ど ば 師匠。 桂歌丸

藤井七段、タイトル戦初の和服で完勝 師匠・杉本八段からのプレゼント「仙台平」― スポニチ Sponichi Annex 芸能

ど ば 師匠

桂 ( かつら ) 歌丸 ( うたまる ) 2016年5月31日、東京都千代田区にて 本名 椎名 ( しいな ) 巌 ( いわお ) 生年月日 没年月日 2018-07-02 (81歳没) 出身地 ・ (現:真金町) 死没地 ・神奈川県横浜市 師匠 名跡 1. (1951年 - 1961年) 2. 桂米坊(1961年 - 1964年) 3. は『』。 定時制を中途退学した。 の門下となり、を名乗る。 のちにの門下に移り、を名乗った。 当初は中心だったが、晩年は、廃れた演目の発掘や作品などに重点を置いて活動していた。 は『大漁節』。 であるに所属し、や副会長を歴任した。 に5代目に就任し、への移行後も引き続き会長を務めた。 また、地元・横浜においてはの2代目や、のも務めていた。 『』()の放送開始からメンバーとして活躍し 、(平成18年)5月21日から(平成28年)5月22日まで同番組の5代目を務め、同日付でに 就任し、没後は永世名誉司会に名称が変更された。 生涯 幼少時の生い立ち (現在の)にルーツを持つ横浜市中区真金町の遊女屋の長男・椎名貞雄と、瀬又の農家の娘・伊藤ふくの長男として生まれる。 3歳で父をで亡くし、姑と折り合いが悪かった母が家を出たため、9歳から父方の祖母タネに育てられる。 タネ(1879-1953)はで名産品の包装紙を扱う紙卸業「紙宗」の長女で、16歳で柏木田遊郭の若葉楼で働き始め 職種は不明 、30歳で結婚、にはで「東屋」を夫とともに営んでいたが、を機に横浜真金町の永真遊郭で周旋屋を始め、昭和9年から巌が中学に入るころ まで女郎屋「富士楼」を経営、近隣の「ローマ」、「イロハ」の女将と合わせて「真金町の三婆」と呼ばれるほどの気性の女性だった。 戦況が厳しくなり、母方の実家である千葉に疎開している最中にが起き、それをただただ見つめていたという。 また歌丸は千葉疎開中は道端の草やばかり食べていた為、その影響で終戦以降「私ゃね、サツマイモが食えねえんだよ」とサツマイモが食べられなくなってしまったことを語っていた。 この空襲で生家も焼失したが、戦後すぐにタネはを建て「富士楼」の経営を再開。 店も繁盛したため戦後の貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったも持っていた。 このラジオでよく聴いていた落語に影響されたことが落語家になるきっかけとなっている。 祖母に連れられてよく行ったの大衆劇場『敷島座』で芝居の幕間で観たにも夢中になって漫才師になることも考えたが、「わがままな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」と思ったことも落語家のきっかけの一つだという。 小学校4年生の頃には将来落語家になるとすでに決めていた。 小学校の時に自習の時間になると落語を演じていた。 これが非常に好評で、時には隣のクラスの先生から落語をやってくれないかと要請があった。 落語家 『落語など』に掲載された在りし日の歌丸の肖像写真 在学 中に、遊郭内の永真診療所で行われた慰労会の席で、当時二つ目だったの落語を聴いて、落語家になる決意を完全に固めた。 そして、の出版部にいた遠縁の親戚を通じて誰に弟子入りしたらよいかを相談し、「一番面倒見の良い人だから」という理由でを薦められ、中学3年だった(昭和26年)に入門することになる。 ちなみに本人は「噺家になれさえすれば師匠は誰でも良かった」とのこと。 はじめに兄弟子で、後の師匠であるの初名であった「 」を名乗る。 その際今輔から言われたことは 「歌舞伎を見ろ」。 今輔によると歌舞伎を見ることは落語に活きるからだと言い、実際自ら演じる際はそのエピソードをマクラで語っている。 このためか、出演の歌舞伎をよく見に行くという。 歌丸いわく、仕草や立振舞などを見て落語に活かすためとのこと。 ちなみに、吉右衛門いわく、「歌丸師匠は歌舞伎を見るのにいい席に座っている」とし、「舞台から見ても歌丸だとすぐにわかる」らしい。 ただし、両者に直接的な面識はまったくなかったとのことで、歌丸は、吉右衛門と『』で共演していたに「吉右衛門のサインをもらってきてほしい」と頼んだとのことである。 後に吉右衛門は、頭をなでながら「いろいろと照れ屋さん」と歌丸を評している [ ]。 今輔門下から兄弟子・門下へ移籍したのは、当時芸術協会で勃発した(序列)問題 や、今輔が派なのに対し高座でばかり演じていたことに端を発している。 この一件で今児は状態となり、一時、のセールスマンへ転職 するが、の肝いりで落語界に復帰。 しかし今輔が付けた条件により兄弟子・米丸門下となった (米丸も「浜っ子」である)。 なお歌丸の著書によれば新師匠の米丸からは入門に際して寄席の初日と中日には必ず今輔宅に顔を出すことを言いつけられたという。 そのおかげで今輔とは破門以前と同様の関係を維持することができ、後述のように寄席などでの真打昇進興行や口上にも今輔は出演している。 一部の記事では、(昭和36年)に「 今輔死去に伴い兄弟子米丸門下に移籍」との表記があるが、これは誤り。 米丸門下に移籍したこと自体は1961年(昭和36年)のことだが、先述のように今輔一門からの事実上の破門状態になったことによるもので、今輔死去は(昭和51年)である。 現に、(昭和43年)に行われた『』での歌丸の真打昇進披露口上では、今輔と米丸が揃って登場している。 米丸の弟子になって「古今亭今児」から「 桂米坊」に改名したが、「額のあたりが広くなってきた」うえに周囲から子供っぽい、と言われたことから (昭和39年)1月、現在の「 桂歌丸」に再改名。 どちらも米丸が考案して付いた名である。 したがって歌丸は当代が初代である。 歌丸本人は「歌丸」の由来を米丸に尋ねることはなかった。 口調の違いがあったことから 米丸はほとんど稽古を付けず、歌丸(米坊)は専ら米丸のラジオ番組の構成などを手掛けていた。 しかし、これで放送局関係等にコネクションができたほか、ネタ作りの鍛錬になり、古典の掘り起こしの際の一部改作や独自のくすぐりを入れたりするのに役に立ったという。 (昭和53年)に起きたの際、新しくできた落語三遊協会にを通じて、参加を要請されたが、歌丸自身は上記の経緯で米丸一門に移籍したと説明し、参加を断っている。 自身の弟子の高座名は、歌丸の「歌」の文字を頭に付けることを原則としているが、一番下の弟子であったのみ、本人の希望により、二つ目時代は「丸」の付いた名前が欲しいとしたため、「花丸」を名乗らせていたとしている。 歌丸曰く、「学校の時の成績がよっぽど悪かったため、名前だけでも丸が欲しかったのではないか(笑)」として、「花丸」になったとのこと。 なお、あとの4人は、預かり弟子でもある、惣領弟子の(歌丸門下になったと同時に、「歌はち」に改名していた)を含め、すべて、「歌某」の高座名である。 妻・冨士子 桂歌丸の妻。 通称、冨士子夫人。 1932年生まれで歌丸より4歳年上。 の末娘で、歌丸と同じく横浜の出身であり生家の近くに在住していた。 このため、師匠の今輔から勧められた女性を断って、顔見知りであった冨士子夫人と結婚し下積み時代の歌丸を支え続けたと後に語っている。 後ろ姿のみで顔は出していなかった。 その後も番組内で姿を現すことはなかったため、笑点では 「謎のヴェールに包まれた人物」とされている。 (平成19年)に行われた歌丸のとを祝う会では、公の場に夫婦揃って登場した。 高座やで、しばしば「恐妻」「鬼嫁」としてネタにされ、に至っては「小汚ねぇ、クソババァ 」と言われたこともある 歌丸は冨士子夫人を知らない視聴者のために「冨士子ってのは、あたくしの妻(または、かかぁ)なんです。 」と添えていた。 歌丸最後の出演となった2016年5月22日の笑点の生放送に、観客として客席におり、その模様が歌丸勇退特集の地上波日本テレビ系列及びBS日テレの笑点関連番組で放送された。 歌丸死後の笑点追悼特番では冨士子夫人を含む一家で出演している。 桂歌丸死亡事件 笑点の50周年スペシャルで語られたエピソードで、ある日笑点の制作スタッフに日本テレビの報道部から電話が入り「歌丸師匠がお亡くなりになったという情報が入ったが本当か?」という問い合わせがあった。 スタッフは大慌てで歌丸の自宅に電話したところ電話口に冨士子夫人が出て「主人なら落語の地方公演に出かけている」と答え実際に歌丸は公演を行っていたため誤報であることが判明した。 笑点メンバー 前身番組の『』第1回から出演。 『笑点』になった後、当時の司会のとメンバーの対立により(昭和44年)をもって一度降板したが、同年に司会がに交代すると同時に復帰。 その後も病気療養のため休んだ(昭和60年)・、の手術・療養のため休んだ(平成20年)・、およびに伴う入院が長引いたことに伴う休演となった(平成22年)・、他で休演した(平成26年) - 、による休養で休演した(平成27年)・、手術後の体調不良で休演した同年 - を除き、出演を続けていた。 『笑点』がスタートした頃は、司会がであり、が談志とだけであったことから、引け目もあって歌丸の雰囲気は陰気であった。 これは談志がを多くしろと言ったことも手伝った。 当時歌丸が談志の言い付けで行ったブラックユーモアを理解したのはマスコミ関係者などであり、一般には受けなかった。 そうしたことから、歌丸は自分が1年でも持てば良い方だろうと思っていた。 これにより、先述通り1969年4月に番組の路線を巡って歌丸を含めて談志に異を唱えたメンバー全員が降板する事態に発展した。 歌丸曰く、前田武彦とは「畑が違う」ため番組内でのやり取りがちぐはぐになりがちだったといい、が司会になったころからやり取りがスムーズになり、番組の色や歌丸の雰囲気も変わったという。 番組中でも人気を博したのが、との掛け合いであり、小圓遊が歌丸を「!」と罵倒すれば、歌丸は「!」とやり返し、どんどんエスカレートするものであった。 実際は小圓遊との不仲は番組を盛り上げるための番組内での演出であり、番組を離れての二人は1歳年上の歌丸から小圓遊が古典落語の稽古を付けてもらうなどしており、歌丸によれば「アイツとは打ち合わせをしなくても、アドリブでポンポン出てくるんです」との仲であったことを伺わせる発言をしている。 歌丸曰く「本業の落語より稼がせてもらった」と語るほどと小圓遊と仕事をする機会も非常に多かったが、地方公演に行った際に駅のホームで2人が一緒に立っているのを目撃した視聴者から「仲悪いはずなのに」と言われたことで、表立っては一緒にいるときは離れて行動するようになったという。 歌丸曰く、小圓遊との掛け合いはものすごく受けたが、その時「あたしは落語を怠けている」と痛感し、落語をちゃんとやることにしたという。 歌丸は「笑点」を務める中で「」との批判を受けることがあったが、これに対して「マンネリってことは、長く続いているということだからね。 それに、批判するってのは、それだけ見てるってこと、あるいは気にしてくれているってことでしょ」とむしろ喜んでいた。 司会者としては「舞台に並んだら全員同格。 上も下もない」という意識をメンバーに徹底させており、やがメンバーに入った時もはっきりとそのことを言った。 (昭和48年)にと(平成13年)に急性と2度開腹手術を受けているが、いずれも番組に穴を開けることはなかった。 1973年(昭和48年)の手術直後のでの公開録画には、体調が優れない中で同行の上で収録をこなした(この伊勢原での公録の模様を放送した『笑点』は40. (平成13年)放送では手術直後の収録で、積み上げたへの昇降が困難だということで、歌丸は座布団の後ろに座ってその前に座布団を積み上げるという方式を取って臨んでいる。 にの手術を行った際は収録がない時期であり、に腰部脊柱管狭窄症の再手術の際も、収録のない時期に行った。 その後、(平成21年)にはに伴う感染増悪で入院。 50年以上に亘る喫煙の結果と診断される。 このときも笑点の収録のない間の入院で済んだため番組を休演することはなかった。 しかし(平成22年)には、今度は軽い肺炎を起こし入院。 当初での地方収録の前日には退院の見通しであったが、大事を取って延期されることになった(同年に行われた6代目円楽襲名披露パーティは、一時退院の上で会見に臨んだ)ため、同年、放送分の『笑点』は、それぞれとが代理司会をする形で休演。 同日放送分の『』も木久扇が代理でナビゲーターをする形で休んだ。 大喜利では4代目三遊亭小圓遊と、その後6代目圓楽(楽太郎)との罵倒合戦がおなじみであった。 6代目円楽との罵倒合戦については、新人時代にネタに悩んでいた6代目円楽(当時:楽太郎)に対し、「(ネタは)俺のことでいいから」と提案したことに由来しており、小圓遊との罵倒合戦同様、番組上の演出であった。 基本的には仲が良く、歌丸と6代目円楽の二人会などで共演することも多かった。 円楽は円楽一門会所属の為、本来であれば寄席での興行が難しい 6代目圓楽の襲名披露を定席興行で実現させたのも、歌丸の尽力によるものだった。 5代目圓楽の死後、歌丸との縁で「円楽一門会」はへの合流も模索したが、芸協側の反対多数により合流を断念している その後、円楽のみが単身で客員での加入が認められた。 (平成26年)、慢性閉塞性肺疾患の悪化で入院。 に高座復帰したが、で再入院し、に退院。 、復帰後初となる『笑点』の収録を行った。 の紀伊國屋ホールでの公演にはで楽屋入りし、合間に酸素吸入器を付けるなど万全な体調ではなかったが、無事に高座をこなした。 この様子はに『』のコーナー「情熱人」で放映された。 同コーナー内でののとの対談では、今回の病気で引退を考えていたものの、妻から「あなたが落語辞めたら張り合いがなくなる」と説得されて現役続行を決めたことも語った。 、背部(はいぶじょくそう)の手術のため入院。 同月9日に退院していたが、その後、体調不良となり、入院・休養することになる。 『笑点』の収録などの仕事も休む。 22日、病名がだったことがわかる。 同年、退院。 の『笑点』収録で仕事に復帰。 高座にも同月11日からの東京・中席で復帰した。 、日本テレビ系『』内の「」に司会として登場。 腸閉塞からの仕事復帰後では初めての生番組出演となった。 9月13日、『笑点』復帰の回が放送される。 2016年4月30日、同年5月に『笑点』が放送開始50周年を迎えることを機に、5月22日の放送を以て司会者を勇退することを発表し 、番組初の終身名誉司会に就任することとなった。 「歌丸ジェノサイド」 自分の容姿や悪口を大喜利の回答に使うことを許容していた歌丸だが、あまりにも度が過ぎる回答には怒りが頂点に達し回答者の座布団を全没収することがあった。 個人に対する座布団の全没収は歌丸のみならずやも行っていたが、歌丸の場合は 全員の座布団を全部没収したことが何度かあったため、ネット上ではいつしかそれを になぞらえて話題となり 、やではその場面だけを集めた動画集が出回っている。 メンバーの回答に全員が便乗した際に全員全没収となるパターンがほとんどで、、、のいわゆる"ブラック団"による罵倒ネタがきっかけとなることがほとんどだが、たい平のものまねで場が荒らされた時や、の「これで司会は俺のものだ!」発言によるもの、の「抱いてください」発言によるもの など、必ずしも罵倒によって発動するとは限らなかった。 笑点勇退後 、にて(右)と 2016年5月25日、が歌丸のを発表。 31日に内で表彰式が行われ、からが贈られた。 2016年7月26日、で開催された「桂歌丸芸歴65周年記念落語会」に出席したが、翌27日、腸閉塞治療のため再入院したことを明らかにした。 8月5日に退院。 8月11日、で行われた8月中席公演「桂歌丸噺家生活六十五周年記念公演」の初日に出演。 高座に復帰した。 2016年8月27日の『39』では、オープニングで開会宣言を担当。 笑点のオープニング風に、開会宣言を行った。 この年のチャリティーマラソンが笑点メンバーのだったため、たい平以外の笑点メンバーによるマラソン応援団の団長を務めた。 2016年12月14日、定期検診で軽度の肺炎と診断され、入院。 21日に退院し 、22日にのながめ余興場で行われた「桂歌丸芸歴65周年 冬の特選大落語会」で高座に復帰したが 、ドクターストップを振り切っての退院だったことを明らかにしている。 2017年1月1日、正月初席初日に出演したが、翌2日に肺炎で入院した。 18日に退院。 22日、で行われた「新春落語会」で高座復帰した。 2017年3月18日放送(12日収録)の『ショー』(テレビ朝日)の番組内で、引退を検討していることを明らかにした。 2017年4月16日、肺炎のため入院し、国立演芸場の「4月中席」は、16日から20日まで休演。 26日に予定されていた「桂歌丸 高座65周年記念落語会」()は公演中止となった。 今回の肺炎は、酸素の過剰吸引に誘発された稀なケースであったとされている。 5月13日に退院。 6月3日のとの二人会で復帰の予定だったが、前日になって体調不良のため休演することが決まった。 「左肺炎慢性呼吸不全の急性憎悪」と診断され、再入院。 14日に退院。 この日出演予定だった落語会「特選 匠の噺会」では、開演前の舞台に立ってあいさつを行った。 2018年4月19日、にて行われた芸協定席興行で「」を口演。 これが生前最後の高座となった。 その後、同月24日に肺炎が重篤化し横浜市内の病院へ入院。 6月15日の芸協定期総会で、副会長として補佐してきたが歌丸の長期療養中に伴い、副会長在職のまま会長代行に就任した。 最後のテレビ出演は2018年7月1日放送 同年4月7日収録 の「」であった。 死去 同年7月2日11時43分、のため、横浜市内の病院で死去。 81歳没。 翌3日、歌丸が生前所属していた落語芸術協会を代表して、三遊亭小遊三会長代行・副会長、春風亭昇太理事、歌丸の弟弟子であった桂米助()理事、惣領弟子であった理事が揃って会見し、歌丸の想い出と死去に至るまでの経緯を語った。 それによれば、歌丸は入院後まもなく一時危篤状態に陥りながらも持ち直したこと、6月30日までは会話が出来ていて、6月26日に病床の歌丸を見舞った小遊三に対し芸協の今後について熱弁をふるったこと、7月1日には言葉が出なくなり、家族と歌春ら弟子に最期を看取られて息を引き取ったことなどが明かされている。 また、はマスコミ向けのコメントの中で入院後の4月と5月、死去の12日前にあたる2018年6月20日に病室を見舞った事を明かした。 4月に見舞った際には眼が合うだけで会話できなかったが、最後に見舞った6月20日には笑って色々な話をした事や、復帰に向けた喋りのリハビリの様子を見せてくれ、回復していると思った矢先の訃報であった為、言葉にならないとその心境を記した。 円楽が最後に病室を見舞った際には、笑点の番組関係者も同行してその様子をビデオ撮影していた為、2018年7月12日に日本テレビ系列で生放送された追悼特別番組や同年8月の『』で『歌丸生前最後の映像』として放送された。 は「 眞藝院釋歌丸」(しんげいいんしゃくかがん)。 から親しまれてきた芸名に、長年にわたって芸事に真摯に向き合い続けたことと、内ので生まれ育ったことから、『藝』と『眞』の文字が入った。 同月9日に通夜、翌10日に家族葬が営まれその日のうちに横浜市内のでに付された。 同月11日にので芸協・椎名家合同の告別式が行われ、師匠の桂米丸、落語協会会長の、林家木久扇が弔辞、友人を代表して中村吉右衛門が挨拶、落語芸術協会を代表して三遊亭小遊三が謝辞を述べた。 2018年7月22日より、先述通り笑点での肩書が『終身名誉司会』から『永世名誉司会』に変更された。 日本政府は歿日付でに叙した。 晩年は、記者会見において言葉を話さないで人気を得る芸人に対して苦言を呈しており 具体的には、など、名前を伏せつつも誰のことか解る形で指して、記者を笑わせている 、芸事の方向性としては最低限でも言葉で人気を取る芸をやって欲しいとしている。 その他 、にて• 女の風景を描写した「化粧術」の珍芸を持つ。 「もともとあたしは横浜・真金町の遊郭育ち。 女性のお化粧は見慣れているんですよ」と自負を持っていた。 また、姿、姿など、を『笑点』で幾度も公開している。 「浜っ子」であることを誇りにしており、古典落語独特の江戸ことばを使うような噺には近づかなかった。 国外での公演も行う。 過去には・、2006年(平成18年)にはで公演を開催、の字幕付きで『』を演じた。 にはで海外公演を開催し、同じく日本語(の字幕付き)で『尻餅』を披露。 (平成19年)5月には公演も行う。 30代から晩年に至るまで容姿がほとんど変わっていない。 30代前半頃には、既に現在の頭髪に近い状態になっていた。 なお、30代で死去した自身の父はもっと薄かったと述懐している。 多趣味で知られ、足腰が弱る前はに特に熱中していた。 夏は大物狙いでへ、冬はを求めへ通うのを恒例としていた。 他には歌舞伎(前述)・映画鑑賞(特に)、古物店巡り、や・の収集、写真撮影、読書(特にやの作品)を好む。 (平成22年)5月にの2代目館長の就任を要請されていることが明らかになり、同年7月に就任した(初代館長であるが同年2月に死去し館長が不在であった)。 長年『笑点』に出演し、茶の間に広く顔の知れた高齢者であることも相まって、2010年(平成22年)6月、総務省から「地デジ化応援隊」メンバーに起用された。 2月にの会長に就任(現職)。 これをもじって 「怪鳥」あるいは 「怪しい鳥」と自他共にネタにすることが多々ある。 もとは、『笑点』回答者時代に当時の司会・5代目圓楽よりネタにされたことに起因する。 以前は、『笑点』のオープニングでも、風の怪しい鳥に乗った歌丸のアニメーションが放送された時期があった。 19歳の頃からを始め、1日に50本ものを吸うヘビースモーカーであった。 67歳の頃に受けたにおいて、医師から「しないと取り返しのつかないことになる」と言われたが、その後6年間喫煙を続けた。 にと診断され、自身と同じ目に遭う人をなくすため、にが設置した「慢性閉塞性肺疾患(COPD)の予防・早期発見に関する検討会」の患者代表委員を務めた。 、当時の他の笑点メンバーである、、、、、、と共に翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りするため、当初予約した徳島便が大幅に遅延、さらにが悪天候のため予約便が条件付き運行となった。 そこで1つ後の123便に搭乗して、神戸から船に移動する案が浮上したが、こん平が「予約した便で行こう」と提案したために結局元の徳島便に搭乗し、から逃れることができた。 徳島空港到着後、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に同墜落事故を知ったという。 生前、の「炒飯弁当」を好んで食べていたとされるが、歌丸が「炒飯弁当」と言っていたのは、実際には「横浜チャーハン」である。 自身が大師匠格でありながら、落語への研究熱心で真摯な態度は変わらず、先輩である上方の宅へ「稽古をつけていただけませんか」と電話したことがあった。 米朝の息子であるが「父も高齢ですので」と丁重にお断りしたエピソードが残っている。 略歴 、にて(右)と• (26年)11月 - に入門。 兄弟子・の前名・ を名乗る。 (昭和29年)11月 - 、とともに昇進。 (昭和36年) - 兄弟子・米丸門下に移籍。 桂米坊に改名。 (昭和39年)1月 - 桂歌丸に改名。 (昭和40年)3月 - 『』のメンバーとして出演(4月まで)。 (昭和41年)5月 - 日本テレビ『』の大喜利メンバーとして出演(4月から11月までを除く)。 (昭和43年)3月 - 昇進。 (昭和49年)1月 - 横浜・三吉演芸場での独演会を開始。 この頃から演目をにシフトする。 (昭和54年)8月 - と共に社団法人理事就任。 (元年) - 横浜市政100周年にて市民功労賞、同年受賞。 (平成3年) - 受賞。 (平成8年) - 神奈川文化賞受賞。 (平成11年)9月 - の後任で落語芸術協会副会長就任。 (平成16年)2月 - の後任で落語芸術協会5代目会長就任。 (平成17年) - 文部科学大臣賞受賞。 (平成18年)5月 - の降板に伴い、『笑点』の5代目司会者就任。 また、初の自伝『極上歌丸ばなし』を出版。 (平成19年)4月 - 受章。 (平成22年) - の死去に伴い空席となっていたの第2代館長に就任。 (平成23年) - 噺家生活60周年を迎える。 (平成28年) - 「体力の限界」を理由に笑点の司会を引退することを発表。 同年5月22日放送の「笑点 歌丸ラスト大喜利スペシャル」を最後に勇退。 同年5月25日にはよりされることを発表。 (平成30年) - 11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市内の病院で死去。 主な演目• (作:)• 宗悦殺し• 深見新五郎• 豊志賀の死• 勘蔵の死• お累の自害• 湯灌場から聖天山• お熊の懺悔• (作:三遊亭圓朝)• お露と新三郎• お札はがし• 栗橋宿• 関口屋のゆすり• 質屋庫 出演 テレビ 演芸番組 死去時点の出演番組• (・) - 不定期出演。 『お化け長屋』『厩火事』などを口演。 (2016年4月3日 - 、) - 司会者、終身名誉司会• (2016年10月10日 - 、BS日テレ) 過去の出演番組• (1965年3月12日 - 1966年4月22日、日本テレビ) - レギュラー• (1966年5月15日 - 2016年5月22日、日本テレビ) - レギュラー、司会者• (1975年10月5日 - 12月28日、)• (2003年10月12日 - 2007年2月17日、BS日テレ) - ナビゲーター• (2007年4月22日 - 2011年3月13日、) - ナビゲーター• 東京スカイ座 一朝一席(2010年7月4日 - 2014年3月30日、) - ナビゲーター• (2012年10月1日 - 2016年9月26日、BS日テレ)• (2013年4月3日 - 2016年6月15日、BS日テレ) - レギュラー出演降板後も不定期の出演あり。 テレビドラマ• 第12話(1996年、テレビ朝日) - め組の小頭 卯之吉()の父親 治助役• (、日本テレビ)• 桂歌丸(、) ドキュメンタリー• (2007年5月16日、NHK総合)• 落語人生どこまでも〜誰も見たことがない桂歌丸〜(2013年9月14日、)• (2014年11月26日、NHK総合)• (2017年12月20日、NHK総合) 映画• (1967年、)• (1967年、東宝)• 喜劇 大風呂敷(1967年、)• (1977年、)• (1978年、)• 映画館落語 かもめ亭(2012年、マイシアター) 声優• () - 光明大王 役• (2005年、) - 講談風ナレーション• も本人役で出演。 (2012年、) - 役 CM• () - 、と共演。 山形屋海苔店(1970年代)• 「そば喜利」() - 三遊亭小圓遊と共演• (ごろ)• ・ホカロン (中ごろ)• 「ダイキンルームエアコン 黒潮」 1980年代中ごろ - との共演• 「 サンタマルタ オレ」「ネスカフェ 匠」(2005年 - 2006年) - も兼務。 「株券電子化」篇 - 林家木久扇(当時:木久蔵)と6代目三遊亭円楽 当時:楽太郎)との共演• by 「簡単ケータイS 『公園トーク篇』」()• 「TSUTAYA・Tポイントカード」• 「缶ビール6缶ケース・コラボレートTシャツ「福T」プレゼント」(2007年3月)• SpiNet(との両日本法人が展開するCOPD情報サイト) 「対策啓発キャラクター」(12月 - ) 肺に罹患し、退院して日の浅い歌丸が「に伴う感染憎悪」に関する啓発キャラクターとして起用された。 2月には、ディスカバーCOPD研究会のメンバーにもなった。 この研究会の会見の直前に肺炎にかかり入院することとなり、研究会の会見を欠席。 『笑点』も休演することになってしまった。 復帰後、「啓発大使」となった(同広報大使は)。 日本薬師堂 グルコンEX - 三遊亭好楽と共演• 「STOP! 温暖化」(2014年4月 - 2015年3月) 著書• 『岩魚の休日 ちょっとうるさい釣り行脚』、1986年。 (編者)『極上歌丸ばなし』、2006年。 『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』、2010年。 長井好弘(編者)『恩返し 不死鳥ひとり語り』、2012年。 『歌丸極上人生』黄金文庫、2015年。 『極上歌丸ばなし』を改題・加筆・修正の上文庫化、山本は編集協力者としてクレジット• 『歌丸ばなし』、2017年。 『芸は人なり、人生は笑いあり 歌丸ばなし2』、2018年。 長井好弘(編者)『歌丸 不死鳥ひとり語り』、2018年。 『恩返し 不死鳥ひとり語り』を改題・加筆・修正の上文庫化 関連書籍• 『師匠歌丸 背中を追い続けた三十二年』、2018年。 『家の履歴書 文化人・芸術家篇』、2011年。 『笑点五〇年史 1966-2016』、2016年。 編 『桂歌丸 大喜利人生 笑点メンバーが語る不屈の芸人魂 』ぴあ、2018年。 CD・DVD CD• 桂 歌丸1「質屋庫」「菊江の仏壇」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ2(2000. 19発売、)• 桂 歌丸2「左甚五郎-竹の水仙」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ6(2001. 23発売、ソニーミュージック)• 24発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸4「双蝶々雪の子別れ」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ18(2003. 19発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸5「髪結新三」上下 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ25(2004. 23発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸6「小烏丸」「辻八卦」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ30(2005. 18発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸7「藁人形」「井戸の茶碗」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ51(2008. 23発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸8「火焔太鼓」「紙入れ」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ55(2008. 24発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸9「真景累ヶ淵 豊志賀の死」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ59(2010. 7発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸10「中村仲蔵」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ68(2011. 20発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸11「鰍沢」「城木屋」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ71(2011. 27発売、ソニーミュージック)• 高座60周年記念 特撰 桂歌丸(2011. 27発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸12「紺屋高尾」「トーク:歌丸ばなし1」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ95(2014. 25発売、ソニーミュージック)• 桂 歌丸13 「小間物屋政談」「トーク:歌丸ばなし2」 - 「朝日名人会」ライヴシリーズ96(2014. 25発売、ソニーミュージック)• NHK新落語名人選 桂歌丸(2005. 7発売、)• 真景累ヶ淵 CD5枚組(2006. 22発売、)• 真景累ヶ淵 深見新五郎(2006. 22発売、テイチクエンタテインメント)• 真景累ヶ淵 勘蔵の死(2006. 22発売、テイチクエンタテインメント)• 景累累ヶ淵 お累の自害(2006. 22発売、テイチクエンタテインメント)• 真景累ヶ淵 湯灌場から聖天山(2006. 22発売、テイチクエンタテインメント)• 真景累ヶ淵 お熊の懺悔(2006. 22発売、テイチクエンタテインメント) CD・DVD• 牡丹燈篭 お露と新三郎(2006. 27発売、テイチクエンタテインメント)• 牡丹燈篭 お札はがし(2006. 25発売、テイチクエンタテインメント)• 牡丹燈篭 関口屋のゆすり(2006. 20発売、テイチクエンタテインメント)• 牡丹燈篭 完全セット(2006. 20発売、テイチクエンタテインメント)• 乳房榎(2008. 22発売、テイチクエンタテインメント)• 江島屋怪談(2009. 21発売、テイチクエンタテインメント)• DVD BOOK 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録〈第6巻〉 2011. 一門弟子• (師匠・の死去に伴い移籍)• 歌春より前に二人ほど弟子をとっていたが、見習いの時点でやめさせている。 また、枝太郎より後にも弟子入り志願が来ていたが、高齢だったため断念している。 脚注 [] 注釈• 2016年に番組を勇退するまでは、『笑点』開始からはもちろん、『金曜夜席』時代からの唯一の出演者であった。 このことを落語界に入った後に本人に伝えると、柳昇は「こんなに下手なヤツもいるんだから、オレにもできると思ったんでしょ」と言い、にやりと笑ったという(『歌丸 不死鳥ひとり語り』p27)。 、など。 場合によっては貰えたり没収されたりしているほか、歌丸自身も落語の中でネタにしたことがある。 8月23日のチャリティー笑点には出演。 「」(かつての「円楽党」)はから離脱した際に、東京の寄席(・・・)すべてから事実上追放されているため。 経緯はを参照。 ちなみに、 2010年12月19日放送 分で円楽がいつものように歌丸を罵倒した際に、「 …まぁ、芸協無理だろうな。 」と返し、座布団を没収している。 しかしながら実際は、歌丸は円楽一門会の合流には賛成していた。 もっとも、これに関しては他メンバーが便乗したというわけではなく、歌丸が出演する最終回の最終回答だったために「気持ち悪いから」という理由で全員を巻き込んだもの。 余談だが、小遊三の「抱いてください」は5代目圓楽が卒業した回の大喜利でも行っている 、この時は座布団は没収されていないが、歌丸は呆れ顔をしていた。 2006年1月の『大笑点』ではに伝授していた。 一方で、同行する予定だった数名の広告代理店社員は万が一のことを考えて当該便に搭乗し犠牲となった。 この演目を演じる落語家は、以来とされる。 2012年10月1日閲覧。 - スポーツニッポン 2018年7月22日• , p. 151. 朝日新聞. 2015年10月19日. 2016年5月22日閲覧。 , p. ふれあい情報誌『はあと』(ホームページ). 2014年7月25日閲覧。 Web版『有鄰』平成14年6月10日 第415号(ホームページ) 2002年6月10日. 2014年7月25日閲覧。 , p. 『落語など』創刊号、、、183頁。 , p. 趣味時間• , p. 52-53. , p. , p. 261. 小学館 「桂歌丸のわが人生座布団一枚!」p55• , p. , p. , p. , p. 102. , p. 104. , p. 282. , p. , p. 63・65. , p. 109-110. 108. , p. 161-162. , p. 231. , p. 日本テレビ『笑点』P14より。 , p. , p. , p. 落語家の桂歌丸さん、78歳。 5年前にCOPDと診断されました。 2017年6月28日. 2017年7月2日閲覧。 Sponichi Annex 2015年6月19日. 2015年6月19日閲覧。 SANSPO. COM 2015年6月23日. 2015年6月23日閲覧。 産経ニュース 2015年7月11日. 2015年7月11日閲覧。 日刊スポーツ 2015年7月30日. 2015年7月30日閲覧。 ORICON STYLE 2015年8月11日. 2015年8月11日閲覧。 デイリースポーツ online 2015年8月23日. 2015年8月23日閲覧。 デイリースポーツ online 2015年9月13日. 2015年9月13日閲覧。 スポーツニッポン. 2016年4月30日. 2016年4月30日閲覧。 スポニチアネックス・gooニュース. 2016年4月30日. 2016年4月30日閲覧。 スポニチアネックス. 2016年5月25日. 2016年5月25日閲覧。 デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2016年7月27日. 2016年7月27日閲覧。 デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2016年8月12日. 2016年12月15日閲覧。 デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2016年12月15日. 2016年12月15日閲覧。 日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社. 2016年12月21日. 2016年12月21日閲覧。 SANSPO. COM 産経デジタル. 2016年12月22日. 2016年12月22日閲覧。 デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2016年12月26日. 2016年12月26日閲覧。 スポーツ報知 報知新聞社. 2017年1月2日. 2017年1月2日閲覧。 スポーツ報知 報知新聞社. 2017年1月18日. 2017年1月18日閲覧。 スポーツ報知 報知新聞社. 2017年1月22日. 2017年1月22日閲覧。 Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社. 2017年3月15日. 2017年3月15日閲覧。 デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2017年4月17日. 2017年4月17日閲覧。 日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社. 2017年4月18日. 2017年4月18日閲覧。 Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社. 2017年5月8日. 2017年5月8日閲覧。 スポーツ報知 報知新聞社. 2017年5月15日. 2017年6月3日閲覧。 スポーツ報知 報知新聞社. 2017年6月3日. 2017年6月3日閲覧。 スポーツ報知 報知新聞社. 2017年6月3日. 2017年6月3日閲覧。 Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社. 2017年6月14日. 2017年6月14日閲覧。 - スポーツニッポン 2018年7月2日• - スポーツニッポン 2018年6月15日• - スポーツニッポン 2018年7月2日 2018年7月3日アクセス• - スポーツ報知 2018年7月3日 2018年7月3日アクセス• Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社. 2018年7月2日. 2018年7月2日閲覧。 - デイリースポーツ 2018年7月2日• - 日刊スポーツ 2018年7月3日• - スポーツニッポン 2018年7月3日• - デイリースポーツ 2018年7月2日• - デイリースポーツ 2018年7月10日閲覧• - スポーツニッポン 2018年7月11日• - スポーツ報知 2018年7月11日• - スポーツ報知 2018年7月11日• - スポーツ報知 2018年7月11日• - スポーツニッポン 2018年7月11日• 「叙位叙勲」『読売新聞』2018年7月27日朝刊• , p. 178. , p. 148. , p. 230. 会長就任時にから受けた• , p. 238-266. 2010年6月11日. 2019年1月9日閲覧。 2018年7月13日. 2019年1月9日閲覧。 山田隆夫『ボクに運が巡ってくる55の理由』廣済堂出版、2012年5月25日、170—173。 twitter. 2020年3月31日閲覧。 崎陽軒 2019年6月27日. 2020年3月31日閲覧。 共同通信 2016年5月25日 同日閲覧• , p. , p. , p. , p. 100. , p. 101. , p. 104. , p. 106. , p. 109. , p. 110. 160. , p. 129. , p. 112. , p. 114. , p. , p. 116. , p. 118. , p. 161. , p. 121. , p. 125. , p. 126. - スポーツ報知 2017年10月8日• メディア芸術データベース. 2017年3月13日閲覧。 映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」公式サイト. 2012年9月15日閲覧。 放送ライブラリー. 2016年11月7日閲覧。 放送ライブラリー. 2016年11月7日閲覧。 放送ライブラリー. 2016年11月7日閲覧。 放送ライブラリー. 2016年11月7日閲覧。 関連項目• - メンバーの中に歌丸をもじって「」で活動しているがいる。 - 冨士子夫人が以前、崎陽軒店頭・駅売店のシウマイ娘(売り子)をしていた。 外部リンク•

次の

西郷真央デビュー戦5位に悔しさ 師匠ジャンボに“磨き直し”宣言へ【国内女子ツアー LPGA】|GDO ゴルフダイジェスト・オンライン

ど ば 師匠

将棋の藤井聡太七段(17)が28日、最年少での初タイトル獲得へ王手をかけた。 東京・千駄ケ谷「将棋会館」で行われた第91期ヒューリック杯棋聖戦5番勝負第2局で、午後6時38分、90手で先手の渡辺明棋聖(36)を下し、2連勝。 和装での初白星。 中盤から一気に差を広げての圧勝だった。 このまま3連勝で17歳11カ月での奪取となるか? 屋敷伸之九段(48)が持つ18歳6カ月の記録更新を目指す第3局は7月9日、東京都千代田区「都市センターホテル」で行われる。 青雲の志に燃える藤井の和服初勝利は、史上最年少でのタイトル奪取に王手をかける大きな1勝となった。 黒の羽織、濃紺の着物、グレーの仙台平のはかま姿で下座に着く。 師匠の杉本昌隆八段(51)から贈られたもので、着付けは都内の呉服店のスタッフに手伝ってもらったという。 所作は、タイトル戦登場35回、獲得計25期の渡辺にもまったく見劣りしない。 盤上でも見事な指し回しでジリジリとリードを広げ、最後はケタ違いの強さで勝利をもぎ取った。 「積極的に動いていけた。 和服も思ったより快適で普段通りやれた」。 大物ぶりを見せつけた。 棋聖戦挑戦権獲得翌日の5日、師匠に電話で「1局目はスーツにしたい」と申し出た。 開幕戦の第1局は3日後の8日で、時間がなかった。 この日、満を持して和服に袖を通した。 公式戦では1度、和服姿を披露。 やはり師匠のプレゼントだった。 昨年8月、「将棋日本シリーズJTプロ公式戦」1回戦。 この時は三浦弘行九段(46)に敗れ、和服での白星はお預けになったが、タイトル戦という大舞台で獲得した。 プロとして公の場での和服デビューは、昨年4月。 都内で行われた、平成の将棋界を振り返る公開イベントでだった。 同席した男性棋士は、21歳2カ月の史上最年少名人になった谷川浩司九段(58)、タイトル計99期の羽生善治九段(49)、佐藤康光九段(50)森内俊之九段(49)渡辺棋聖と、全員が名人か竜王の獲得経験者だった。 そこに当時、タイトル戦に登場すらしていない藤井が「新時代の名人候補」という期待含みで招かれた。 この時は、書生のようなイメージだったが「(和服の)着心地は良かった。 次は大きな舞台で着てみたい」との思いは、いい形でこの日につながった。 今月はこれで9局目。 木村一基王位(47)への挑戦権も獲得しており、来月からは棋聖戦とのダブル挑戦となる。 過密日程にも「休む時はしっかり休んで、調子を崩さないようにしたい」と語った。 将棋界のタイトル保持者で3年前から替わっていないのは、渡辺の持つ棋王だけ。 藤井が挑戦する棋聖も王位も、毎年王者が交代している。 「(第3局も)気負わず、今までと変わらない気持ちで臨めれば」と、平常心を貫く藤井。 史上最年少タイトル制覇まで、あと1勝だ。 初代棋聖は、故大山康晴十五世名人。 94年度まで半年に1回開催。 95年度から年に1回に。 96年度には、当時のタイトル全7冠を保持していた羽生善治が三浦弘行に敗れ、6冠に後退した。 タイトル名の「棋聖」は、将棋や囲碁で抜群の才能を示す者への尊称。 特に将棋では、江戸時代末期に出現した不世出の天才棋士、天野宗歩を指すことが多い。 双方1分将棋の終盤、16手連続の王手をしのいだ藤井が午後7時44分、157手で勝ち、17歳10カ月20日の史上最年少挑戦記録達成を白星で飾った。

次の

師弟

ど ば 師匠

将棋の最年少棋士・七段が、3組戦決勝で、師匠である八段(51)に95手で勝利し、史上初となる4期連続優勝を達成、本戦出場を果たした。 記録もさることながら、2度目となる師弟対決に、杉本八段は戦ばりに和服姿で登場。 対局後のでは「に対する礼儀だなと思いました」と語り、の感動を呼んだ。 から始まった対局は、の先手で始まると、対局から間経過したになっても、本格的な戦いが始まらないゆったりとした展開に。 それでも中盤、終盤と一気に進行すると、最年少でのにも挑戦中のが、一気の攻めで快勝。 新たな記録を樹立した。 相変わらずの記録ラッシュのだが、この日の注目となったのが杉本八段の和服姿。 規定はないものの、戦の番勝負に出場する棋士が和服で臨むことが多く、通常の対局でも、ここ一番という対局に気合を入れようという棋士もいる。 2年3カ月ぶり2度目の師弟対決は、3組戦という大きな舞台。 杉本八段は「戦の決勝戦という大きな舞台で、相手がということもあり、気合の入る条件がたくさん揃う対局でした。 ここで気合を入れなければ入れる場所がないので、自分の万全の状態で出ていくのが、に対する礼儀だなと思いました」と、理由を明かした。 も「大きな舞台で楽しみにしていました。 前回(一次予選)は3時間だったんですが、今回は持ち時間が5時間だったので、1手1手じっくり指せたのかなと思います」と、師匠との時間を堪能したが、師匠・杉本八段の姿勢と言動にはも感動した様子。 中継していたの欄には「感動した!」「めっちゃいい話」「涙出た」など、弟子を思い、また勝負師としても礼を尽くす姿に、絶賛の声が相次いでいた。 (/将棋より).

次の