で ある こと と する こと 解説。 評論文解説「である」ことと「する」こと 丸山真男著 その9~学問や芸術における価値の意味~

であることとすること 丸山真男著 その1~権利の上にねむる者~

で ある こと と する こと 解説

-権利の上にねむる者- まず、有名な冒頭の解説です。 政治学者である著者の丸山さんの学生時代の話から、教科書の抜粋は始まっています。 民法の授業で、「時効」の制度について説明された時のことです。 法律の現場。 とくに、民法上の裁判では、理不尽なことが良く起きている。 お金を借りて、「返してくれ! 」と言われない事を良いことに、全く返そうとしない人間。 出来れば、このまま返さずに済ますことが出来たら良いなぁ~と、思っている人間がいたとして、悪いのはお金を借りて返さない不心得者のはずですし、罰されるのは当然だと思いたいのは、人間として当たり前の感覚でしょう。 けれど、民法では、むしろ悪いのはお金を貸したのに、「返してくれ! 」と要求を出さない人の方だ、と言うのです。 損をしても、当然だと。 この規定の根拠には、 権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。 本文より 民法の保護、というのは、法律に守られている存在、と言う事です。 つまり、お金を貸して、課した相手に対して、「返してくれ! 」と要求をし続けている人間だけが、民法に守られている存在である。 要求を出し続けていないと、「時効」は切れて、お金を返してほしいと要求する資格すら失って損をする、という事です。 行動 する人間だけが、権利を有することが出来る。 権利の上に眠る、という事は、権利を持っているという立場に安住してしまい、安心し、行動しなくなってしまうので、いつの間にかその権利をなくしてしまうまで眠っている、呆けている、と言う事です。 -「する行為」が「である位置」を保たせてくれる- いま考えてみると、請求 する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者 であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。 本文より 解りやすい例示を挙げましょう。 例えば、貴方がピアニストだったとしましょう。 スポーツ選手でも構いません。 超一流の技術を持っていると仮定して、その技術。 毎日の練習無しに、技術を保つことは可能でしょうか? 良いパフォーマンスを出し続けるためには、超一流だと評価されて、良い気になって練習を怠ったとしたならば…… どうなるかは、想像しなくても解ると思います。 常に超一流で居続けるためには、練習を する行為が 不可欠であり、それを怠り、安住してしまったなら、その場所から転落してしまう。 技術を喪失してしまう、という事です。 これは、成績や様々な能力にも喩えることが出来ます。 ピアニストの練習で有名な言葉があります。 1日休んだら、戻るのに3日かかる。 3日休んだら、1か月。 1か月休んだら、もう一生元には戻らない。 技術や立場と言うのは、常にその行為をし続けることによってのみ、確保される。 要するに、頭の良い状態を保っている人。 トップを保ち続けている人というのは、その立場に安住しているのではなく、常に努力をし続けている。 する行為をし続けているからこそ、そこに居ることが出来る、と言っているのです。 独裁者はどのような経緯で生まれるのでしょうか そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。 」と記されています。 この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、著しく共通する精神を読みとることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。 本文より 「時効」と、日本国憲法に書いてある「自由と権利」に共通する精神がある、と言っています。 どこが共通するのか。 「時効」は、請求 する行為によって、保ち続けられる。 それと憲法の「自由と権利」に、同じ部分が存在する。 つまり、自由であろうと する行為。 権利を持ち続けようと する行為によって、自由と権利は保ち続けられる、といっています。 する行為によって、その状況を保てる。 共通する部分は、ここです。 つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行為を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。 」という 警告になっているわけなのです。 本文より 自由と権利を、主権者で言いかえています。 -主権者でいることの面倒くささ- これは大げさな威嚇でもなければ、空疎な説教でもありません。 それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。 本文より 主権者でいる、というのは、実はとても面倒なことです。 誰だって、政治の問題や法律や、刑法の問題は、頭の痛い問題です。 どちらを優先しても、いつも小さな問題は常に存在している。 選挙で議員を選ぶ時も、誰に入れるのかを考えるために、様々なことを考えなければなりません。 めんどくさい。 誰か、有能な人が一番良いように選んでくれないかな。 そうしたら、面倒なことから解放されるのに…… そう考えてしまうと、共和制から帝政に逆戻りしたナポレオン三世のフランスのように。 共和制の社会から、ヒトラーという独裁者を選挙で選んでしまったドイツのように、民衆がサボりがちになったり、自分の主権を保とうと努力をしなくなった時に、主権は簡単に奪われてしまう。 もしかすると、歴史的に実際にあったように、民衆が自ら手放してしまう事態も、起こりうる。 金を貸して、「返してくれ」と要求しない、権利の上にねむっている債権者のように。 そう、この部分で警告をしているのです。 【今日のまとめ】 -状態、状況という「である」ことは、「する」という行為によって保たれる- 成績を高く保ちたかったら、毎日、勉強「する」という行為が絶対に不可欠になります。 その勉強行為。 「する」という行動によってのみ、成績がよく「ある」という状態。 「である」が保たれる。 まず、これを理解すること。 そこから、現在の近代政治はすべてこの「する」行為によってつくられているのであり、権利が「ある」からと言って、それを行動で保とうとしなれば、すべて失ってしまっている場合がある社会に我々が生きていることを自覚しろと、まず筆者は言います。 -主権者であることは、非常に困難- しかし、政治の世界に精通し、常に主権者であり続けるというのは、とても面倒で、困難です。 ある程度の知識が必要になるし、皆が皆、自分のことで手一杯の状態で、政治のことまで常に気をかけて、判断をするというのは現実的ではありませんが、それを放棄してしまうと、その権利を失うということは、ヒトラーの時代には現実に有り得たことなのだと、警告を鳴らしています。 「面倒だから誰か決めて」 というタイプの人にとって、近代社会はとても責任の重いものになってしまっている、とうことなんですね。

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丸山真男『「である」ことと「する」こと』1/2 問題

で ある こと と する こと 解説

この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上に眠る者」という言葉が妙に強く印象に残りました。 今考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、単に自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックの中には、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味が潜んでいるように思われます。 たとえば、日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。 そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と記されてあります。 つまり、この憲法の規定を若干読み変えてみますと、「国民は今や主権者となった、しか 自由人という言葉がしばしば用いられています。 しかし自分は自由であると信じている人間はかえって不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを b オコタりがちになるために、実は自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でないことがまれではないのです。 逆に、自分がとらわれていることを痛切に意識し、自分の偏向性をいつも見つめている者は、なんとかして、より自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって相対的に自由になり得るチャンスに恵まれていることになります。 制度についてもこれと似たような関係があります。 し主権者であることに安住して、その権利の行使をオコタっていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。 」という警告になっているわけなのです。 これは大げさな威嚇でもなければ教科書ふうの c クウソな説教でもありません。 それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。 アメリカのある社会学者が「自由を祝福することはやさしい。 それに比べて自由を擁護することは困難である。 しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である。 」と言っておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。 私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はからっぽになっていないとも限らない。 自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、言い換えれば日々自由になろうとすることによって、初めて自由であり得るということなのです。 2 近代社会における制度の考え方 自由人という言葉がしばしば用いられています。 しかし自分は自由であると信じている人間はかえって不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることをオコタりがちになるために、実は自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でないことがまれではないのです。 制度についてもこれと似たような関係があります。 それは民主主義という名の制度自体について何より当てはまる。 つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義であり得るような、そうした性格を本質的に持っています。 民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだと言われることの、最も内奥の意味がそこにあるわけです。 このように見てくると、債権は行使することによって債権であり得るというロジックは、およそ近代社会の制度やモラル、ないしは物事の判断のしかたを深く規定している「哲学」にまで広げて考えられるでしょう。 「プディングの味は食べてみなければわからない。 政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです。 もし【 d 】時代の人間にとって"to be or not to be"が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ"to do or not to do"という問いがますます大きな関心事になってきたと言えるでしょう。 もちろん「『である』こと」に基づく組織(たとえば血族関係とか、人種団体とか)や価値判断のしかたは将来とてもなくなるわけではないし、「『する』こと」の原則があらゆる領域で無差別に謳歌されてよいものでもありません。 しかし、私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での民主化の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。 3 徳川時代を例にとると 次に、右のような典型の e タイショウをより明瞭にするために、徳川時代のような社会を例にとってみます。 言うまでもなく、そこでは出生とか家柄とか年齢(年寄り)とかいう要素が社会関係において決定的な役割を担っていますし、それらはいずれも私たちの現実の行動によって変えることのできない意味を持っています。 したがって、こういう社会では権力関係もモラルも、一般的なものの考え方の上でも、何をするかということよりも、何であるかということが価値判断の重要な基準となるわけです。 人々の振る舞い方も交わり方もここでは彼が何であるかということから、いわば自然に流れ出てきます。 武士は武士らしく、町人は町人にふさわしくというのが、そこでの基本的なモラルであります。 各人がそれぞれ指定された分に安んずることが、こうした社会の f チツジョ維持にとって生命的な要求になっております。 4 「である」社会と「である」道徳 徳川時代のような社会では大名であること、名主であることkら、その人間がいかにふるまうかという型がおのずから決まってきます。 したがって、こういう社会でコミュニケーションが成り立つためには、相手が何者であるのか、つまり侍か百姓か町人かが外部的に識別されることが第一の要件となります。 服装、身なり、言葉遣いなどで一見して相手の身分がわからなければ、どういう作法で相手に対してよいか見当がつかないからです。 いわゆる公共道徳、パブリックな道徳と言われているものは、この赤の他人どうしの道徳のことです。 たとえば儒教の有名な五倫という人間の基本的関係を見ますと、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友であります。 このうち初めの四つの関係は縦の上下関係とされ、朋友だけが横の関係です。 そうして友達関係をさらに超えた他人と他人との横の関係というものは、儒教の基本的な人倫の中に入ってこない。 つまりこれは儒教道徳が典型的な「である」モラルであり、儒教を生んだ社会、また儒教的な道徳が人間関係の g カナメと考えられている社会が、典型的な「である」社会だということを物語っております。 これに対して赤の他人どうしの間に関係を取り結ぶ必要が増大してきますと、どうしても組織や制度の性格が変わってくるし、またモラルも「である」道徳だけでは済まなくなります。 5 業績本位という意味 「である」論理から「する」論理への推移は、必ずしも人々がある朝目覚めて突如ものの考え方を変えた結果ではありません。 そうした団体の存在理由が、そもそもある特定の目的活動を離れては考えられないし、団体内部の地位や職能の分化も仕事の必要から生まれたものであるからです。 封建社会の君主と違って、会社の上役や団体のリーダーの偉さは上役であることから発するものでなくて、どこまでも彼の業績が価値を判定する基準となるわけです。 武士は行住坐臥常に武士であり、またあらねばならない。 しかし会社の課長はそうではない。 彼の下役との関係はまるごとの人間関係でなく、仕事という側面についての上下関係だけであるはずです。 アメリカ映画などで、勤務時間が終わった瞬間に社長と社員あるいはタイピストとの命令服従関係が普通の市民関係に一変する光景がしばしば見られますが、これも「『する』こと」に基づく上下関係からすれば当然の h ジリにすぎないのです。 こういう例でおわかりになりますように、「する」社会と「する」論理への移行は、具体的な歴史的発展の過程では、すべての領域に同じテンポで進行するのでもなければ、またそうした社会関係の変化がいわば自動的に人々のものの考え方なり、価値意識を変えてゆくものでもありません。 そういう領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルの食い違いということからして、同じ近代社会といってもさまざまのバリエーションが生まれてくるわけです。 問1 a 〜 hのカタカナ部を漢字で記しなさい。 ただし、 dの空欄には、シェイクスピアの悲劇の題名であり主人公の名ともなるものを記しなさい。 5字以上10字以内で記しなさい。 文中から10字以上15字以内の一続きの語句を抜き出して記しなさい。 本文から10字以内で抜き出しなさい。

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【ことばをめぐる】(010421)命令表現,ものとする,こと(命令)

で ある こと と する こと 解説

ここでは、貸した金を返してくれと言えない人という意味で「気の弱い善人の貸し手」と言われている。 ) 問3 日本国憲法第十二条 (9字。 同文の「 対応しておりまして」の主語でもある。 ) 問4 時効 (『 基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」である』と、「 先ほど」=(前段)話題にしたこと=「時効」と「 著しく共通する精神」があること。 ) 問5 物事の判断を他人に預け、自由や権利を積極的に行使することを忘れ、毎日を安穏に暮らせればいいと思っている人。 (自由を「 祝福する」ことの意味を、「 生活の惰性を好む者」とかなり無理に言い換え、さらには、「 毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、物事の判断などは人に預けてもいいと思っている人」と見下し、「 アームチェアから立ち上がるよりもそれに深々と寄りかかっていたい気性の持ち主」と次第に否定的なニュアンスを強くする言い方をして、自由や権利の「 行使」することの重要性を強く印象付け、自由や権利などの政治的事柄に関心がないことを否定しているわけです。 ) 問6 自分自身の中に巣食う偏見 (12字) (この段は、【「 自由人」】と【 「偏見から…自由でない」人(不自由人…?)】の二項対立で組み立てられているととらえます。 よって、「 とらわれている」のは「 自分の中に巣食う偏見」に、ということになります。 ) 問7 食べるか否かの行為に関係なく、美味とか不味いとか決め込む (「 プディングの味は食べてみなければわからない。 」と対照となる内容。 ) 問8 権力関係やモラルが何であるかに基づいて判断される徳川時代のような社会。 (ここでは、前文の「 こうした社会」と同内容。 おおまかには 徳川時代のような社会。 どういう社会だととらえられているかは前段にもどる。 「… 権力関係もモラルも、一般的なものの考え方の上でも、何をするかということよりも、何であるかということが価値判断の重要な基準となる」に着目してまとめる。 ) 問9 徳川時代のような社会 問10 勤務時間内は上下関係にあるが、勤務時間外では普通の市民関係に変わる関係。 (直前の「勤務時間が終わった瞬間に社長と社員あるいはタイピストとの 命令服従関係が普通の 市民関係に一変する」に着目。

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