田畑政治 子孫。 東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝

田畑政治は浜松からどう世界に飛び立った?19年大河主役の生い立ち

田畑政治 子孫

スポンサーリンク 田畑政治の経歴、生まれた街は静岡県浜松市! 大河ドラマ の後半の主人公の 殿は 出身なのを知っておったかの? である田畑殿ゆかりの地として、ツイッターを始めたのじゃ! ぜひご覧くだされ~ フォローもしてくれるとうれしいのじゃ(こそっ) — 出世大名家康くん【公式】 ieyasukun100 田畑政治が生まれたのは… 海に山、川に湖…豊富な自然に囲まれた浜松市。 浜松といえば、 浜松餃子に浜名湖うなぎ。 美味しいものがたくさん…あげているとキリがなくお腹すいてきます。 魅力的な街ですよね。 出世大名家康くんもつぶやいちゃうほど浜松では大切にされている田畑政治さん。 どんな人物か気になってきませんか。 後に偉業を成し遂げる田畑政治は、浜松の地でどんな日々を過ごしたのでしょう。 素敵な街で育った 田畑政治の生い立ちに追っていきましょう。 田畑政治、浜松一中 現在の浜松北高校 でエース級スイマーに!しかし、若くして夢破れる… さんの生家跡、造り酒屋「八百庄」。 現在の成子町セブンイレブンのところ。 — きすけ🐣 kisukepiyopc 1898年(明治31年)12月1日、浜松町成子(現在の静岡県浜松市中区成子)にて田畑政治は田畑家の次男として誕生します。 田畑政治の生まれた家は、浜松市中区の造り酒屋「八百庄商店」という、かなりの資産家。 父の田畑庄吉は議員も務めていた高額納税者でした。 大富豪の息子、生粋のお坊ちゃまとして幼い時を過ごします。 田畑政治の生家跡は、とても広く、現在はコンビニになっているそうです。 浜松一のお金持ち・地元の名士の家系に産まれ何不自由ない恵まれた生活…しかし、 政治は幼いときから体が弱く、30歳まで生きられないと言われていました。 母・うらは、そんな政治を心配し環境のいい舞阪町弁天橋あたりの別荘で夏休みや冬休みは過ごすようになりました。 母心感じます…政治が大切に育てられてきたというのがエピソードからも伝わってきますよね。 彼は、その浜名湾でよく泳いでいたそうです。 政治にとって「泳ぐこと」は、体を鍛えるためでもあったかもしれません。 幼いころからの水泳経験がみごとに開花します。 浜松一中(現在の静岡県立浜松北高等学校)の「遠州学友会水泳部」では、政治は1、2を争うエース級のスイマーだったそうです。 しかし、田畑政治は浜松中学校(現在の浜松北高校)4年生のときに、慢性盲腸炎と大腸カタルを併発。 医師から「泳いだら死ぬ」とまで言われるほど重篤な病状に陥ってしまいます。 水泳選手としてこれからだった 政治青年は、泳ぐことを諦めなくてはならなくなり ました。 泳ぐことが生きがいだった様な青年は、一瞬にして選手として水泳できなくなってしまいました。 彼は辛かったにちがいありません。 ところが、この田畑政治という人は「ここから」がスゴイのです。 学ぶべき、マインド切り替えの「切り替えスイッチ」、彼には生きる強さがありました。 水泳指導者として生きることを決めた田畑政治。 浜名湾から世界に通用する選手を! 競技者としての道が断たれた田畑政治でしたが 「それならば指導者としてNo. 1を目指そう」と後進の指導に力を入れていきます。 境遇に負けず精力的に活動していきます。 そして着実に結果を出していくんです。 ひとを導く…田畑政治の「偉大なガキ大将」という異名はここから生まれたのではないでしょうか。 田畑政治は、天性のポジティブシンキングの持ち主なんです。 これから起こる困難にも、彼の前向きな思想が活きてきます。 もしかしたら、歴代大河ドラマで一番前向きなキャラクターかもしれません。 ・地元の 浜松中学校の後輩を育成、その後輩たちが地元の水泳大会で優勝 ・周辺の水泳部の活動を盛り上げるため1916年(大正5年)8月、 「浜名湾遊泳協会」を組織。 ・1921年(大正10年) 水泳全国大会の開催を企画、実現。 浜名湾北弁天島に会場となる幅30m、長さ100mの海水プールを設置。 田畑は東京帝国大学(現在の東京大学)に進学。 しかし、「水泳で浜名湾を一番に…」という志を忘れず、休みには地元・浜名湾に戻り、後輩の指導と水泳の普及に務めていきます。 大阪の強豪校がいち早く取り入れていた クロール泳法を、「浜名湾遊泳協会」にも導入。 2年後の 1923年(大正12年)「浜名湾遊泳協会」が悲願の日本一となります。 日本No. 1の浜名湾のチームを育てあげます。 政治の野望は、日本No. 1にしただけにはとどまりませんでした…次は世界、世界のNo. 1にという新たな目標を目指します。 若くして、 組織をまとめ上げ運営するという才能を発揮。 すごいですよね。 学生をしながら休日に後輩の指導も行うなんて、強い意志がなくては成し遂げられません。 強豪校から学んで指導法を取り入れる柔軟さ、海水プールまで作ってしまうバイタリティー、大正のアツい男・田畑政治なくしては、日本水泳の未来はありませんでした。 田畑は、 朝日新聞社政治部に配属され政友会担当となり、有力政治家に顔を知られるようになります。 戦後に首相となる鳩山一郎にも目をかけられ懇意にしていました。 田畑政治の行動はすべて「日本の水泳を世界レベルに!」という目標へと突き進みます。 名だたる政治家たちとのパイプを作りながらも、休日は後進育成のために浜名湾へ…彼は、すべての行動に微塵もブレが無いんですよね。 世界との戦いを考えると、おのずとオリンピックが視野に入ります。 田畑政治はいよいよ「五輪」へと焦点を合わせていきます。 田畑政治、世界へ。 「オリンピック第一主義」を掲げ、アムステルダムオリンピックとロスオリンピックへ! 『いだてん』第2部の新キャスト7人発表 斎藤工、林遣都、トータス松本らが出演 ORICON NEWS 大東駿介は、1928年アムステルダムオリンピックの200メートル平泳ぎで、日本水泳界初の金メダルを獲得した鶴田義行を演じる。 — かよりん kayorinrin 日本も1912年(明治45年)に金栗四三や三島弥彦が初参加したストックホルムオリンピック以降、近代オリンピックに注力するようになりました。 それは、田畑政治の描いていた志に合致していきます。 田畑政治は明確に目標を定めて 「オリンピック第一主義」を掲げ、1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピック(オランダ)を目指します。 アムステルダム五輪では、男子200m平泳ぎ・鶴田義行が金メダルを獲得するなど、 水泳日本が世界に通用することが証明されます。 その後の政治の快進撃は目を見張るものがありました。 まさに田畑政治は指導者として教え子たちを次々と世界進出させていきます! 1929年(昭和4年)「大日本水上競技連盟(現在の日本水泳連盟)」の事務理事に就任。 1930年(昭和5年)「大日本体育協会(現日本スポーツ協会)」の専務理事にも就任。 とうとう田畑政治は水泳指導者としての功績が認められ、 日本水泳の指導のトップに立つのです。 1932年(昭和7年)ロサンゼルスオリンピック(アメリカ)で選手団団長に。 水泳日本代表総監督も兼務、世界の舞台へ日本競泳選手団を送り込みます。 ロス五輪での【日本全体のメダル数】は、金:7メダル、銀:7メダル、銅:4メダル。 その中での【水泳の獲得メダル数】は、金:5メダル、銀:5メダル、銅:2メダルなんです。 ロサンゼルスオリンピック日本競泳選手は好成績でした。 アメリカへ渡った日系人達は、田畑率いる日本チームのこの結果に勇気づけられたのではないでしょうか。 スポーツの感動は、人にパワー与えてくれますよね。 「いだてん」で、キリッとした面持ちの大東駿介さんが、水泳界のスターである、アムステルダム五輪の男子200m平泳ぎ金メダルリスト・鶴田義行さんを演じます。 激動の時代、田畑政治と幻の東京オリンピック。 — 2019年 4月月23日午前7時10分PDT 1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック(ドイツ)で水泳日本代表監督を務める。 ・競泳日本代表獲得メダル数…金メダル4、銀メダル2、銅メダル。 1937年(昭和12年)日中戦争(1937年7月7日の盧溝橋事件が端となった)、国際的に非難を受けた日本は孤立状態に陥る。 1940年(昭和15年)東京で開催予定だった 東京オリンピックが中止にオリンピック開催権返上…東京五輪の代替え開催予定だったヘルシンキ五輪も第二次世界大戦により中止。 1944年(昭和19年)ロンドン開催予定だった五輪も戦争により中止。 1948年(昭和23年) ・日本水泳連盟の会長に就任。 ・ロンドンオリンピック参加を断られる。 ロンドン五輪と同日に水泳の日本選手権決勝を行う(日本水泳のレベルを世界へ知らしめるため)。 1949年(昭和24年)日本の国際水泳連盟(FINA)への復帰に尽力。 ベルリンオリンピックの頃から、世界の状況は厳しいものになっていました。 もちろんスポーツも例外ではなく、直接的にオリンピックも戦争の煽りを受けていきます。 特に 1940年(昭和15年)に開催予定だった「東京オリンピックの中止」は、開催に向けて前進全霊を尽くしていた田畑政治にとって、辛かったことでしょう。 このショッキングな出来事は、「幻の東京オリンピック」といわれ今でも語り継がれています。 戦時下の日本ではスポーツは統制に害を及ぼすとして禁止され、各種統括団体は解散させられます。 しかし、田畑政治は日本水上陸上競技連盟を解散せずに温存します。 戦後も、田畑はGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーに働きかけ、ロサンゼルスでの水泳大会に遠征する許可を得るなど、精力的に活動していきます。 このことがきっかけで日本は再び国際舞台で活躍できるようになりました。 苦難は続きます。 敗戦国である日本は、ロンドン五輪の参加が認められませんでした…めげない田畑は、ロンドン五輪の競泳と同日程で日本選手権を開催。 なんと、 古橋廣之進・橋爪志郎がロンドン五輪金メダリストの記録を上回るタイムをたたき出します。 水泳日本の実力を世界に知らしめるための策でした。 不屈の精神で、前向きなアクションを起こし続ける田畑政治の凄さがわかるエピソードですよね。 1964年(昭和39年)の東京オリンピックは、この幻のオリンピックとロンドン五輪の不参加の雪辱がなければ開催されることはなかったかもしれません。 「いだてん」でこのできごとが、どの様に描かれるのか興味が湧きますよね。 オリンピックレガシー田畑政治と戦後のオリンピック。 再び東京オリンピック招致へ! — 2019年 1月月6日午前2時43分PST 1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック(フィンランド)の日本選手団団長を務める。 1956年(昭和31年)メルボルンオリンピック(オーストラリア)の日本選手団団長を務める。 「東京でオリンピックを!」という田畑の想いは強いものになっていきます。 初志貫徹の男・田畑政治は 悲願の東京オリンピック招致に奮闘! デトロイト、ウィーン、ブリュッセルという他の有力候補もいましたが… 1964年(昭和39年)東京オリンピック開催が決定します!ついに日本にオリンピックがやってくることになりました。 このすばらしいニュースに日本中が歓喜、日本人に活きる活力を与えます。 田畑政治は オリンピック組織委員会の事務総長に就任。 そして、 柔道とバレーボールをオリンピック正式種目にします。 東京オリンピックで大活躍した日本女子バレー代表「東洋の魔女」の金メダル獲得は有名ですよね。 輝かしいその背景には、 「オリンピックレガシー」と呼ばれる田畑政治という1人のアツい男の姿があったということを忘れないでいたいです。 晩年の田畑政治、田畑政治の子孫は? ロサンゼルスオリンピックの翌年の 1933年(昭和8年)に、田畑政治は35歳のとき菊枝と結婚します。 彼には、娘さん2人と息子さんが1人、 一男二女に恵まれたそうです。 長女・治子さん、次女・醇子さん、長男は和宏さん。 特に長男の田畑和宏さんは、NHKに勤務され、NHK理事を退任後は、関連企業に務められたそうです。 NHK交響楽団のピンチ打開をはかるなど、 父譲りの逆境に負けない精神で、楽団を支えたといいます。 父の背中をずっと見てきたからなのでしょうか、どことなく和宏さんに田畑政治イズムを感じますよね。 東京オリンピック後、 田畑政治は1973年(昭和48年)日本オリンピック委員会(IOC)の会長に就任しています。 田畑政治は、1980年代よりパーキンソン病を患い、車椅子生活を送るようになります。 1984年(昭和59年)のロサンゼルス五輪直前には一時危篤状態に陥りましたが奇跡的に回復。 テレビでロサンゼルス五輪を観戦し、涙を浮かべたといいます。 そして、 五輪閉会から2週間後、87歳の田畑政治は病院にて息を引き取りました。 このエピソードは、胸にグッとくるものがありますよね。 オリンピックと共に生きた男は、最期に観た五輪に何を感じたのでしょうか。 「いだてん」で田畑政治を演じる俳優は? — 2019年 5月月18日午後4時18分PDT もちろん 「いだてん」の田畑政治役は阿部サダヲさんなのですが… もう2人、話題となっている田畑政治役の俳優さんがいることをご存知でしょうか。 田畑政治さんの幼少期と青年期を演じる俳優さんがいま話題となっているんです。 阿部サダヲさん同様、ユニークなキャスティングなんですよ。 幼少期と青年期を演じる俳優さんを紹介します。 丸メガネで利発な感じが母性をくすぐるようで、 世の奥様たちがこぞって「可愛い」と話題にしているんですよ。 実はもう1人、田畑政治を演じる俳優さんが…青年期担当の俳優さんも世間をざわつかせています。 「似すぎ~!」と巷がざわついています。 偉大な人物・田畑政治を演じる俳優さんも注目度高い3人でしたね!それにしても原さん、笑っちゃうほど阿部サダヲさんに似てますね~どんな演技をされるのか、期待値高まります。 いまから本当に楽しみですね。 【まとめ】田畑政治の経歴や子孫は?浜松一中や浜松北高とオリンピック招致について調査! — 2019年 1月月5日午後6時58分PST 田畑政治さんの経歴を紹介してきました。 経歴を調査してみて分かったことは、 数々の異名以上に日本スポーツに与えた功績が大きい偉大な人物であるということです。 戦争を経てもなお、スポーツの息吹を絶やさなかった… 田畑政治さんの心意気は半端じゃないです。 人生において「志」を持って生きるということや、目標を実現までつなげるまで諦めない心は、田畑政治さんに学ぶべき部分です。 彼が成し遂げたのは誰しもができるわけではない偉業でした。 知れば知るほど「いだてん」でどのように描かれて行くのかが楽しみで仕方ありません。 知っておくべき田畑政治という日本の五輪史、楽しんでみたいですね。

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田畑政治ってどんな人?水泳や東京オリンピックとの関わりについて

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田畑政治(たばたまさじ)。 日本に水泳を普及させ、東京オリンピックを招致させるという、日本中の悲願とも言える偉業を実現させた男です。 大河ドラマ「いだてん」の後半の主役が田畑政治(たばたまさじ)です。 配役は阿部サダヲさん。 2020年、56年ぶりの東京オリンピックを目前にして、 「田畑政治」が再び大きく注目されています。 前回の東京オリンピックは56年前ですので、どんなに記憶力がある人でも、60歳以上の方でなければ知りませんよね。 私は30代半ばですが、東京オリンピックと言えば、「高度経済成長をする日本の象徴」、「戦後という時代から、先進国としての歩みを始めた証」、「日本中がひとつにまとまった世紀の大イベント」、、、そんなイメージはありますが、その裏ではどんなことが起こっていたのか、どのような苦労があったのかなどは知りませんでした。 田畑政治の生涯をたどることで、東京オリンピックの招致が達成されるまでの道、戦争の影響や残酷さ、スポーツの力、そして 一人の熱意や行動の偉大さを深く感じます。 スポンサーリンク 下記クリックで好きな項目へ移動• 田畑政治(たばたまさじ)の生涯とは 裕福な名家に生まれる 田畑政治(たばたまさじ)は、明治31年(1898年)静岡県浜松市に生まれます。 家柄は「八百庄商店」という酒屋で、浜松イチといってもいいほど裕福な名家だったようです。 浜名湾を目の前にしながら育ち、小学校では水泳部に入ります。 当時はもちろんプールはないですので、浜名湾で泳いでいました。 水泳に夢中に、しかし病気により指導者に 田畑は水泳に夢中となり、学校の中でもエース的なスイマーでした。 ご存じない方も多いかもしれませんが、 浜名湾付近は水泳が非常に盛んな地域でした。 水泳がまだスポーツという認識がされていなかった時代から学校教育に水泳が組み込まれ、 世界で活躍する水泳選手の育成に大きく貢献しました。 浜名湾方式と呼ばれ、「フジヤマのトビウオ」と称される古橋廣之進選手も浜松市の出身です。 出典: 水泳選手として猛練習に励む田畑ですが、高校時代に盲腸と大腸の病気になり、選手として続けることを断念せざる負えなくなります。 その後は水泳指導者として活躍することになります。 朝日新聞社に入社して政治部門の記者として活躍 田畑政治が優秀だったのは水泳だけではありません。 頭もすこぶる優秀で、東京帝国大学に入学します。 大正13年(1924年)に卒業すると、朝日新聞社に入社しました。 政治部門に配属され、総理大臣にも務めた鳩山一郎氏や高橋是清氏にも目をかけられました。 昭和24年(1949年)には常務に就任します。 想像できるかと思いますが、大手新聞社の役員ですので、相当顔が広く、影響力も大きいです。 この人脈が、のちのオリンピック招致の際に大いに役立つことになります。 日本トップの水泳指導者になる田畑政治 水泳競技者としては、あきらめざる負えなかった田畑政治ですが、水泳への熱意がなくなることはありませんでした。 高校時代に選手を引退した田畑は指導者となり、学校の全日本優勝に貢献しました。 そして 大正5年(1916年)に浜名湾遊泳協会を設立しました。 田畑が18歳の頃です。 この時すでに田畑の志の高さ、行動力が並ではないことがわかりますよね。 その後まだ日本には浸透していなかったクロールを取り入れ、日本のトップとなる選手、記録を生み出していく指導者となっていきます。 水泳監督・選手団団長としてロサンゼルスオリンピックに参加 田畑政治は昭和4年(1929年)には日本水泳連盟の専務理事と就任し、全国の水泳界に影響を及ぼす存在となります。 昭和7年(1932年)に開催された ロサンゼルスオリンピックでは、水泳監督兼選手団団長として参加します。 日本の水泳の活躍は目覚ましく、金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個という活躍でした。 日本全体のメダル18個のうち12個が水泳でした。 今のようにプールがあるわけでもなく、国際大会の経験もまったくなかったにも関わらずの結果でした。 田畑の監督しての能力の高さがどれほど凄いか伝わってきます。 翌年には田畑は結婚しますので、公私ともに充実した日々だったのではないでしょうか。 ベルリンオリンピックでは日本女性初の金メダル獲得 昭和11年(1936年)にベルリンオリンピックが開催されます。 前回のロサンゼルスに続き、日本の水泳選手団は大活躍をします。 金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個を獲得します。 出典: この大会で 一躍有名になったのが日本初の女性金メダリストになった「前畑秀子」です。 200m平泳ぎに出場し、開催国ドイツの選手とデッドヒートを繰り広げます。 NHKの河西三省(かさいさんせい)アナウンサーが、 「前畑がんばれ!」を繰り返し、「前畑リード!勝った!前畑勝ちました!」のアナウンスは日本を熱狂させました。 「前畑がんばれ!」は24回繰り返されたそうです。 東京オリンピックの招致に尽力!しかし幻に... スポンサーリンク 田畑政治は幻となった東京オリンピックにも尽力しました。 日本初・アジア初のIOC委員として獅子奮迅の活躍をしたのが、「柔道の父」とも呼ばれる嘉納治五郎です。 関連記事: 出典: 田畑や嘉納の奮闘でなんとか一度は東京オリンピックの招致に成功しました。 昭和11年(1936年)に決定し、開催は昭和15年(1940年)と予定されます。 実際に東京オリンピックが開催されたのが1964年ですが、それから24年前に招致に成功していたのです。 しかし、 戦争の激化により開催中止となりました。 戦争期間はとにかく戦争第一ですし、当時は食べるものすらなく、生きていくのも精一杯だったはずですので、スポーツをやっている場合ではなかったことが想像できます。 明治初期にはスポーツというものはただの遊びとして認識されていました。 しかしスポーツは、健康や精神、政治や文化交流など、スポーツが果たす役割は大きいです。 ようやくそのことが日本でも認められ、日本中で選手を応援して、盛り上がりができてきた頃でした。 オリンピックは平和を願った祭典です。 日本におけるオリンピック、スポーツを支え続けてきたのが嘉納治五郎であり、いだてん前半の主役である金栗四三です。 関連記事: 出典: その 意志を受け継いだ田畑、彼らが目指した東京オリンピックは、悲しくも「平和」の真逆である「戦争」によって中止となったのです。 当時と今では風潮はまったく違うかと思いますが、本当に無念だったと思います。 田畑政治の不屈の精神で日本スポーツは復活する 昭和14年(1939年)には日本水泳連盟の理事長となった田畑ですが、終戦となるとすぐに立ち上がります。 その後も田畑は昭和21年(1946年)に日本体育協会の常務理事に、昭和23年(1948年)には日本水泳連盟会長、JOC総務理事など、日本スポーツ界における要となる存在となっていきます。 また本業である新聞社の仕事でも 、 朝日新聞東京本社の代表取締役に就任するなど、多忙を極める状態でした。 戦後初めて開催された昭和23年(1948年)のロンドンオリンピックでは、日本は参加することすら断れます。 国際水泳連盟(FINA)にも加盟できない状態となります。 戦争が及ぼした影響は停滞ではなく、明らかな後退であったことは明白でした。 しかし、 田畑のスポーツへの熱意は変わりません。 ロンドンオリンピックの日程に合わせて日本選手権の決勝を開催するなど、日本のスポーツに目が止まるように試行錯誤しました。 日本選手権では、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進(ふるはしひろのしん)選手、橋爪四郎(はしづめしろう)選手が世界記録を更新する結果を残します。 それは 同時に開催していたオリンピックの記録よりも速く、日本の実力を世界にアピールする結果となりました。 こうした歩みが世界にも認められていき、翌年には国際水泳連盟(FINA)への加盟が認められることになります。 日本が再びオリンピックに参加! 田畑率いる日本の水泳選手団は、昭和24年(1949年)にロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権大会に出場できることになりました。 最初は認められませんでしたが、田畑がマッカーサーに働きかけるなどして、ようやく承認されたことでした。 しかし、現地での日本人への対応はひどいもので、日本人を宿泊させるホテルがない状態だったのです。 そこで田畑らに協力したのが、 日系人のフレッド・イサム・ワダでした。 日本出身の事業家で、地元である日本人への支援を惜しみませんでした。 フレッド・イサム・ワダたち日系人からすると、出身国である日本と、住んでいるアメリカとの戦争だったわけです。 戦争中、そんな日系人への非難は相当だったはずです。 想像もできないほどの苦しみを味わったのではないでしょうか。 大会では、フレッド・イサム・ワダの支援・応援に応えるように、日本人選手が大活躍しました。 この大会でも古橋廣之進選手や橋爪四郎選手は世界記録を更新するのです。 そしてついに、 昭和27年(1952年)のヘルシンキオリンピックでは日本の参加が認められました。 ヘルシンキオリンピックでの日本人の活躍は乏しいもので、水泳では銀メダル1個という結果でした。 それでも日本スポーツ復活として大きな一歩であったことは間違いありません。 国際大会へのブランクや、もしかしたら戦時中、戦後の食糧難および練習不足などでの体力低下も影響したのではないかと想像してしまいます。 田畑政治は、ヘルシンキオリンピック、次のメルボルンオリンピックと続けて選手団の団長を務めました。 夢の東京オリンピックに向けて 出典: 戦後再びオリンピックの歴史に参加する日本ですが、復活の道を進むのはスポーツ界だけではありません。 日本経済、日本という国そのものが猛烈な勢いで成長していきます。 世界の中に参加する、関わっていくだけではなく、影響するような力を持つようになっていきます。 そして日本はオリンピックを日本に呼ぶという夢を持つようになるのです。 この頃の田畑政治は、日本スポーツ界にとって、肝心要の存在となっていました。 都知事と一緒に東京オリンピックの招致を目標に動き出します。 ここで新聞記者として成功をおさめた力がいかんなく発揮されます。 政治や財界へ広い顔をもつ田畑は、オリンピック招致を国家プロジェクトになるように働きかけ、確実に動かしていきました。 なんせかかる資金が半端ではありません。 選手強化はもちろん、施設や交通環境の整備、それに伴う人的資源の確保など、オリンピックを招致するには凄まじい資金や人材が必要です。 当時の都知事の安井誠一郎氏や総理大臣であった岸信介氏など、日本トップの力も動かします。 また、以前にも登場した日系人のフレッド・イサム・ワダの協力も大きく影響しました。 アメリカに人脈があるため、日本へのオリンピック招致についての説得をしてくれたのです。 こうした 田畑政治を起点とする尽力によって、ついに昭和34年(1959年)、1964年の東京オリンピック開催が決定されました。 アジアではまだオリンピックをしていない、オリンピックは世界の祭典であるという、「アジア初開催」を大きく主張し、見事勝ち取りました。 柔道と女子バレーボールをオリンピックの正式種目に スポンサーリンク 東京オリンピック開催が決まったとはいっても、本当に忙しくなるのはここからです。 東京オリンピック組織委員会が設立され、田畑は事務総長兼選手強化対策本部常任顧問に就任します。 そこで田畑はある働きかけをします。 柔道と女子バレーボールをオリンピックに正式種目にしようとしたのです。 「柔道の父」でもあり、「日本のオリンピックの父」でもある、嘉納治五郎の悲願であったことであるはずです。 それを 田畑が意志を受け継ぎ、見事実現したのです。 胸が熱くなります。 関連記事: また、男子バレーは正式種目だったにもかかわらず、女子バレーはオリンピックの種目にありませんでした。 男女平等の観点を訴え、こちらも見事実現します。 結果としては、ご存じのとおり女子バレーは 「東洋の魔女」と称される大活躍をしました。 東京オリンピック前にJOC辞任 これほどオリンピックに尽力してきた田畑政治ですが、実は東京オリンピックの前にJOCを辞めています。 昭和37年(1962年)にアジア競技大会が開催されたのですが、この大会をめぐって田畑は辞任したのです。 国同士の政治的な問題が絡んだすえのことでした。 田畑が何か失敗したとかではありません、国内でも政治的な要因があったのです。 田畑は当時のオリンピック大臣との仲が悪く、政治的な圧力もあったと言われています。 ですので、 田畑は東京オリンピックではイチ委員として応援するかたちとなりました。 いずれにしても、 田畑政治の情熱と執念が実を結んだのです。 昭和39年(1964年)10月10日、日本の悲願であった東京オリンピックが開会しました。 選手も期待に応える大活躍をして、29個のメダルを獲得しました。 晩年もスポーツの発展に尽力した田畑政治 東京オリンピックでは、実は水泳の活躍が芳しくありませんでした。 メダル銅メダル1個という結果でした。 田畑は水泳の練習環境の整備のために、屋内プールの建築や選手強化に力を入れました。 また、昭和47年(1972年)開催の札幌オリンピックにも大きく貢献します。 翌年には日本オリンピック委員会(JOC)の会長、昭和52年(1977年)にはJOC名誉委員長に就任します。 田畑は昭和59年(1984年)に85歳で亡くなりますが、 最期まで水泳、オリンピック、スポーツ界の発展に奔走し続けた生涯でした。 田畑政治の妻・子孫について 田畑政治の妻や子供、子孫についてもふれておきたいと思います。 田畑は昭和8年(1933年)に妻・菊枝さんと結婚します。 2人の間には一男二女が誕生しました。 長男和宏さん、長女治子(はるこ)さん、次女醇子(じゅんこ)さんです。 長男の田畑和宏さんはNHKの理事を務め、NHKの関連企業でお仕事をなさいました。 また、田畑のいとこには、水野成夫(みずのしげお)という人物がいます。 なんとフジテレビを設立して初代社長を務めた大物です。 親子、また親戚もメディアの仕事を手掛けられたということになります。 配役は阿部サダヲさんです。 いだてんの脚本は宮藤官九郎さんですので、宮藤官九郎作品に多く出演する阿部サダヲさんは息もピッタリですね。 阿部サダヲさんというと、それこそ宮藤官九郎さん脚本の池袋ウエストゲートパークや、踊る大捜査線などに出演し、徐々に見る機会が増えてきた印象です。 今では数々の作品で主役を務め上げ、名俳優として確固たる存在です。 映画「舞妓Haaaan!!! 」では、第31回日本アカデミー賞主演男優賞優秀賞を受賞されました。 また、大河ドラマは4度目の出演で、おんな城主直虎では徳川家康役を演じました。 私はドラマ「医龍」が印象的です。 名物麻酔科医として強烈な印象でした。 映画「奇跡のリンゴ」も良かったですね! 、、、 と、よくよく振り返るとかなりの作品で印象的な役柄を演じています。 凄すぎる人物な気がしてなりません。 頭脳がとてつもなく良く、また多くの人を巻き込む人間的な魅力と統率力、、、想像するとキリがないほどです。 私も含めて、多くの人が役者さんを通してですら、田畑政治がどんな人物かを見たことがありません。 いだてんを通して田畑政治を知る人がほとんどなのではないでしょうか。 確実に言えるのは、 田畑政治がもたらしたオリンピックとスポーツの普及は、日本という国に希望や自信、または健康や人と人の絆、一人一人の成長する機会など、表現しきれないほどのモノを与え続けています。 オリンピックで言えば、見ている人に数えきれないほどの感動や勇気を与えています。 歴史なことを考えれば、それは日本だけではありません。 アジア、いやオリンピックの拡大や祭典の意義を考えると、 世界中のたくさんの人々に、無数の「何か」を田畑政治はもたらしました。 2020年の東京オリンピックは、56年前とはまた違うかたちで国や東京という大都市、そして私たちひとりひとりに大きな影響を与えるはずです。 それは胸を打つ感動かもしれません、選手の奮闘や努力を通して何かを決意させるかもしれません、背中を押して一歩を前進させるかもしれません。 最後まで読んでいただきありがとうございました。 関連記事: スポンサーリンク 当サイトをご覧になっていただき誠にありがとうございます。 運営しております原田と申します。 明治維新に関心を持つようになったのは、「竜馬がゆく」がきっかけでした。 坂本龍馬に惚れました。 また、その当時の志士の志の高さ、命をかける覚悟、行動力などに感化され、明治維新に関わる人物から学ぶことが多いことに気づきました。 そして、もっと学びたいと思うと同時に、この素晴らしい方々のことを発信したいと考えるようになりました。 当サイトは、明治維新を中心に、歴史上の人物や出来事を通して、今に生きる私たちの生活や仕事、人生に活かせる何かを、少しでも感じて、行動を起こす機会となるサイトを目指しております。 どうか少しでもご覧になっていただき、何かを感じていただけることを願っております。 まだまだ未熟者ではございますので、お気づきの点ございましたらご意見いただけますと幸いです。 運営者:原田 Mail:mail meiji-revolution. com.

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田畑政治(たばたまさじ)経歴や妻息子や子孫は?浜松一中オリンピック

田畑政治 子孫

田畑政治 たばたまさじ は、のちに「水泳ニッポンの父」と言われるようになりますが、浜松一の資産家と言われる、江戸時代から続く造り酒屋(八百庄やおしょう)の次男として生まれます。 ちなみに、金栗四三の実家も造り酒屋で、嘉納治五郎の実家も菊正宗酒造・白鶴酒造です。 田畑政治 たばたまさじ も、そのうちの一人でしたが、大病を患い水泳を諦めます。 後に、世界で戦える水泳選手の育成に腐心し、大学を卒業して、新聞記者になりますが、政治家たちと渡り合いながら、スポーツの地位の向上のため尽くし、やがて東京オリンピック開催を目指し奔走します。 せっかちで、思い立ったらすぐに行動で早口ですが、愛されキャラだったそうです。 後に、鳩山一郎氏によると、ロサンゼルスオリンピックで、日本を一流のスポーツ大国に躍進させた最大の功労者と称します。 そんな田畑政治 たばたまさじ について、まとめました。 田畑政治 たばたまさじ 経歴 田畑政治さん(前列左)と金栗四三さん(前列中)が並ぶ写真。 — 高本清則 moto60206871 田畑 政治(たばた まさじ) 生年月日:1898年(明治31年)12月1日~1984年8月25日 出身地:静岡県浜松町成子 現・浜松市中区成子町 教育家、新聞記者、水泳指導者 長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として知られています。 裕福な家庭で育ちますが、父や兄が短命の家系とあり、田畑政治さん自身が幼少の頃から、体が丈夫でないため、浜名湖で泳ぎを覚え鍛えます。 ところが、小学校4年生の時、慢性盲腸炎に大腸カタルを患い、医師から水泳をやめるようにといわれ、水泳の道を断念します。 この時の悔しさから、「世界一」へのこだわりを持つようになり、それが「世界一の選手を育て上げる」というマネジメントの立場へと移っていくことになります。 浜松中学(現・浜松北高)、旧制一高 現・東京大学教養学部 を経て、 1924年(大正13年)東京帝国大学を卒業 1924年、25歳、朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社します。 その後は政治経済部長などを務め、1949年に常務に就任した。 一方で田畑は水泳指導者としても活動し、1932年のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会で日本代表の監督を務めます。 1939年には日本水泳連盟(当時の名称は大日本水上競技連盟)会長の末弘厳太郎が大日本体育会(後の日本体育協会)理事長に就任したことから、田畑も末弘を支えるべく新たに設けられた理事長に就任します。 1948年、戦後になると、日本水泳連盟の会長に就任。 ロンドンオリンピック参加を断られると、日本代表(古橋廣之進・橋爪四郎ら)の実力を見せつけるべく、日本選手権の決勝をロンドン五輪と同日に開催し策士ぶりを発揮します。 1949年の国際水泳連盟(FINA)復帰につなげるなど大胆な組織運営を行います。 1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック、1956年のメルボルンオリンピックと二大会連続で日本選手団の団長を務めます。 戦後間もない時期から東京へのオリンピック招致を訴えており、五輪招致活動においては中心人物の一人として以前から親交のあったフレッド・イサム・ワダなどの人物を招致委員に引き込むなど活躍します。 1959年(昭和34年)、1964年の東京開催が決定すると、田畑もその組織委員会の事務総長に就任し開催に向けて活動します。 正式種目に女子バレーボールを加えるロビー活動の、陣頭指揮にも立ちます。 しかし、1962年の第4回アジア競技大会でホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否し、それに対して国際オリンピック委員会(IOC)がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることになります。 最終的に日本選手団は(競技自体が中止された。 )重量挙げを除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で田畑はJOC会長で組織委員会会長の津島寿一とともに辞任することとなってしまいます。 1964年(昭和39年)、65歳、第18回東京オリンピック開催 1973年には日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任した(1977年まで) 1984年勲二等旭日重光章を受章 田畑政治 たばたまさじ 妻息子や子孫は? 田畑政治さんは、1933年(昭和8年)35歳の時、酒井吉之助の娘・菊枝さんと結婚。 一男二女を授かります。 長女の治子さんについては詳しいことはわかりませんが、次女の醇子(あつこ)さんは、カリフォル二ア大学に留学しています。 田畑政治さんの東京オリンピックの協力者である、フレッド和田氏は、アメリカロサンゼルス在住の実業家で、その縁で、醇子(あつこ)さんがアメリカに留学している間、和田宅にホームステイをしていました。 東京オリンピックまで3年を切りましたね。 — 岩瀬貴之 電子書籍出版と本の販促をお手伝い TakaIwase その後、醇子(あつこ)さんは帰国すると、和田宅で教わったチーズケーキのレシピを、親戚が営んでいた浜松にある「まるたや洋菓子店」で教え、できます。 長男の田畑和宏さんは、1940年生まれのようです。 元NHK理事、元NHK交響楽団理事長を務めていました。 — 石井麻木写真展【3. 浜松一中在学中の宮崎康二が100m自由形と800mリレーで金メダルを獲得し、世界新記録を樹立します。 1932ロサンゼルス五輪の競泳男子100FRの金メダリスト、宮崎康二さんが大スターになったか、とか ちなみに銀メダリストも河石達吾さんで日本人1-2フィニッシュ …宮崎さんいい男だったのよね。 — 龍陽? 海容 unbonvinblanc イケメンなんですが・・・ 田畑政治 たばたまさじ オリンピック NHK大河「いだてん」では、1964年の東京オリンピック招致に向けて、奔走する田畑政治さんの姿を描きますが、オリンピックとの関わり合いは、1932年第10回オリンピック・ロサンゼルス大会から始まっています。 第10回オリンピック・ロサンゼルス大会は、ストックホルム大会の初参加で、金栗四三が味わった惨めな挫折から20年経っていました。 世界的な不況を背景に辞退する国が多い中、日本は131人の選手を送り込んでいます。 前年の満州事変により、国際的に孤立をしていた日本にとって、平和ムードを演出するには、絶好の機会でした。 また、日本の国力も欧米の脅威となるほどに飛躍して、スポーツの世界でも、各種目で選手たちは、予想以上に活躍をします。 競泳陣を率いた田畑政治 たばたまさじ は、身長こそ低いですが、恰幅が良く、選手以上によく動き回って目立っていました。 本業は新聞記者ですが、鳩山一郎や高橋是清といった大物政治家とツテや面識があったことから、説き伏せ協力を得るなどをしていました。 第52. 田畑政治 たばたまさじ の死因 1984年、2月食事をのどに詰まらせたことから、酸素欠乏症のため、脳の一部に障害が残り入院生活を余儀なくされる。 7月肺炎を併発。 ちょうど7月28日からロサンゼルスオリンピックが開催されますが、 その前日から、危篤状態から病状が持ち直し、意識が混濁したままで、ベットの隣に設置されたテレビから中継される開会式に涙をにじましていたそうです。 オリンピックが閉会して約2週間後の8月25日、85歳で死去。 まとめ 嘉納治五郎にしても田畑政治にしても頭脳が良いだけでなく、文武両道と言っていいと思いますが、行動力も半端なかったと思います。 田畑政治など、本業の傍らで、オリンピックに進出すべく尽力していたというのですから、どちらが本業なのかわからなかったかもしれません。 ですが、単純に事務的なことで奔走していたわけではないようなので、面白くて仕方がなかったと思います。 濃くて愛されるキャラだったからこそ、成しえたのかなと思います。 ドラマでは、田畑政治さんの役を阿部サダヲさんが演じますが、実物とあまり似通っている雰囲気とは思えないのですけれど、濃くて愛されキャラを強調するための人選なのかなと思いました。

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