺なら2間となりますが当時は12尺と呼称 しておりました。 この柱間でありますが、西欧においては、柱と柱との間、即ち「柱間」は中央から端に いくに従って狭くしてあります。 この方式は構造上理にかなったやり方で、柱の最端は 力が外側に働き倒壊するのを防ぐ次の柱がなく、不安定となるので最端の柱間を、狭く して安定性を高める必要があるからです。 それにもかかわらず、我が国古来建築の柱間 が均等なのに保持出来ましたのは、大変な重量であった瓦葺屋根に比べて草葺屋根の荷 重は小さかったからであります。 法隆寺の金堂、中門の柱間は、中央と端と比べると大きな差となっておりますが時代 と共に柱間の差はだんだんと小さいものとなります。 しかし、鎌倉時代に禅宗様が将来 するとまた中央と端の柱間の差は大きなものとなります。 中国では「役所」を「寺」として仮使用したのがきっかけとなり、寺院建築が宮殿建築を 模倣いたしました。 その寺院建築の様式、構造が我が国の寺院建築並びに宮殿建築の様 式に応用されたのであります。 その物証としては、「法隆寺の玉虫厨子」も玉虫厨子と呼 ばれるようになったのは後のことで、厨子が小型の金堂そのものの建物造りであります ので当初より長き間「宮殿像」と呼ばれておりました。 この玉虫厨子が現在の仏壇の原型と言われておりますが「壇」と言うのであれば石か土 か木で造られたただの壇で囲いなどはなかった筈です。 当時、「七堂伽藍」といえば「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」でありますが 古代の七堂伽藍が健在でしかも総てが国宝というのは「 」だけです。 世界に誇れ、 歴史の重厚さを感じさせる「法隆寺」の佇まいは、柱上の組物に「雲斗」、「雲肘木」、建物 の装飾に「人字形蟇股」、「卍崩しの高欄」があり、飛鳥時代の特徴でもあります。 これら の特徴は法隆寺系の寺院だけに限られると言う後世には見られない貴重な遺構であります。 雲斗、雲肘木は東南アジアのどこにも存在せず、中国が起源である人字形蟇股、卍 崩しの高欄も中国には石窟 写真 に彫られたレリーフしか残っておりません。 垂木は地 垂木 じだるき と飛檐垂木 ひえんだるき の「二軒 ふたのき 」である筈なのに、何故か「一軒 ひとのき 」の長い角垂木であります。 当時の「釘」は鍛造のうえ、四角い楔 くさび に似た大きなものでありました。 現在の ような釘であれば、頭が飛べばそれで釘の役目が終わりとなりますが古代の釘は、分か り易く言えば、釘であるというより楔そのものでありました。 それだけに釘の寿命は数 百年以上否一千年もの長き間役目を果たしたのであります。 しかも、その釘も木組を締 める補助的な目的で建築に使用されたのであります。 このことは、建築にはなるべく釘 は使わない方が建物の保存には良いという考えからであります。 加工が楽である木材と言えば、針葉樹の「桧」や「杉」に限られてしまいます。 当時、適 材の調達は地元周辺で可能でしたが乱伐の結果地元調達が無理となり、遠方より調達し なければならなくなりました。 が、伐採して搬出するのには陸路では不可能といえる時 代で、それを可能としたのは桧や杉は水に浮き、水運を利用して運べる利点があったか らです。 それら以上に、桧の最大の特徴は、伐採してから300年くらい強度が増すという他の 建設材料では考えられない不思議な特質があるだけでなく、伐採後1000年くらいしても まだ伐採時の強度があるという理想的な材料であります。 ただ、当時は現在のように 「間伐」「枝打ち」などをすることが無く、木の生育の環境条件が悪かったことが逆に成長 が遅く年輪の目の詰まった、つまり年輪の間隔が狭い良質の桧が育つこととなりました。 しかもその中でも素直な木だけを選んで使用したのであります。 「柱」、「板」などを造るには、真っ直ぐな桧を「楔」で割る製材法でした。 このことは、 縦挽きの大鋸 おが これに屑をつけるとおがくずとなります を使うより、木材を楔で 割って造ることの方が案外手軽だったためかも知れません。 この製材法の良い点は、木 の繊維 木目 に沿って割るため、木の細胞に水などが入らないので腐ることもなく、し かも、出来た部材は歪が出ることがないことです。 縦挽きの鋸は、室町時代から使用されていたそうですが、それ以前、縦挽きの鋸がな かったのではなく、入手も可能だったし、造ることも出来たけれども、ただ当時の人が 使う必要性を感じなかったのではないかと考えますが。 もし我が国に、桧、杉の針葉樹が存在せず、耐久性はあるが桧のように真っ直ぐな柱 にならない欅、楢のような広葉樹が多く存在すれば、寺院建築様式が、大きく変わった ものとなっていたことでしょう。 ひょっとすると、「古建築のふるさと・法隆寺」も現存 しなかったかも知れません。 当時、寺院の形式は、中国スタイルの土間でありましたので古都奈良の寺院の多くは 今でも履物のまま入堂できます。 しかし、中国は今も椅子・テーブルの生活ですが我が 国では履物を脱いで座る生活に憧れ、後の時代には板敷きの床式寺院に変わっていきます。 それには、古代の神社が高床式の板敷きであったことも影響したのでしょう。 二重基壇 法隆寺 「基壇」とは基礎となる壇で、寺院建築では基壇をしっ かり造ることが大切でした。 と言いますのも我が国の古 代建築様式であった掘立柱方式では、柱が地面と接する ところで酸素と水分によって腐食が進み、20年くらいで 建て替えますが、寺院建築は長期保存を目標としたから です。 とはいえ、造成が大変で、昔、我が国の多くの平 野部が、湖とか海だったため地盤が軟弱で悪く、このこ とは、古都奈良も例外ではありませんでした。 大阪も上 町台地以外は海だったのか、ある時、ボーリング調査を やったところ貝殻が多く出たのをおぼえております。 法隆寺の基壇の造り方は、建物の底面積より大きめに、硬い地層の地山土 層 まで掘り、その掘った窪地に他の場所から持ってきた地山土を、版築を繰り返しながら埋め戻 します。 さらに地表から高さ1. 基壇の高さが1. 余談ですが、高床から土間に伏す臣下を見下したので目線の位置 から下が目下その逆が目上と言う言葉が生まれたのであります。 次に、基壇を壇上積で仕上げます。 その際使用された石は「凝灰岩」が多く、加工性は 良いのですが耐久性に問題があり後の時代には「花崗岩」に復原されております。 その凝 灰岩は装飾し易かったにもかかわらず、材料の石材には興味がなかったのか他の国のよ うに装飾は施されていません。 明日香の地には花崗岩の石造物が多いですが花崗岩の加 工は大変な手間を要しましたので「二上山」から産出する凝灰岩の使用が多くなっており ます。 二重 二成 基壇は法隆寺の金堂、五重塔、夢殿、玉虫厨子だけです。 「 」をご参照ください。 「柱」は太い円柱で、古代寺院建築ほど柱が太いのです。 それは、強度計算などの技術 や「貫」などの技法がなかったので必要以上に太い材料が使用されており、そのお陰でそ の雄姿を留めることが出来、今に伝えております。 西欧の石造建築に比べて地震が多い我が国では地震の揺れが吸収出来る木造建築が適 しております。 今でも中国や韓国の建築中の建物を見て驚かされるのは、我が国に比べ て鉄骨の細いことです。 それだけに、地震が少ない中国の建築様式全ての模倣は、我が 国の事情には合わなかったと言えます。 「五重塔」は台風で倒壊することはありましたが地震での倒壊は皆無に等しかったです。 それだけに、諸外国の建築が鉱物性の材料を使用したのに、我が国では木造建築主義に 徹しました。 木造文化である我が国では中国の宮殿建築の木造部分の基本だけを真似て 堂塔を建設したのは当然と言えましょう。 明治には西欧風の煉瓦作りの建物が出来まし たが地震で多くの煉瓦造の建物が倒壊しましたので、我が国には不向きということで廃 れてしまいました。 ただ、木造建築の苦い経験としては、わが国の住宅は、柔構造で木材と紙で出来てい ると言われたため、第二次世界大戦では破壊力のある「爆弾」でなく高熱を発する「焼夷 弾」を雨霰と落とされ大きな被害を被ったのでありました。 とはいえ、梅雨が過ぎると 高温多湿な夏季を迎える我が国では、煉瓦や石造りでは快適な生活が望めません。 その 点木材は通気性があり湿度調節が出来るという特質があり、我が国の気候風土に適した 材料と言えましょう。 しかし、いくら木造建築とはいっても、建物の保存のために雨の 掛かる外壁は防腐対策上塗装すべきですが、建物内部までニスやペンキで塗装すれば、 折角の木材の特質も台無しになることでしょう。 日 本 韓 国 当時の建物の色は青 緑 連子窓 、朱 木部 、黄 木口 の三色で、中国・韓国では極 彩色で装飾されておりました。 我が国では良質の桧、杉が得られましたので彩色はせず、 素木のままでの建築を望み、文様彩色はせず単色塗装としたのでしょう。 柱などに彫刻 を入れることなどは考えもしなかったようであります。 それに、洗練された簡素な美し さを求めたからでしょう。 さらに、日本人の潜在意識には素木も良いですが皮付きの黒 木も好む傾向があります。 当時、建築には桧の心材である赤身部分を使っていただけに、今、我々が見るような 白い辺材部分をも使用した白い木部の建築ではなく赤みかがった木部の建築だった筈で す。 素木の掘立柱、屋根は草葺の竪穴式住居に住んでいた人々にとって、中国の極彩色の 装飾に比べて簡素に仕上げたとはいえ、驚嘆を持って眺めたに違いありません。 しかし最近では、法隆寺のように堂塔伽藍が松林に溶け込んで古色蒼然としたものが 愛されるかと思えば四季の花に彩られた古びた伽藍さえも日本人は好みます。 また、枯 山水と堂宇の組合せが愛されたり、更には石庭だけを眺めるために訪れる方も多いよう です。 このような複雑な心境は日本人以外には理解されないでしょう。 建物の装飾彩色は剥落して色褪せしているのに愛着が感じられるのは、創建当初の建 物の姿があまり品があるとは思えないからでしょうか? 適切な例ではありませんが「百 済観音像」や「中宮寺の弥勒菩薩像」が、造像当初はこんな彩色の像でしたと復原写真を お見せすると皆さんがっかりした表情をされるので今ではお見せしないことにしており ます。 どうも現在の色褪せた仏像を眺めて逆に古代へタイムスリップすることを好んで いらっしゃるようです。

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雲肘木

本格的な神棚を設置するのが難しい場所にもコンパクトなサイズで和洋を問わず幅広いインテリアによく調和します。 雲型渦を彫り込んでいるデザインに魅了されます。 手彫りの魅力としてご理解くださいますようよろしくお願い致します。 サイズ 幅:最長15. 5cm(お札台の幅:8cm) 高さ:18cm 製造 日本製 秩父 鈴木木彫刻工房 お手入れ方法 表面は蜜蝋ワックスで塗装してあります。 柔らかい刷毛などで埃を払い、綿などのさらさらした布で軽くカラ拭きしてください。 お届けについて ひとつひとつが職人による手彫りとなります。 通常ご注文からお届けまでに約1週間から10日ほどお時間をいただきますが 注文が重なった場合はもう少しお時間をいただくこともございます。 あらかじめご了承くださいませ。 定形外郵便(無料)または宅急便(有料)での発送となります。 あらかじめご了承くださいませ。 あらかじめご了承ください。 作家プロフィール 鈴木 拓郎(すずき たくお) 1975年 埼玉県秩父市生まれ。 1994年 埼玉県立秩父農工高等学校卒業 富山県井波木彫刻工芸高等職業訓練校入学 1999年卒業 伝統工芸士 高田乾行氏に師事 1996年 第20回井波木彫刻訓練校展 訓練校長賞受賞 1997年 第48回富山県勤労者美術展 北日本新聞社長賞受賞 1998年 第22回井波木彫刻訓練校展 富山県知事賞受賞 2000年 独立 2004年 秩父にて鈴木木彫刻工房を開店 2005年 第52回秩父美術展 埼玉県知事賞受賞 2009年 宝登山神社 龍木鼻修復 2012年 秩父夜祭 中近笠鉾反り木修復 山梨県 宿願寺 漠木鼻制作 注意事項 商品の写真は現物を忠実に再現するように撮影しておりますが、お使いのモニタや環境によって実物と色味が違って見える場合がございます。 あらかじめご了承ください。 配送について お支払いが確定確認後、通常1〜2営業日で発送致します。 欠品、入荷待ちの商品は通常7日以内での発送予定となります。 万が一、メーカー欠品等で入荷が遅れる場合にはメールでご連絡させて頂きます。 商品の大きさ、数量、お届け先の地域によってゆうパケット 日本郵便 、 普通郵便 日本郵便 、レターパック 日本郵便 、ネコポス ヤマト運輸 、 宅配便 日本郵便、ヤマト運輸、佐川急便 のいずれかで発送致します。 配送会社のご指定はお受けできません。 住所の入力間違い、長期不在等による返品、再送の場合は往復の送料がお客様のご負担となりますのでご注文の際には予めご確認くださいますようお願い致します。

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