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アパルトヘイト犯罪条約(アパルトヘイトはんざいじょうやく)とは

アパルトヘイト

南アフリカの祝日、「和解の日/Reconcile day」とは? 12月16日は南アフリカの祝日。 もとは1838年、ズールー族がボーア人 白人 に敗れたブラッドリバーの戦いを記念した「誓いの日」。 1994年にアパルトヘイトが廃止されたことから現名に変更。 ボーア人は、今ではアフリカーンスと呼ばれるオランダ系移民が先祖。 アフリカ人というと、黒人の方をイメージしがちですが、 南アフリカでは黒人と白人のかたが共存しています。 ) 12月16日は、ボーア人が、それまで南アフリカを占拠していたを制圧した日。 Note about my culture December 16 is very important to us Afrikaans people… アフリカーンスの方はこう言っています。 Blood Riverでの闘いで多くの兵士を失ったボーア軍。 ズールー族の知恵を絞った戦術により、その戦いはかなり苦しめられたと聞きます。 血や涙を流し手に入れた自由、現在でもボーア人にとって忘れてはならない日であることは間違いなさそうです。 関連記事 そして、南アフリカはアパルトヘイトの時代へ その後、南アフリカ共和国は アパルトヘイト(人種隔離政策)により、白人主義社会に。 アパルトヘイト(Apartheid)は、アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する言葉で、特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する 人種隔離政策のことを指す。 かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて1948年に法制として確立され、以後強力に推進されたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。 このアパルトヘイトによって、 選挙権、居住区、就業(賃金格差)、教育の分野で差別がおこなわれました。 使用するトイレ、電車でさえも、人種別にわけられていたそうです。 人種間を超えた恋愛、結婚、性交渉も背徳法などの法律で禁止されていました。 (現在は撤廃されています。 ) アパルトヘイトの終焉、虹の国へ 1994年、ネルソン・マンデラ氏が主導となり全人種選挙が実施され、 アパルトヘイトは終焉をむかえます。 マンデラ政権が最も心を砕いたのは、アパルトヘイト体制下での白人・黒人間、またインカタ派とANC派などといった対立をいかにして収め、全人種を融和させるかということであった。 そのため、それまでの国旗に代わり、6つの原色に彩られた新国旗に象徴される「虹の国」を掲げ、新国歌を制定することを手始めに、様々な手を打っていった。 ネルソン・マンデラ大統領(当時)が掲げたのは、 「彩の国/Rainbow Nation」。 様々な人種、言語、文化が共存する、 南アフリカならではの標語であると思います。 白人主義社会が解体され、新しい南アフリカ共和国が動き出しました。 現在、南アフリカ人(白人)が今考えていること 私はいま、南アフリカ人(白人)の高校生と連絡をとっています。 歴史やズールーの人々に対する話や考えを話してくれるので、それをまとめていくつか紹介したいと思います。 南アフリカ人(白人)の考え方やその現状を知るきっかけになりました。 母語がなくなるかもしれないという寂しさ 南アフリカ人(白人)の母語は、アフリカーンス語。 ほとんどの人が英語も喋ることができますが、彼らはアフリカーンス語が母語であるということに誇りを持っています。 アパルトヘイト時代に共通語として使用されることが掲げられてきましたが、 アパルトヘイト廃止により実質的に英語がその座に。 アフリカーンス語は、現在でも使用されている言語ではありますが、 社会的にはほとんど使用されない言語となり、話者が減ってきているようです。 悲しいことに、近い将来、私の母語がなくなるかもしれない。。。 南アフリカ人 白人 に『何か伝統的なものはありますか』と聞いたら『私たちにはない』と返ってきた。 日本人にとって自分の国に独自の伝統や文化があることは自然で、あることが当たり前のように感じるけど、そういった独自のものがあることは実は貴重で、他の国から見て日本は魅力的に見えている — きたむ 南アフリカ🇿🇦 wakajps 南アフリカ人 白人 に『何か伝統的なものはありますか』と聞いたら『私たちにはない』と返ってきた。 日本人にとって自分の国に独自の伝統や文化があることは自然で、あることが当たり前のように感じるけど、そういった独自のものがあることは実は貴重で、他の国から見て日本は魅力的に見えている 教育現場で白人に向けた逆差別が起きている? 上にも関係しますが、アフリカーンス語は、アパルトヘイトを象徴するものでもあるという考え方から、 学校などの教育現場で、アフリカーンス語を使用しないようにするという動きがあるようです。 何者かの支配によって自分の母語が取り上げられているという感覚、彼女は言っていました。 学校や公的な場で、アフリカーンス語が使われなくなってきてる。。。 黒人はトラブルメーカー? 私がに乗ったことがあると報告をしたときに、とても驚かれたときがありました。 危険すぎる、冒険しすぎだと。 別のタイミングで、「乗車したら酔っ払いが少しうるさかった」と伝えてみると、「ズールー人はマナーが悪いし、いつも大声で騒いでる…」との返事。 南アフリカでは、白人の農家がターゲットとされた殺人事件、黒人によるストライキの決行が相次いでいることもあるかもしれませんが、 根に持ったようなネガティブな発言が印象的でした。 南アフリカ人(黒人)はどう見ているのか アパルトヘイトが廃止されて、23年。 そんなに昔の話、というわけではありません。 アパルトヘイトを経験した世代はまだ多く残っています。 そんな彼らから聞いたのは、「ヨハネスブルグやプレトリアはまだ白人社会が残っているような気がしている。 」、「今いるクワズールーナタール州が一番居心地がいい」という話。 やプレトリアは、アパルトヘイト廃止以前に、多くの白人が居住していた地域。 今でもその名残があり、その地域の人口のほとんどが白人。 一方で、クワズールーナタール州は、ボーア人が占拠してくる前に、ズールー族が拠点としていた地域。 この地域では、ズールー語が母語として使われています。 黒人にとっては、 「白人の人々に対してやや構える」という考えが、まだ少なからずある印象です。 関連記事 アパルトヘイトが残した爪痕は根深い 爪痕はそんなに浅いものではない、と私は感じています。 白人、黒人にとっても。 いつになったらそれがなくなるかもわかりません。 私から見ると、白人にとって、 「自分自身が南アフリカ人であるというアイデンティティーを持つこと」が難しいようにも思えます。 もちろん、国籍でいえば彼らは南アフリカ人なのですが。 それは、人種だけではなく、言語や文化などの様々な側面から、じわじわと彼らをそう思わせているようにも感じます。 私はどちらの味方、賛同するわけでもなく、彼らの話を聞いています。 彼らはアジア人の私に思ったことを包み隠さずに話してくれます。 (アジア人は第三者的な立ち位置) そんな彼女が言っていた言葉で、とても印象に残っている言葉があります。 私は、はやく南アフリカを出たい。 私たちは、日本のように誇れる言語や文化を持っていない。 自分の先祖がやってきた歴史を知ることで背徳感を感じることもある。 せめて安全な場所で安心して暮らしたい。 私は返すための適当な言葉を見つけることができませんでした。 私が実際に話を聞けたのは彼女一人。 彼女が白人の代表をしているわけでもなければ、白人のかた全てがこのように思っているわけでもありません。 それでも一人でもこのように感じている人がいるという事実。 アパルトヘイトが終焉をむかえ23年。 今年も人々は今日の「和解の日」を祝う。 南アフリカの歴史はとても複雑、かつ時代の移り変わりが早いように思えるし、それぞれの人種からの目線でもその時代の見方が異なっている。 アパルトヘイトが終わって20年経つけれど、現地の人たちの話を聞く限りではまだ移り変わっていく過程の段階だと思ってる。 — きたむ 南アフリカ🇿🇦 wakajps 南アフリカの歴史はとても複雑、かつ時代の移り変わりが早いように思えるし、それぞれの人種からの目線でもその時代の見方が異なっている。 アパルトヘイトが終わって20年経つけれど、現地の人たちの話を聞く限りではまだ移り変わっていく過程の段階だと思ってる。 以上、きたむ( )でした。 関連記事 アパルトヘイト関連映画 マンデラの名もなき看守 南アフリカで刑務所の看守として働くジェームズ・グレゴリーがロベン島の刑務所に赴任した1968年、アパルトヘイト政策により、反政府運動の活動家の黒人が日々逮捕され、投獄されていた。 グレゴリーはそこでネルソン・マンデラの担当に抜擢される。 黒人の言葉・コーサ語が解るので、会話をスパイするためだ。 妻のグロリアは夫の出世を喜び、順風満帆のようだった。 だがマンデラに初めて会った時から、グレゴリーは特別な印象を抱き始める。

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アパルトヘイト政策 人種隔離政策 黒人居住区というものが何なのかを説明する前に アパルトヘイト政策を理解しなければいけないので先に説明しておきます。 理解しているよー!って人は次の見出しまで飛ばしてください! 以下、より引用。 アパルトヘイトとは、アフリカーンス語で「分離、隔離」の意味を持つ言葉で、特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。 一言で言えば 人種隔離政策の事。 じゃーその政策って実際にどんな政策だったのか? あり過ぎて全てを書くことは出来ないので、分かりやすいものだけをいくつか紹介します。 ・選挙権は白人だけ ・人種の違う男女が結婚することは禁止された ・黒人は白人が経営する農園や工場で働き、白人は黒人の6倍~21倍の給料を得ていた ・白人と黒人の居住区や生活圏を法律でハッキリと分けた ・黒人は約2500万人、白人は490万人程度であった ・白人居住区に入った黒人はもちろん、黒人居住区に入った白人も厳しく罰せられた ・白人生徒一人当たりの教育予算は、黒人生徒の10倍だった ・黒人だけ義務教育ではなかった ・黒人の教育を低レベルなものへと押しとどめる「バンツー教育法」が成立 ・共学(男女共学ではなく白人と黒人の共学を指す)は禁止された ・バスは黒人用、白人用で分けられ、停留所も別にされた ・公衆トイレ、公園、映画館、レストラン、ホテル、電車、、、公共施設はすべて白人用と白人以外に分けられた ・病院も不十分な施設しかない黒人用と施設の整った白人用に分けられた ・白人専用の施設に立ち入った黒人はすぐに逮捕された これだけ挙げてもほんの一例。 非白人は無数の法律によって日常生活の隅々まで差別されていたのです。 しかも・・・ 「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。 それぞれの民族が独自に発展するべきだ。 アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」 というように 「多文化主義による合理的な政策である」と主張されていました。 ちなみに日本人は・・・? 南アフリカの大きな貿易相手であった日本人は 「 名誉白人」として差別待遇を免ぜられていたそうです。 南アフリカのタウンシップ 黒人居住区 って? 上に書きましたが、 アパルトヘイト政策によって 黒人は住む地域が決められていました。 産業地盤の乏しい限られた地域に押し込められていたのです。 この地域の事を タウンシップと呼びます。 ヨハネスブルグ近郊の ソウェトが一番有名ですが、 南アフリカの中には こういった地域が無数に存在します。 だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、喜望峰の帰り道にたまたまこのタウンシップを見つけ、立ち寄って見る事にしたのです。 次の写真がその入り口の写真。 「RED HILL」と書かれていました。 周りにはなーーーんにもありません。 山の中にポツリとこの地域が存在するので車で走っていれば絶対に気付きます。 バラックが所狭しと立ち並び、静かでちょっと近寄りがたい雰囲気。 今考えれば、ずいぶん危ない場所に行ったなと、そう思います。 別に何かあった訳ではないんですが、歴史的背景を考えれば軽い気持ちで行くところではないですよね。。。 「タウンシップツアー」と言ってしっかりガイド付きで行く事もできますので、ガイドを付けて行く事をオススメします。 宿などで申し込み可。 このツアーは先ほど紹介したヨハネスブルグ近郊のソウェトでも催行されているので、このあとヨハネスブルグでツアーに参加する予定です。 このブログを見て軽い気持ちで「行ってみよー!」ってならないでくださいね。 なので今回はあえて場所は書きません。 でも僕らが行った時は、危険な事は何もなくて、ガイド付きで行く観光化されたタウンシップでは感じ取れない雰囲気を体感できたと思います。 ちょっとビビッた事と言えばヤンチャな子供達に車を囲まれた事くらいかな?汗 普通に可愛かったですけどね。 このアパルトヘイト政策は1991年に ネルソン・マンデラの活躍で撤廃が決定。 ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ 南アフリカ共和国の政治家、弁護士である。 若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。 27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。 翌1991年にアフリカ民族会議の議長に就任。 デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。 1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て大統領に就任。 民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画を実施した。 1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。 より しかしそれから24年が経った今も、こうしてここでしか生活を送る事が出来ない人がたくさんいるんですね。 以上、南アフリカの タウンシップ 黒人居住区 についてでした。 LINE公式アカウントでブログの更新情報を受け取れます。

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「スウォンジーの闘い」と呼ばれる、デモ参加者に対する暴力事件は、何百人ものけが人と逮捕者を出した。 それからちょうど50年後、シヤ・コリシ選手が日本で、。 スプリングボクス(南アフリカ代表)は、南アフリカの白人コミュニティーのプライドを象徴する存在だった。 1969年には、黒人選手がキャプテンになる可能性を検討することはおろか、想像する人などほぼ皆無だった。 国家体制としての差別制度のもと27年間を刑務所で過ごしたネルソン・マンデラ氏は当時、5年目の獄中生活を送っていた。 前年には、イングランドがクリケットチームの南アフリカ遠征を中止していた。 異人種の間に生まれたバジル・ドリヴェイラ選手の入国を、南アフリカが拒んだことが理由だった。 Image copyright Getty Images Image caption 南アフリカのクリケットチームのイギリス遠征をやめさせようと多くの人が抗議した それだけに、黒人を排斥した南アフリカのラグビーチームがイギリスに向けて出発すると、これを妨害しようとする抗議者が押し寄せた。 「手荒い出迎えを受けるとは思っていた。 でも、あれほど見事に組織化されているとは考えなかった」と、南アフリカチームの副キャプテンだったトミー・ベッドフォード氏は言う。 「自分たちの国やスポーツ界では、あの手のデモへの対応を迫られたことは一度もなかった。 だから、楽な遠征になるとは思っていなかった」 「それでも、南アフリカの白人コミュニティー出身の30人が他国の事情を知れば、帰国後に『この国でもそうするべきだ』と言うのではないかと、強く感じていた」 Image caption 反アパルトヘイトの抗議活動をしていたピーター・ヘイン氏(マイクを持っている人)は、南アフリカの白人コミュニティーの一部から「裏切り者」と呼ばれた 抗議行動の先頭に立ったのは、当時19歳の学生だったピーター・ヘイン氏。 いずれ英首相となるエジンバラのゴードン・ブラウン氏も手伝った。 このグループは、南アフリカのクリケット選手たち(翌年に遠征が予定されていた)に一歩もイギリスの地を踏ませないと固く決心していた。 そのため、大騒ぎを起こしてやろうとしていた。 世界は徐々に、アパルトヘイトの恐ろしさに気づき始めていた。 しかし、ラグビー界はそうした声に耳を貸さなかった。 「率直に言って、反アパルトヘイトの抗議者と選手、観客たちの間の、互いに聞く耳をもたない対話だった」と、現在は貴族院(上院)議員になったヘイン卿は振り返る。 「私たちは選手たちに、君たちは世界で最も邪悪で人種差別的な体制に協力しているのだと、言い聞かせようとした。 けれども選手たちは、試合を妨害しているだけだと受けとめ、私たちをひどく憎んだ」 Image copyright Alamy Image caption ハイウェル・フランシス氏は「軍隊式の作戦だった」と当時の警察の取り締まりを振り返る 、レスター、ニューポートにおける開幕戦でも、デモが繰り広げられた。 しかし、転換点となったのはスウォンジーでの試合だった。 デモ隊は市の官庁街を問題なく通り過ぎた。 ところが、セントヘレンズ・ラグビー場の入り口に来ると一変した。 「みんなデモに参加するのはとても大事だと思っていた。 穏やかでみんな楽しそうだった」と、メア・フランシスは思い起こす。 「そうしたら、命令を受けた警官隊が私たちの間に入ってきて、観客席と反対の防波堤へと追い込んだ」 「みんなヒステリックになって、警官隊に押すなと叫んだ。 息ができなかったから。 男の子の中には、壁を登って私たちを引き上げてくれた人もいた」 Image copyright Family photo Image caption メア・フランシス氏は、当時の状況について「恐ろしかった」と語った ラグビー場の中では、選手たちが人生最大の試合(何人かにとっては)を前に準備していた。 抗議の大音響は、選手たちを動揺させた。 「キャプテンの私も、チームの他のみんなも、クラブも、それにラグビー全体も、このモラルの問題を無視することを選んだ。 それが本当のところだった。 もしこの態度をいま見せれば、私は娘たちに批判されるだろう」と、スウォンジーのキャプテンだったスチュワート・デイヴィース氏は話す。 「モリー・エヴァンス監督と私は、選手たちを更衣室に連れて行って落ち着かせたかった。 抗議の騒音はものすごかった」 「試合中はずっと、グラウンドに奇妙な緊張感が漂い、私たちは全員その影響を受けた。 スプリングボクスはこの経験で悲しい思いをしたと言える」 Image copyright Alamy Image caption スチュワート・デイヴィース氏は「いったい何が起きているんだと、みんな戸惑った」と話す 反アパルトヘイト運動は、スポーツを政治で汚したと批判された。 それでも、試合後半の早い時間に、抗議者たちはピッチにどっとなだれ込んだ。 芝の上に寝そべっておとなしく反抗し、試合を中断させた。 このとき、警察を助けるためにクラブが雇った「番人」の残酷な振る舞いは、世界中の話題になった。 「スウォンジーは、特にたちが悪かった。 そのせいで、重大事件になってしまった」とヘイン氏は言う。 「抗議者はピッチから番人のところへ連れて行かれた。 彼らは抗議者を徹底的に痛めつけるため、クラブに雇われていた」 「友人のあごが折れたのを見たときはショックだった。 失明しそうな女性の抗議者を見たときも」 Image copyright Getty Images Image caption 当時内相だったジェイムズ・キャラハン氏は、セントへレンズ・ラグビー場での「番人」たちの役割を批判した 「世話人(番人)たちが果たしてどれだけ有益なのか、検討していただきたい」とキャラハン氏は議会に告げた。 「スウォンジーでの彼らの行動は、世間で大きな議論を呼んだ」 この後、さらに大規模のデモが続いた。 どの試合も、暴力と厳重な取り締まりの雰囲気の中で開かれた。 それでも、スウォンジーでみられたような暴力が繰り返されることはなかった。 当時の様子を目撃し、後に国会議員になったハイウェル・フランシス氏は、スウォンジーの出来事は「典型的なものではなかった」と言う。 「初めは私たちの抗議活動はあまり理解されなかった。 暴力沙汰でメディアが注目するようになり、後世に語られるようになった」 「まさにあの時、人々は気づき始めた。 進歩的な人が黒人への連帯を示すだけでなく、南アフリカに抗議する世界的な運動になっていった」 「私たちがやったのは、とても小さいことだったが、自分たちにやれることをした。 ラグビーは大事だ。 だが、人権より大事なわけではない」 Image copyright Getty Images Image caption ネルソン・マンデラ氏は1994年に南アフリカの大統領に選ばれた。 同国がラグビーワールドカップで歴史的な優勝を果たす前年だった マンチェスターとアバディーンでも大規模なデモが起きた。 一方、ベルファストの試合は中止された。 ロンドンでは、イングランド戦当日の朝、スプリングボクスの選手たちのバスを、抗議者の1人が「ハイジャック」する事件すら起きた。 「警察の規制線と有刺鉄線の中でずっと過ごしていた。 バスがハイジャックされても、どうってことなかった」とベッドフォード氏は言う。 「誰も私たちを守ろうとしなかったのは、ショックだった。 チーム首脳陣は何も言わなかったし、(地元のチームも)怖気づいて黙っていた。 私たちを擁護するのは簡単ではなかったのはわかるが、その場にいる権利を守ってくれてもよかった」 Image caption ウェールズの反アパルトヘイト運動は当時、世界で「最も効果的な部類」と言われた ネルソン・マンデラ氏が収監されていたロベン島の刑務所には、外の世界のニュースはいっさい届かないはずだった。 しかしそこにも、この出来事は伝わった。 スプリングボクスのサポーターの刑務官たちが、激怒していたのだ。 「看守たちはネルソン・マンデラ氏と彼の同志たちに八つ当たりした。 しかし、それによって自分たちが実は何をしているか、気づいていなかった。 八つ当たりすることで、看守たちはマンデラ氏たちに特別なことを伝えていた。 マンデラ氏らの自由を求めて、何千人もの人が抗議しているのだと」と、ヘイン卿は話す。 「反アパルトヘイト運動の暗黒時代だった当時、おかげで大いに士気が高まったと、彼は言っていた」 Image copyright Getty Images Image caption トム・ベッドフォード氏(右から2人目)は、自国のアパルトヘイト政権を批判する立場を鮮明にした ベッドフォード氏がこのわずか2年後に、国際試合から早すぎる引退をしたのは、その反アパルトヘイトの姿勢が原因だったとみられている。 南アフリカ・クリケットチームの1970年遠征は中止された。 これを皮切りに、サッカー、クリケット、オリンピックなどのスポーツで、南アフリカの代表チームや選手を排斥する動きが拡大し、それは25年間続いた。 ベッドフォード氏はその後、国外追放されていたアフリカ民族会議(ANC)と共に1987年の歴史的なダカール会議に出席。 政府に逆らうことになる。 その後、南アフリカ政治の根本を変化させるための基礎づくりに取りかかり、それがついには、アパルトヘイト政権の崩壊につながる。 あの大変な遠征からちょうど50年目に、「考えられないこと」が起きた。 南アフリカのラグビー史上で最初の黒人キャプテンが、スプリングボクスを最高の栄誉へと導いたのだ。 Image copyright Getty Images Image caption 50年後、南アフリカのラグビーで最初の黒人キャプテンとなったシヤ・コリシ選手が、ワールドカップを手にヨハネスブルクに戻った 反アパルトヘイトの抗議者たちにとって、それは自らの努力が「正しかったと実感できるもの」だった。 「私たちは50年前、まさに日本で見られた光景のために抗議した。 いろんな人種の人がいるチームを、貧困地域出身の黒人キャプテンが率いた。 そのキャプテンは子どものころ、次の食事にありつけるかもわからず、ましてや次にラグビーができるのはどこなのかもわからなかった」 フランシス氏はさらに、こう言う。 「ワールドカップ決勝を見ていたら涙が出た。 そして、あの恐ろしい制度を壊すのに少しは役立ったと思うと、誇りも感じた」 (英語記事 ).

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