法隆寺 宗派。 【見仏入門】No.31 奈良・法隆寺の仏像・歴史や見どころ/五重塔の謎、百済観音、夢殿秘仏救世観音、聖徳太子など

法隆寺(奈良県斑鳩町のその他の宗旨宗派寺院)|霊園・墓地のことなら「いいお墓」

法隆寺 宗派

日本の仏教・宗派 まとめ 日本の仏教、歴史の授業でなどで少しは知っているものの、 実際日本にはどんな宗派があるのか疑問に思ったことはありませんか? そこで、 日本の仏教に関してまとめてみました。 伝統的な仏教の13宗は 華厳宗 法相宗 律宗 真言宗 天台宗 融通念仏宗 浄土宗 臨済宗 浄土真宗 曹洞宗 日蓮宗 時宗 黄檗宗 の13宗です それに 現在は存在しない南都六宗の三宗に 衰退してしまった 二宗を合わせた 18宗が日本の仏教宗派として挙げられます。 奈良仏教とも呼ばれる。 民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、 これらの 南都六宗は 学派的要素が強く仏教の教理の研究を中心に行っていた 学僧衆の集まりであったといわれる。 つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、 宗教上の実践行為は 鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う 程度であったといわれる。 空を唱える事から「空宗」とも言う。 その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もある。 華厳宗や真言宗に影響を与えた。 日本への伝来には、下記の3系統がある。 625年(推古33年)に高句麗の僧の慧灌が伝えた元興寺流 智蔵(慧灌の弟子、呉出身)が入唐して伝えた法隆寺の空宗 718年(養老2年)、道慈(智蔵の弟子)が伝えた大安寺流 *現在は存在しない。 *成実論(じょうじつろん)は、三論・成実宗の元を築いた中国の僧 訶梨跋摩(かりばつま)によって漢訳された16巻の仏教論書です。 中国十三宗・三論宗に附属する宗派。 *現在は存在しない。 638年(唐代、貞観19年)中インドから玄奘三蔵が帰国し唯識説が伝えられることになる。 その玄奘の弟子の慈恩大師 基(通称 窺基 きき)が開いた宗派である。 唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。 元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。 平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。 1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。 法相宗の付宗(寓宗) 斉明天皇の四年に、智通、智達が入唐し、本論を日本に伝え、その後、唐僧を招き興福寺などで研学された。 また、元興寺禅院の開祖の道昭が661年に帰朝の際に、『倶舎論』および注疏を招来したとも考えられている。 しかし、倶舎宗という宗派が公的に制定されるのは、天平勝宝年間(749年 — 757年)の東大寺においてであろう。 そのころ、この宗派が大仏開眼供養にちなんで南都六宗の一つとして自宗関係の多数の経論を転読講説していることが分かっている。 奈良時代以後は元興寺(南寺)と興福寺(北寺)を中心とする法相宗の付宗として伝統が伝えられた。 *現在は存在しない。 日本における華厳宗は審祥により736年に伝えられた。 東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された 華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。 金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。 鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされている。 法相宗や律宗と並ぶ、南都六宗の一つで、十三宗五十六派の一つである。 華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。 菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。 中国で東晋代に『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律について翻訳されると、 唐代には道宣が『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成させた。 鑑真が日本に伝来させた。 その後、真言律宗等が生まれた。 具体的には 真言宗、天台宗の二宗の密教をさすことが多い。 場合によって 融通念仏宗も含める。 平安遷都の背景の一つには、 南都六宗の専横の問題があった。 孝謙女帝が僧 道鏡を寵愛し、道鏡が天皇にまでなろうとした宇佐八幡宮神託事件等 朝廷の保護の下、力を持ちすぎた 奈良仏教の影響を排除することが遷都の動機の一つである 朝廷は奈良仏教に対抗しうる新しい仏教として、 最澄が唐から持ち帰った天台宗や空海が持ち帰った真言宗を保護。 特徴は共に 山岳仏教であること、また加持祈祷を行なう密教の性質を持っていることなど。 平安中期になると、天台宗の源信らにより 死後の阿弥陀如来による救いを説く、 浄土教が 大きな力を持ってくる。 融通念仏宗もその文脈で出てくる。 真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)・曼荼羅宗(まんだらしゅう)・ 秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 また、真言密教は東寺を基盤としたので「東密」と称する 空海が中国(唐時代)の長安に渡り、 青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。 著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、空海が執筆していた当時に伝来していた 仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって 十段階の思想体系の中に組み込んだ。 最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、 顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。 また真言宗の東密に対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる 天台教学は中国に発祥し、入唐した伝教大師 最澄によって平安時代初期に伝えられた。 最澄が開いた日本の天台宗は、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)の説を受け継ぎ 法華経を中心としつつも、 禅や戒、念仏、密教の要素も含み、 したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。 天台宗の修行は 法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。 また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。 午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、 午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。 これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。 大念仏宗(だいねんぶつしゅう)とも言う。 融通念仏の 最大の特徴は、観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事であり、 融通念仏宗では、毎朝西方に向かって良忍の説いた十界一念・ 自他融通の浄土往生を期する念仏(融通念仏)を十唱することなどを日課とする。 浄土宗第三祖の然阿良忠が鎌倉に入ったことで浄土宗が関東に広まったといわれている。 良忠が開いた光明寺には、のちに関東総本山の称号が与えられ、 江戸時代には「関東十八檀林」の筆頭寺院として栄え、各地から学僧が集まった。 本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。 大きく鎮西派と西山派に分かれる。 臨済宗は幕府によって保護され、五代執権北条時頼は、宋の蘭渓道隆を招き、 日本で最初の本格的禅宗寺院である建長寺を、 八代執権北条時宗は、宋の無学祖元を招き円覚寺を建立している。 鎌倉の寺院の3分の1は臨済宗に属する。 宗祖栄西は、宋(中国)より茶の種を持ち帰って栽培するとともに、 『喫茶養生記』を著したことでも知られている。 阿弥陀仏の他力本願を信じることにより成仏できると説いた。 親鸞は、明王院で行われた北条政子十三回忌に 北条泰時の招請を受けて参列したとされている。 現在、鎌倉には浄土真宗の寺は一つしかない。 小田原北条氏(後北条氏)によって、 「浄土真宗の寺は、本堂が平地に建ち、挙兵の場となる危険がある」として迫害されたため、 武蔵や三浦に移っていったのだという。 宗祖道元は、五代執権北条時頼に招かれ鎌倉に滞在しているが、 時頼の寺院建立要請を断り、越前永平寺に帰っている。 臨済宗が武家の間で広まったのに対し、曹洞宗は庶民の間に広まった。 過激な宗教活動で幕府より弾圧されたが、次第に武士や商工業者に支持されるようになる。 日蓮の『立正安国論』は、元寇(蒙古襲来)を予言したとして知られている。 宗祖の一偏は、「踊念仏」をひろめ、 「決定往生六十万人」と書いた紙の札(賦算札)を配って全国を歩いた(遊行)六十万人の人々に配ることを目標としていたが、 実際に配れたのは、二十五万一千人余だったといわれる。 9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった 普化を始祖とするため、 臨済宗(禅宗)の一派ともされる。 普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。 虚無宗(こむしゅう)とも言い虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。 修験道(修験宗)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、 悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた 日本独特の宗教である。 修験道の実践者を修験者または山伏という。 唐の僧・黄檗希運(? — 850年)の名に由来する。 黄檗は臨済義玄(?-867年)の師である。 臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、 黄檗宗は明朝風様式を伝えている。

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日本の仏教・宗派 まとめ

法隆寺 宗派

寺院における諸堂のをいう。 南都六宗では,,,,経楼,,を主要とし,飛鳥,白鳳時代には塔は1つで金堂とともに内にあった。 金堂が塔のにあるもの 飛鳥寺 ,塔の北にあるもの ,塔の東か西にあるもの , などがあり,では塔は2つになった。 には塔は回廊外に出,回廊は金堂のに,金堂の北に講堂,その間左右に鐘楼,経楼があり,僧房は講堂の三方を取巻き,その北から東に食堂がおかれた。 ではにを建てたときは左右対称の配置をとらないが,のときは奈良系に拠った。 の禅宗では三から出た回廊はに連なり,左右に僧堂と庫院 くいん をおき,うしろに法堂 はっとう ,を建て,三門の斜前方に東司 とうす と浴室を設けた。 ,浄土真宗,では南都六宗や禅宗のような大陸系の厳正な配置をとらないが,とを祀る大師堂 祖師堂 を左右に並置して中心とした。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 伽藍は僧伽藍,僧伽羅摩の略で,一般には寺院の主要建物群をさす。 源流はインド,中国,朝鮮に求められる。 日本ではその配置は時代,宗派によって異なり,奈良時代以前では飛鳥 あすか 寺式,四天王寺式,法隆寺式,,東大寺式というように代表的な寺院の名を冠して呼ぶ。 平安時代に密教寺院が山中に伽藍を営むようになってからは,地勢の関係で不規則な配置になるが,鎌倉時代の禅宗寺院では左右対称で,三門・仏殿・法堂 はっとう を中心線上に並べるようになった。 浄土宗・浄土真宗・日蓮宗の近世寺院では,本堂と,あるいは祖師堂を左右に並べる形が多い。 古代寺院では釈迦 しゃか の仏舎利を祀 まつ る塔を中心建物とし、飛鳥寺 あすかでら ではその三方に仏殿を配し、それらを囲んで回廊が巡っていた。 奈良の川原寺 かわらでら では回廊内には塔と仏殿を左右に並べ、北にも回廊に接続して仏殿を配置している。 一方、大阪の四天王寺では回廊内に塔と仏殿を南北に並べ、北には回廊に接続して講堂を配置している。 法隆寺西院伽藍では川原寺と東西反対に仏殿と塔を並べ、回廊には仏殿が接続していない。 このように飛鳥時代の伽藍配置は一塔三仏殿から一塔二仏殿、一塔一仏殿との変化が認められる。 また、薬師寺にみられるような回廊内に二塔一金堂を配し、北は回廊に接続して講堂を置く配置も出現する。 奈良時代になると、塔は回廊外に建てられるようになり、やがて二塔のうち一塔は省略される。 平安時代になると、新しく天台 てんだい 、真言 しんごん の2宗がおこり、山地での伽藍が形成される。 これらの寺にあっては地形の制約上、一定の方式によらないものが多い。 天台宗では講堂の前方左右に法華 ほっけ 、常行の両堂を配する例が多い。 また、平安時代後期には浄土変相図に基づいた臨池伽藍が盛行する。 鎌倉時代になって禅宗寺院が始まると、総門、三門、仏殿、法堂 はっとう 、大方丈を前後に並べる形式が五山格の大寺院にみられる。 伽藍配置は時代や宗派によってそれぞれ変化が認められ一様ではない。 [工藤圭章].

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聖徳宗総本山 法隆寺

法隆寺 宗派

歴史と特徴 [ ] 代、645年(貞観19年)中からが帰国して、ヴァスバンドゥ(、vasubandhu)の『』をダルマパーラ(、dharmapaala)が注釈した説を中心にまとめた『』を訳出編集した。 この論を中心に、『』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。 そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。 この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的なものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。 また、基と同じ玄奘の門人であるの系統も広義では法相宗と呼び、門人のの時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず年間には基の系統に吸収されてしまった。 玄奘と基が唐のの厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。 しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、朝( - )にのが隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、やによって致命的な打撃を受けた。 その後、・の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられているが、詳細は不明である。 教義 [ ] 法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。 個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。 実際には、存在現象そのものに関しては、などのを中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。 さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。 さらに説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。 三性とは、事物は縁起に依るという、それに気付かずに執着するという、縁起を覚って円らかになるである。 基は師の玄奘が訳出した『』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。 この相と性を学ぶことを合わせてという。 (白雉4年) が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後でこれを広めた。 (4年) 入唐した・等も法相宗を広めた。 これらは同系統に属し、にが創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。 (大宝3年) 、らが入唐した。 (養老元年) 入唐したの弟子も、ともにのに師事して法相を修め、帰国後これを広めた。 なかでも玄昉はにあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。 8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。 ことに興福寺では、、などが傑出し、修円は同寺内に 伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。 徳一はのとの間でで争った。 元興寺には、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。 平安末期以降にも、、、らが輩出した。 に、、の3寺が大本山となったが、後、法隆寺はを名乗って離脱()し、また京都のも法隆寺と同様にとして独立()し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。 所依経典・論 [ ]• 脚注 [ ] 注釈 [ ].

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