日本 で 一 番 長い トンネル。 【珍名物】静岡県・伊東 日本一短い横断歩道を徹底調査してみた件

日本一長いトンネルは18.6kmもある世界で2番目の長さ

日本 で 一 番 長い トンネル

日本一短いトンネルだった、吾妻線樽沢トンネル7. 木々に覆われて、その長さは判りにくかった。 日本で一番短いトンネルとして知られていた、吾妻(あがつま)線の樽沢トンネル7. 2mが、去る9月25日に廃止されました。 民主党政権下で建設が凍結されながら、結局、建設が再開された八ッ場(やんば)ダムの事前準備工事が終わり、いよいよ本体工事に着手することになったためです。 樽沢トンネルを含む吾妻線岩島〜川原湯温泉間には、吾妻渓谷の対岸の山中を抜ける新線が完成し、代行バス輸送を経て、10月1日から新線での運転が始まっています。 同時に川原湯温泉駅も高台の新線に移転し、その長野原草津口側で旧線と合流することになりました。 廃止前には多くの方が訪れた樽沢トンネルですが、近年、トンネルまわりに木々が茂り、沿道からはその短さを実感しにくくなっていました。 一方、走る列車内にいると、あまりの短さにトンネルをくぐったかどうか判然としない思いをさせられたものです。 なお、八ッ場ダム本体は旧・川原湯温泉駅近くに建設されるため、樽沢トンネル付近がダム湖に沈むわけではありません。 沿線には渓谷美と紅葉で知られる吾妻渓谷もあるだけに、廃線跡を活用してトロッコ列車を走らせるなどする価値があるように思われますが、いまのところ具体的な動きは聞こえてきていません。 五能線の仙北岩トンネル9. 5mは、JR東日本で一番短いトンネルとなった。 でも、日本一ではない… 樽沢トンネル廃止の報道のなかに、次に最短トンネルとなるのは、JR東日本五能線の仙北岩トンネル9. 5mという報道がありました。 群馬県から青森県に最短が移動したのです。 そこで、その様子を見に行ってみました。 五能線は、世界遺産の白神山地を避けるようにして日本海沿いを走る路線で、その海の眺めのすばらしさが知られています。 以前は単なるローカル線だったのですが、いまでは日本海を眺めつつ白神山地を訪れる観光客を運ぶ「リゾートしらかみ」が、観光シーズンには1日3往復走り、冬場でも週末を中心に1日2往復が走る観光路線となっています。 仙北岩トンネルは、そんな五能線らしい場所にありました。 入江沿いの線路が海に突き出した岩を抜けているのです。 同トンネルの弘前側にはさらに長いトンネルが続いているので、乗っていると一つのトンネルと感じるのではないかと思われます。 山がせまる場所で海に沿った五能線を象徴するような光景ですから、これに最短トンネルの冠が加わって、これから人気が出るものと思います。 ところが、その最短トンネルの報には「JR東日本として」の一文がついていました。 つまり、日本一ではないのです。 9月25日から日本一短いトンネルとなった、呉線の川尻トンネル8. 上が道になっていて、トンネルらしくない…樽沢トンネルに代わって日本一短いトンネルとなったのは、JR西日本呉線の川尻トンネル8. 7mです。 そこで、ここへも行ってみました。 こんどは、広島県です。 音戸ノ瀬戸や戦艦大和など、古くから瀬戸内海の港町として知られる呉市内にあるトンネルですが、呉駅からは東(三原側)へ5駅目の安芸川尻駅が最寄り駅となります。 ただし、3駅目の広駅までの列車は多いものの、その先は日中1時間に1本と列車本数が減ります。 筆者も、四国周遊券をもって仁方駅から港まで歩いた記憶があります。 さて、安芸川尻駅で下車すると、三原側の構内外れに目指す川尻トンネルがありました。 でも、見たところ跨線橋じゃないの? といった感じで、ここまでに記してきた2トンネルと比べて、どうも感動が薄い印象です。 実際、トンネル上は旧道だったようで、いまは歩道になっていました。 さらに、その歩道に隣接して2車線の道路があり、川尻トンネルの三原側はその道路の跨線橋が続いています。 つまり、パッと見では、トンネルと跨線橋が連続して一つの跨線橋になっている感じなのです。 それでも、よく見るとトンネルポータルは馬蹄形をしていて、跨線橋部分とは断面が違います。 また、トンネル出口左右の斜面は石積みとなっていて、もともとトンネルポータルも連続する石積みであったであろうことも感じられます。 これが、日本最短トンネルの現状でした。 掲載日:2014年11月21日 【旅行特集ページ】•

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【珍名物】静岡県・伊東 日本一短い横断歩道を徹底調査してみた件

日本 で 一 番 長い トンネル

日本一長い無料道路トンネルが東北に誕生したのをご存じだろうか。 福島市と山形県米沢市を結ぶ「栗子トンネル」で、長さは8972メートル。 有料トンネルを含めると全国で5番目の長さだとか。 1998年度に当時の日本道路公団が着工したが、採算を取るのが難しいとして、2003年度から国が税金を投じる「新直轄方式」で整備した。 並行する国道13号の栗子峠は、急勾配や急カーブが連続し、冬季は降雪で大型車が年130台も立ち往生する東北随一の難所だ。 実際に栗子トンネルを走ると、雪の降らない道を体験でき、ここで一息つくことができる。 新直轄方式については、無駄な道路をつくらないという議論が、いつの間にか公団民営化後の新会社に赤字道路をつくらせない話にすり替わり、財政再建に逆行したという意見も根強い。 とはいえ、冬季に安心して運転できることはありがたい。 4月には同区間にある米沢中央IC(米沢市)近くに道の駅が開設される予定だ。 今春は日本一のトンネルを通って、東北へのドライブをお勧めしたい。 日刊工業新聞2018年1月29日.

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日本で最も古いトンネルは?

日本 で 一 番 長い トンネル

私たちになじみが深いのは、鉄道用トンネルと道路用トンネルですが、地下鉄もトンネルの一つですし、道路の下につくられる上下水道や電気・電線管路も、トンネルの一つです。 また、ダム工事では、資材運搬用のトンネルや、水路用のトンネルを必ずいくつか掘ります。 ところで、世界ではじめてトンネルが掘られたのは、いつ頃のことでしょうか。 おどろくべきことに、それは4,000年以上も前のことなのです。 今から4,000年以上も昔、古代文明のさかえだバビロニア (いまのイラク)の都の真中を流れるユーフラテス川の底に、900メートルものトンネルが掘られ、川をへだてた二つの宮殿をつなぎました。 このトンネルは幅3. 6メートル、高さ4. 5メートル、このうち約180メートルが川底の部分でした。 なにしろ、遠い昔のことですから、どのようにしてつくったものか、くわしいことはわかっていません。 おそらく川の水がへったときに、仮の水路で水をほかの場所へみちびき、川の底に深い溝を掘り、レンガを積み重ねてトンネルをつくり、元通り埋立てて、つくりあげたものと思われます。 何の目的で、このようなトンネルをつくったのでしょうか。 王様が絶対的な権力をにぎっていた時代ですから、何か宗教上の目的のために掘られたものと考えられます。 工事には、多くの奴隷が使われたことでしょう。 しかし、人類がつくった最初のトンネルが、水底トンネルだというのは、たのもしいことではありませんか。 同じ頃エジプトでも、ピラミッドの地下に長い曲がりくねったトンネルが掘られ、王様の遺体を安置してある場所へ、なかなか行けないような工夫がされていました。 古代エジプトの王族は、遺体と一緒に宝石や財産を埋める習慣があったので、盗難を防ぐために道のくねったトンネルをつくったのです。 このトンネルは、石の壁でできていました。 その後二千年の間、ギリツアーローマ時代までに掘られた主なトンネルは、戦争用のトンネルと、水道用のトンネルでした。 水道用のトンネルでは、紀元前7世紀の頃、ギリシアのエーゲ海のサモス島につくられたものが有名です。 全長約2キロで、幅と高さはともに2メートル。 ハンマーとタガネを使って手で掘ったもので、水はトンネルの中をさらに土管で通るようになっています。 ローマ時代になると、水道用のトンネルは、ますますすばらしいものができるようになりました。 通行のためのトンネルも掘られました。 長さ何10キロもあるローマの水道トンネルは、数万人の奴隷が鑿 (ノミ)だけをつかって、10年以上もかかって掘ったものだといわれています。 また 古代ローマでは、地下に墓地 (カタコーム)をつくりましたが、その墓地への 通路はトンネルでした。 ローマやナポリには、トンネルの中に墓のある遺跡が、いくつも残っています。 この地下の墓地は、キリスト教が迫害された時代には、教徒たちの秘密の会合所ともなりました。 紀元200年頃に掘られたもので、これらの墓地には、600万人もの遺体がほうむられています。 複雑に曲がりくねった地下の墓をつなぐトンネルは、うっかり迷いこんだら、出られないといわれています。 しかし中世になると水道の発達は全くとまり、トンネルといえるほどの工事は、ほとんど行なわれなくなりました。 わずかに豪族の城の秘密の通路や、戦争用の狭い地下道が掘られたくらいです。 交通や貿易がさかんになり、物資をより速くより多く運ぶことが必要になったからです。 最初の間は、もっぱら 運河トンネルがつくられました。 汽車が発明されるまでは、船による運搬がもっとも便利だったからです。 運河とは、海と海、川と川、あるいは海と川とを陸上でつなぐための、人工的につくられた水路のことです。 もっとも距離の短い運河をつくるには、第三の方法をとることです。 そこで、運河トンネルがさかんに掘られたのです。 新しいトンネル時代の口火を切ったのは、1679年から1681年までにつくられた、フランスのランゲドッグ運河のトンネル工事でした。 この工事で、はじめて 火薬を使ってトンネルが掘られたのです。 ノミとツチの時代は終わったのです。 これは、トンネルの歴史の上で、画期的なできごとでした。 運河トンネル マルセーユ〜ローヌ運河(フランス) 19世紀になり鉄道がめざましく発達すると、運河トンネルにかわって、鉄道用トンネルの時代となりました。 鉄道の発達したイギリスをはじめ、ヨーロッパやアメリカで、次々に山がくりぬかれましたが、その中で有名なのは、アルプス山脈を貫くモンスニー・トンネルでしょう。 ヨーロッパを南北にわけたアルプス山脈は、飛ぶ鳥も羽根を休めるといわれる交通の難所でした。 フランスとイタリアは、ここを貫くトンネルを計画したのです。 工事にとりかかったのは、1857年でした。 山が険しい上に、その距離は13キロもありました。 それまでの鉄道トンネルでは、イギリスのボックス・トンネルが最長で、2. 9キロでしたから、モンスニー・トンネルは、その4倍以上の長さです。 しかも、アルプス山脈は、岩盤が非常に堅いのです。 多くの学者は、坑夫が地中の熱と空気の不足のために、死の苦しみにあうだろうといって、この計画に反対しました。 しかしフランスとイタリアの技術者は、その反対をおしきって、14年の年月をついやしてこの工事を完成させたのです。 フランスとイタリアの両方から掘り進んだ坑道が、モンスニー山の真下で出合ったのは、1870年の12月のことでした。 その頃のトンネル工事は、命がけの工事でした。 あらかじめ地質を調べたり、掘り方の実験をしたりしないで、ぶっつけ本番で掘ったからです。 そのため、このモンスニー・トンネルの工事でも、40人の貴い人命を失ないました。 モンスニー・トンネルの成功は人々に刺激をあたえ、その後アルプスの山を貫くトンネルが、たくさんつくられました。 それらの中でもっとも長いのが、シンプロン・トンネルです。 またこのトンネルは、工事のむずかしかったことでも有名です。 フランスからスイスをへてイタリアへつづくシンプロン街道は、昔から険しい山道として有名でしたが、三つの国をつなぐ、唯一の交通路でもありました。 紀元前200年頃、ハンニバル将軍が、カルタゴ (いまの北アフリカ)の軍勢をひきつれて、フランスからローマへ攻めいったのも、今から約170年前に、ナポレオンがイタリア遠征のときにえらんだ道も、この街道でした。 シンプロン・トンネル イタリア側入口 シンプロン付近の地図 シンプロン・トンネル スイス側入口 シンプロン・トンネルは、この街道の真下に掘られることになりました。 全長20キロにもおよぶ長いトンネルです。 この計画にもっとも熱心だったのは、スイスでした。 そしてフランスとイタリアが、トンネル建設に協力することになり、ジュラ・シンプロン会社が設立されて、76億フランの莫大な費用を投じて、工事が開始されました。 トンネルは、スイス側のブリグとイタリア側のイゼールとの両方から、掘り進められることになりました。 工事が開始されたのは、1898年11月13日のことでした。 硬い岩に削岩機で穴をあけ、火薬を仕かけて爆破しながら、工事は進められていきました。 火薬には、ダイナマイトが使われました。 スウェーデンの発明家ノーベルが、ニトログリセリンを利用した火薬、ダイナマイトを発明したのは、1865年のことでした。 この発明のおかげで、トンネルを掘る技術は、さらに一歩、前進したのです。 しかしダイナマイトを使っても、一日に10メートル掘り進むのがやっとでした。 削岩機の刄がこぼれてしまうような、硬い岩盤に出合うことも、しばしばでした。 このトンネルでは、はじめに上下二本の穴を掘り進め、中間の床をこわして一つの穴とする工法が用いられました。 硬い岩盤とならんで、手ごわい敵となったのは、熱気と湧水でした。 トンネルを掘り進めるにつれ、トンネル内の温度は高くなり、摂氏40度から50度を越すことさえありました。 こんなときは外から冷たい空気を送りこみましたが、坑夫たちは汗みどろになり、長い時間の作業はできませんでした。 アルプス山脈にはいくつかの湖があり、数多くの川が流れています。 湖や川の水が地層の割目をつたって、水脈となって走っていることは、充分考えられます。 もしトンネルが、その水脈とぶつかったら、どんなことになるでしょう。 水の量は、毎秒1. 5トンというものすごさで、たちまちトンネルの中は水びたしとなりました。 この水は、トンネルの上を流れているネムプロ川からもれてきたものとわかりました。 このため、工事は数週間も中止されました。 つづいて同じ年の7月11日には、やはりトンネルの上の湖から水が流れこみ、トンネルの中はまた水びたしとなりました。 このため、湖の水がひあがったといいますから、出水のものすごさが、想像できます。 このようなトンネル内での出水は、大小とりまぜて228回も起こりました。 しかし、技術者と坑夫たちのたゆみない努力がみのって、世紀の難工事といわれたシンプロン・トンネルは、1905年2月、ついに貫通しました。 シンプロン峠の真下で、二つのトンネルの出合ったところは、ほとんどぴったり合っていて、その食い違いは横わずかに20センチ、高さわずか8センチでした。 トンネルは、普通両側から掘り進められるので、掘りにかかるまえに、綿密な測量をして、二つのトンネルがうまく連絡するように、設計することになっています。 シンプロン・トンネルの場合も、予備測量はきわめて精密に行なわれましたが、その測量はほとんど狂いのなかったことが証明されたわけです。 こうして、シンプロン・トンネルは完成し、1906年1月25日には、最初の旅客列車がこのトンネルを通過しました。 そして、1922年10月には、複線工事も完了しました。 なおこの工事では、60人の犠牲者が出ました。 それらの人々の霊をなぐさめるための記念碑が、イタリア側のトンネル入口に建てられています。 このシンプロン・トンネルは、現在でも世界でもっとも長いトンネルとなっています。 しかし、時速90キロの列車は、わずか13分あまりで、通りぬけてしまいます。 かって「私の辞書には不可能という言葉はない」と豪語した英雄ナポレオンも、自分が死んでわずか100年後に、アルプスにトンネルが掘られ、列車がくぐりぬけるとは、想像もしなかったでしょう。 テムズ・トンネルは、最初にできたトンネルで、ロンドン橋から約2キロメートル下がったところにあります。 テムズ・トンネルが計画されたのは、1798年のことでした。 工事はまず、岸に立坑を掘ることから始まりましたが、水のわき出る土砂にぶつかったため、工事は中止されました。 当時の能力の小さいポンプでは、湧水を汲み出すことができなかったからです。 立坑がどうやらできあがったのは、1802年のことでした。 次は向こう岸にむかって、水底にトンネルを掘り始める番です。 しかし最初から大きなトンネルを掘るのは、むりです。 そこでまず、小さなトンネル (これを導坑といいます)を掘ることになりました。 導坑とはその名のとおり、本トンネルを導くためのトンネルで、山にトンネルを掘る場合も、最初に導坑を掘るのが普通です。 導坑を掘るために招かれたのが、36歳の技師トレビシックでした。 トレビシックは、蒸気機関を使ってはじめて自動車を走らせた発明家です。 ロンドン テムズ川 彼が工事を始めたのは、1807年の8月でした。 導坑の大きさは、高さ1. 5メートル、底の幅0. 9メートル、上の幅0. 5メートルという狭いもので、人間一人が作業するのがやっとでした。 トレビシックは、その周りを丈夫な板で囲いながら、水面下約20メートルを掘り進んでいきました。 蒸気機関が排水ポンプを動かし、またかんたんな換気装置をも動かしました。 水を通しやすい土砂にぶつかったときは、天井に長い鋼の板を打ちこんで、トンネルがくずれるのを防ぎました。 こうして5ヵ月、290メートル掘り進んで、向こう岸まであと43メートルあますだけになったときでした。 突然、切り羽から土砂が噴き出し、川の水が渦となって流れこんできました。 「逃げろ!」 トレビシックと坑夫たちは、夢中で逃げだしました。 狭い坑内で押木に頭をぶっつけながら、半分は泳ぎ半分はよろめきながら走りました。 水かさはしだいにまし、立坑にたどりつくころには、天井に頭をくっつけて、やっと息をするありさまでした。 帽子も靴もなくし、泥まみれになって帰ってきたトレビシックを見て、奥さんはおどろきました。 水底にトンネルを掘ると聞いて、大きな事故でも起こらなければいいがと、かねがね心をいためていたのです。 「もうトンネルのことはあきらめて、故郷に帰りましょう」 しかしトレビシックは、奥さんの言葉を聞き入れようとはしませんでした。 「あとわずかだ。 かならず、掘りぬいてみせる」 トンネルに水が流れこんだのは、川底に穴があいたためでした。 トレビシックは、粘土を袋につめてボートに乗せ、川底に袋を投げこんで、その穴をふさぎました。 トンネルの水はポンプでかいだされ、一週間後に工事は再開されました。 しかし残念なことに、トンネルは再び浸水に見まわれました。 トレビシックは、もう一度、袋づめの粘土にたよろうとしましたが、トンネル会社はそれをむだなことだと考えて、許しませんでした。 こうしてトレビシックの努力は、水の泡となってしまったのです。 この間に、馬車を中心とするロンドンの交通は、いっそう激しくなりました。 人々は、テムズ・トンネルのできるのを待ち望んでいました。 ちょうどその頃、ロンドンの金持ちたちに、水底トンネルの計画を説いてまわっている年配の紳士がいました。 ブルネルの肖像 テムズ・トンネルに使ったブルネルのシールド フランス生まれの技師のブルネルでした。 「私が考案したシールドを使えば、かならずテムズ・トンネルはできあがります」 ブルネルの説得は、自信にみちていました。 ブルネルがトンネルを掘る特別の方法、 シールド工法を発明し、特許をとったのは1818年のことでした。 そして彼は、テムズ川の水底にトンネルを掘ることを、天が自分にあたえた使命であると、かたく信じていました。 シールド工法とは、次のような仕組の掘り方です。 まず立坑にシールドとよばれる丈夫な鉄でつくった丸い筒をおろし、それをスクリュージャッキで水平に前進させます。 シールドの先には穴があいていて、そこからツルハシを持った作業員が、トンネルを掘り進んでいきます。 掘り進むと同時にシールドが前進し、掘ったトンネルの壁をふさぎます。 これと同時にシールドの後方では、レンガを巻いてトンネルの仕上げをします。 シールドとは英語で楯 (たて)という意味ですが、兵士が楯で身を守りながらたたかうように、作業員はシールドで身を守りながら、トンネルを掘り進むわけです。 ブルネルはこの工法を、フナクイムシが舟の木に穴をおけるやり方を見て、思いついたといわれています。 フナクイムシは、頭の先をつっこんで木に穴を掘っていきますが、自分の通ったあとには、水が入ってこないように、分泌 (ぶんひつ)物でふたをしてしまいます。 このシールド工法は、特に土の柔らかいところを掘るのにむいています。 なるほどこの方法なら、テムズ川の水底にトンネルを掘ることも、さほどむずかしくないと思われました。 やがてブルネルは熱心な支持者を持つようになり、それらの人々によってテムズ・トンネル会社が設立されました。 ついで1824年には、テムズの水底にトンネルを通す法律が、イギリスの議会を通過しました。 1825年11月28日、世界最初のシールドが、スクリュージャッキの力で動き始めました。 このシールドは円型ではなく四角い形をしていて、高さ6. 5メートル、幅10. 8メートル、長さ1. 8メートル、そして重さは90トンもありました。 四角い形にしたのは、人が通りやすいようにしたためでした。 この巨大なシールドは、内部が12の長方形の枠に分かれ、それぞれの枠がさらに上・中・下の三つの部屋に分かれていました。 つまり坑夫が立って働ける広さの部屋が、36あったわけです。 そのうえ、各部屋には、47ページの図のように、切り羽をおさえつける鏡板とよばれる板が10枚以上もあって、トンネルを掘る作業は、実に慎重に進められるようになっていました。 シールドは、一週に2〜3メートルの割合で進んでいきました。 ブルネルのほか、息子のイザンバードと技師のアームストロングが、現場の指揮にあたりました。 はじめのうち坑夫たちは、そのうち生き埋めになるのではないかと、おっかなびっくり働いていました。 しかしまもなく、シールドの中が安全だということがわかって、安心して仕事にはげむようになりました。 川の水はたえずもれてきていましたが、ポンプで汲み出せる量でした。 坑夫がストライキを起こし、シールドの進行がとまったこともありましたが、これも無事に切りぬけました。 1827年5月、掘削が始って一年半たったある日のことです。 テムズ川をさかのぼる石炭運搬船の一団が、シールドのちょうどま上に、錨をおろしました。 川の底とシールドがもぐりこんでいる位置との間は、わずか数メートルの土かぶりがあるだけです。 川底に穴があきはしないかと、ブルネルは不安でした。 その予感はあたっていました。 5月18日の夕方、シールドの鏡板の隙間から激しく水が吹きだし、トンネル内はたちまち水びたしになりました。 石炭運搬船の錨が、川底に穴をあけたのです。 だが、せっかく途中まで掘りあげたトンネルです。 ブルネルはトレビシックの経験にならって、粘土と砂利を川底の穴へすてて穴をふさぎ、ポンプでトンネル内の水を汲み出しました。 4ヵ月後に、シールドは再び前進を開始しました。 しかし翌年の1月12日、またも大出水が起こり、逃げおくれた6人の坑夫が、トンネル内でおぼれて死んでしまいました。 この事故で、年老いたブルネルにかわって第一線で指揮をとっていた息子のイザンバードも、大けがをしました。 そこで技師のビーミッシが、主任技師に任命されました。 このあと、前のときと同じ方法で、トンネルの水が汲み出されました。 水のひいたトンネルへ入ってみると、シールドは傾いていましたが、できあがったトンネルの壁は、少しもいたんでいませんでした。 しかしトンネル会社は、工事を再開しようとはしませんでした。 もうすっかり資金を使いつくしていたからです。 3年、5年と、月日が流れていきました。 テムズ・トンネルは、未完成のままでしたが、レンガで巻き立てられたトンネルは、実に立派なものでした。 トンネルを掘っているときも、トンネル会社は資金のたしにするために、入場料をとって一般の人々にトンネルを見学させていましたが、工事が中止されてからは、もっぱら名所として利用されました。 外国からの旅行者も、かならずここを訪れました。 イギリスの国民は、このトンネルが完成される日がくることを、なお待ち望んでいました。 そして、60歳をはるかに越えたブルネルは、日夜、シールドの改良に没頭していました。 政府がテムズ・トンネル完成のために、お金を貸すことになったからでした。 さびついた古いシールドはとりこわされ、重さ140トンの、新しいシールドが組み立てられました。 もちろん、ブルネルが設計したシールドです。 シールドは9年ぶりに、前進を開始しました。 これまでの浸水は、いつも満潮のときに起こっていました。 テムズ川は海とつながっているので、満潮の時間になると、川の水かさがふえます。 水かさがふえると、川底から浅い位置を掘り進んでいるシールド内に、もれてくる水の量もふえてきます。 シールドの中で、満潮と干潮の時間がわかるほどでした。 6月21日、ちょうど満潮の時間に、川の水が鏡板のすきまから、流れこみはじめました。 いままでなら、すぐさま逃げだしたところです。 しかし坑夫たちは、落着きはらってめいめいの部署を守り、ポンプをフルに動かせて、トンネルが水びたしになるのを防ぎました。 潮がひくとすぐに、ビーミッシは、川底に粘土と砂利をすてさせ、川床を固めさせました。 このため、次の満潮には、浸水がありませんでした。 再び浸水がないように、シールドの上部の鏡板を鉄の板にしたのも、このときです。 主任技師のビーミッシがトンネルを去ったのは、それからまもなくでした。 彼は、この工事で一眼を失明し、残りの一眼もわずらっていました。 それでもなお第一線で指揮をとっていたのですが、坑内の悪い空気のためにすっかり体をこわし、ついにトンネルを去ることになったのです。 そして技師のページが、そのあとを引継ぎました。 都会の川の底には、ごみがうず高く積もっています。 このごみのつくった土は、さかんにメタンガスを発生させます。 テムズ川の場合も同じでした。 満潮のとき、シールド内にもれてくる川の水は、たえられない悪臭を放ちましたが、これもメタンガスのせいでした。 それが急にひどくなったのは、1837年の6月からでした。 シールドの小部屋に充満したガスは、しばしば爆発を起こすまでになりました。 満潮の時間は、水もれが多いので、坑夫たちの一番いそがしいときです。 ガス爆発で小部屋はかまどのように熱くなり、炎は坑夫たちのまゆをこがしたり、体にやけどをおわせたりしました。 このため、めくらになった人もいます。 あるときは、4時間近くも、ガスが燃え続けたこともあります。 ガスが爆発を起こさないときは、坑夫たちは激しい頭痛におそわれました。 気違いになる人さえいました。 人々は、これをトンネル病とよびました。 こうした悪条件とたたかいながら、シールドは、一メートルまた一メートル、前進していきました。 70歳に近いブルネルは、昼夜を問わず2時間ごとに現場からの報告を受け、また毎朝かならずトンネルに入って、切り羽の状態を確かめました。 工事が再開されて5年めの1841年春、トンネルは347メートル掘り進められ、あと約10メートルをあますだけとなりました。 そこで向こう岸に立坑を掘り、シールドに向かって導坑を掘り進めました。 導坑ができるとシールドは前進を開始し、この年の11月16日、シールドはついに向こう岸の立坑にたっしたのでした。 テムズ・トンネルが計画されてから、実に44年め、ブルネルのシールドが動き始めてから、17年めのことでした。 ときに、ブルネルは72歳でした。 完成したテムズ・トンネルは、中央を厚いレンガの壁で仕切られた、二本のアーチ型のトンネルとなっています。 トンネルの大きさは、それぞれ幅4. 3メートル、高さ4. 8メートルで、巨大なシールドを使っただけであって、大トンネルの名にふさわしいものです。 なお、川底からトンネルまでの土かぶりは、もっとも大きいところで13メートル、もっとも小さいところでは、わずか7メートルとなっています。 テムズ・トンネルはバビロンの水底トンネルが掘られてから、実に4,000年ぶりに掘られた、世界で二番めの水底トンネルでした。 その意味でも近代のトンネル史上、記念すべきトンネルのひとつです。 そして現在も、ニューヨーク・パリ・東京をしのいで、世界で一番長い地下鉄の距離をほこっています。 ところで、 地下鉄の生みの親は、ブルネルだといっても、いいすぎではないでしょう。 なぜならロンドンの地下鉄は、テムズ・トンネルの成功がきっかけとなって、そのほとんどがシールド工法で掘られたからです。 ロンドンのような地質の柔らかいところでは、シールド工法でなければ、地下鉄は掘れなかったのです。 その頃のロンドンは世界一の大都会で、狭い道には馬車や人がひしめき、交通はマヒ状態におちいっていました。 そこで、地下鉄をつくろうと計画したのでした。 工事は、1861年から開始され、3年後には、まず5. 5キロの地下鉄が開通し、1883年頃までにはロンドンの町を地下鉄で一周できる32キロの環状線が完成しました。 この間にブルネルが考案したシールド工法も、グレートヘッドとバーローの二人の技師によって、鋼鉄の丸いシールドを使うように改良されました。 このシールドは、テムズ川の下をくぐりぬける地下鉄の工事で活躍しました。 この頃はまだ電気機関車が発明されていなかったので、 地下鉄にも蒸気機関車が使われました。 地下鉄の中を蒸気機関車が煙をはきながら走るのですから、列車や駅はもちろん、乗客もススで真っ黒になってしまいました。 それでも、ロンドンっ子たちは「地下鉄は速くて便利だ」と大よろこびでした。 しかしイギリスには品質のよい無煙炭が多かったので、私たちが考えるほど、ひどい煙やススが出たわけではありません。 まだ電灯のなかった時代なので、車内の照明には、石油ランプが用いられました。 またトンネル内に煙がこもることをさけるために、車内ではもちろん、ホームでも煙草をすうことはかたく禁じられていました。 ロンドン市街の混雑ぶり ロンドンの地下鉄、まだ電車がなかったのでSLの地下鉄だった。 但しイギリスの石炭は無煙炭だったので、煙は出なかった そのことで、ゆかいな話が残っています。 あるとき、地下鉄の汽車の車掌が、ホームで煙草をすっている人を見つけました。 車掌がホームにおりて、その人に注意をあたえているうちに、汽車は発車してしまいました。 おどろいた車掌は、階段をかけのぼって駅からおもてへとびだし、次の駅まで地上を走り、今度は階段をかけおりて、自分の汽車をつかまえたといいます。 地下鉄に蒸気機関車が走っていた時代にふさわしい、いかにものんびりした話ではありませんか。 しかし、それ以前にも、人の通路や水道のために掘られたトンネルは、いくつかあります。 今からおよそ250年ばかり前のこと、耶馬渓をおとずれた一人の僧がいました。 名を禅海 (ぜんかい)といい、生まれたところは越後 (いまの新潟県)とも、四国だともいわれています。 耶馬渓は山国川にそう険しい台地で、そそり立つ岩の間を何本も川が流れています。 昔から交通の難所として知られていましたが、中でも険しい崖をつたう鎖渡しとよばれる桟道は、命がけで渡らなければならない難所でした。 この難所で多くの命がうばわれることを聞いた禅海は、ここにトンネルを掘ろうと決心しました。 洞門を切り開くことに手をつけたのは、1720 (享保5)年で、禅海は50歳くらいでした。 ツチとノミを使ってただ一人で、禅海はトンネルを掘り進めました。 食べ物を買う金がなくなると、近所の村を托鉢 (たくはつ)してまわりました。 こうして30年、1750 (寛延3)年に、トンネルはついに完成しました。 この時、禅海は80歳になっていました。 このトンネルは長さ約200メートル、高さ6メートル、幅9メートルで、ところどころに明りとりの窓がついています。 洞門の中の岩肌には、たくさんのノミのあとが残っていて、禅海が30年もコツコツと岩をうがった苦心のあとが、よくわかります。 小説ですから事実とちがったところもかなりありますが、洞門を掘る苦心がよく描かれ、感動的な作品となっています。 みなさんも高校生になったら、ぜひ読んでほしいと思います。 ( 注=菊池寛はその後、小説の雑誌を創刊し多くの作家を育成した。 今も毎年ニュースになる芥川賞、直木賞は、彼が作ったものである。 芥川龍之介、直木三十五(さんじゅうご)は当時の流行作家。 富士の火山灰におおわれた箱根山の西側は、いつも水が不足していて、毎年のように旱魃 (かんばつ)におそわれていました。 そこで村人たちは、名主の大庭源之丞を中心に、芦の湖の水を引いて灌漑 (かんがい)を行なおうという計画をたてました。 しかし水を引くには、箱根山の外輪山の一つ、湖尻峠の下にトンネルを掘らなければならないので、莫大な費用を必要としました。 それを助けたのが、江戸浅草の町人友野与右衛門でした。 友野はこの計画を聞いて心をうたれ、資金をだして工事の元締めとなったのでした。 その頃、日本の各地ではさかんに新田の開発が行なわれ、幕府や大名たちは、用水つくりや治水工事に力をいれていました。 箱根用水もその一つでしたが、幕府や大名の力をかりずに、農民や町人の力でつ苦労としたところが、大きな違いでした。 このため、なかなか工事の許可がおりませんでしたが、箱根神社の快長 (かいちょう)という僧が友野や大庭を助け、幕府や小田原藩、沼津藩にかけあった結果、やっと許可がおり、1665 (寛文5)年に工事が開始されました。 総工費7,355両、作業人員のべ83万人という大工事でしたから、元締めの友野は金集めに大変苦労しました。 幕府も、あの手この手を使って、嫌がらせをしました。 しかし友野は家をはじめ、持ち物をいっさい売りはらって金にかえ、最後まで工事に身も心も捧げつくしました。 芦の湖の西北の端から掘り進んできた東の組と、富士の麓の深良村から掘り進んできた西の組とが、湖尻峠の真下の地底で連絡したのは、1690 (寛文10)年2月25日のことでした。 東側から入った友野のツルハシで、ついに箱根用水のトンネルは貫通しました。 西側から入った名主の大庭が、友野のもとにかけより、二人は手をとりあってよろこび、そして泣きました。 トンネルの長さは、1. 28キロもあり、当時はもちろんのことその後200年、明治になるまで箱根用水のトンネルは、日本最長のトンネルでした。 この長いトンネルを、ノミとツルハシだけを使って、わずか5年で完成させたのです。 そのうえ、どのように測量したのかはわかりませんが、東と西から同時に掘りぬいていって、峠の下でほぼぴったりあわせた技術は、おどろくべきものです。 芦の湖 (あしのこ)の水が水路トンネルと掘割を通って、はじめて箱根山の西の村に流れだしたのは、同じ年の4月25日でした。 この灌漑用水は、数100ヘクタールの土地を、やがて見事な水田に変えました。 友野与右衛門が理由もなく、役人にめしとられたのは、それからまもなくでした。 石の牢に閉じ込められた友野は、二度と村を見ることなく、牢の中で死んでいきました。 しかし現在でも、芦の湖の水は彼のつくったトンネルを通って、東から西へと流れつづけています。 多くの山脈や山地が、縱横につらなり、海岸にまでのびています。 このため、日本の鉄道は、トンネルの多いことが、一つの特色となっています。 1966 (昭和41)年現在、国鉄のトンネルを全部つながあわせると約1,039キロになり、東京から鹿児島本線の海老津駅付近までの距離になります。 明治維新後まもなく、日本でも鉄道の建設が始まりましたが、山がちの日本に鉄道を建設する場合、トンネル工事はもっとも重要な仕事の一つでした。 では日本ではじめて鉄道トンネルが掘られたのはいつでしょうか。 日本のトンネル第一号は、1,873 (明治6)年に、大阪と神戸の間にできた、長さ61メートルの 石屋川トンネルです。 これはイギリス人技師によってつくられたもので、川の底に掘られた水底トンネルでした。 掘り方はバビロンの水底トンネルのように、川の水を一時ほかへ移し、上から溝を掘ってつくったものです。 この工法を開さく式といいます。 ただし石屋川は普通の川と違い、現在の東京の荒川のように、街並みより高いところを流れている高い堤防のある川でした。 ですからトンネルというよりも、ガードという感じがします。 日本最初の山岳トンネルは、1880 (明治13)年に完成した 逢坂山 (おうさかやま)トンネルです。 京都と大津の間の逢坂山に掘られたもので、長さは665メートル、高さと幅はともに4. 25メートル、形は馬てい型 (馬のヒズメの型)でした。 日本の鉄道トンネル第一号 石屋川トンネル このトンネルは、日本人技師の手でうまれた第一号トンネルでもありました。 しかも20ヵ月という、おどろくべき早さで貫通させました。 掘り方は切り羽の部分を三つにわけ、まず天井の部分を掘り進める工法をとりました。 このように導坑を上にとる工法を頂設導坑式といいますが、これについてはのちにくわしくお話ししましょう。 またトンネル内部の壁はレンガで巻き、トンネルの入口は花崗岩を積んでつくりあげました。 なおこの逢坂山トンネルは、のちに新逢坂山トンネルができたため、今は使われていません。 火薬やダイナマイトがはじめて使われたのは、1884 (明治17)年に4年の月日をかけて完成した、北陸本線の柳ヶ瀬トンネルが掘られたときです。 全長1,352メートルで、日本人技師の手による第二号トンネルでした。 鉄道がのびるとともに、掘られるトンネルの数も多くなり、日本のトンネルを掘る技術は、著しい進歩をとげました。 その中でも、 完成までに16年かかった丹那トンネルの工事は、世界トンネル史上に残る難工事でした。 その頃はこのようにしてトンネルを掘った ****************************************.

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